時空の漂白 7 PDF (2005年2月28日)
次回の準備体操 谷 弘一
庭に鶸が一羽やってきた。山鳩より小柄だが、目の嘴も鋭角的で山鳩よりも精悍な感がする。でも、百舌のように荒らしい感じはない。風格のある鳥だ。昨年、秋か夏の終わりだったかにやってきた時は、5、6羽連れ立ってやってきた。しかし、この季節は群れを作らないようだ。
ガラス戸越しに見ていると、庭に降り立つと芝の上を丹念に啄ばんでいた。冬だから虫も少ないのだろう。暫くすると飛び去って行った。
翌日、朝、同じ頃にまた一羽でやってきた。多分、同じで鶸だ。今度は、双眼鏡を窓際に用意していた。ゆっくりケースから取り出して焦点を合わせ、ガラス戸越しにじっくりと観察した。手ぶれ自動補正の高級双眼鏡である。
それに、椿を綺麗に剪定してあるから、鶸の動きが手にとるように見える。10メーターも離れてはいない。鶸は、椿の木の枝の間を飛び移りながら、花の中に嘴を差し入れてまめに蜜を漁っている。それにしても、椿の花に比べると大きな図体である。
ひこひこと飛び回っては、むずと枝を掴んで無造作に花に嘴を突っ込んでいる。花を散らしはしないかとはらはらする。暫くして、鶸は、嘴を真上に突き出して、下向きに咲いた赤い椿の花を拝むように姿勢を変えると、枝に足を掛けず、羽を小刻みに動かし、空中停止 ――― ホバリング(hovering)して蜜踊りを始めた。
小さなハチドリではない。その数倍の図体の鶸である。椿の花よりずっと大きな図体で、可憐に羽を震わせている鶸に見とれた。まるで、椿を称えて全身を震わせて小躍りしている体である。我が「時空の漂泊」も四次元空間で、この鶸のように華麗にホバリングすれば、芳醇な記憶の蜜集めが出来るのかもしれない。
そう思ったら、これまでの我が「時空の漂泊」の作業を振り返りたくなった。昨年末から3回にわたる「時空の漂泊」という脳内作業がどんなものだったかを自分なりに追求し、整理したくなった。次回の準備体操にしよう。
「記憶空間」と「認識球面」
私が彷徨ってきた「時空の漂泊」の舞台の「記憶空間」は、確かに物理的は三次元の脳の中に存在する。しかし、私の認識の中では、「記憶空間」は時間軸を含む四次元世界を構成していて、時間軸を半径とする球体のようなもののように思われる。
もとより養老孟司氏のような解剖学者でもなければ、流行りの脳科学者でもないから、全てが素人の手探りの観察である。ここのところも「時空の漂泊」の独壇場である。
この四次元の「記憶空間」の事象を認識するということは、それを直接、認識するのではなく、先ず、時間軸を固定する認識作業があって、その時間軸に重ねられた三次元の「認識球面」に「記憶空間」の事象を投影(写像)する作業のように思われる。
この「認識球面」は遥か上空から富士山やエベレストを眺めるようなもので、四次元の「記憶空間」の事象は、先ず、ただ球面上の濃淡や色合いの違いで示される形状として現れる。認識される四次元の「記憶空間」は、垂直な法線の時間軸に沿って、三次元の「認識球面」が幾重にも重なっているようなもののように思われる。
しかも、これらは普遍的なものではない。その存在基盤である脳の持ち主のDNAに、個人の体験や経験など堅苦しく言えば学習効果がプラスして変玄自在になるものだから、一層厄介である。
さらに付け加えれば、個人々の「記憶空間」とは別に、外部に書物などの形で、蓄積してきている「歴史」がある。個々の人の「記憶空間」の働きと、複数の人の「記憶空間」が共鳴しあう働きによって、時間的空間的な存在である人類が考えて作り上げてきたものである。
あえて数学的に捉えると、個人々の「記憶空間」あるいは「認識球面」の「集合(B)」と、書物などの形で外部に存在する客観的というか普遍的と言われるもの(もっとも、それ自体が本当は、その生い立ちを考えると、バイアスがあって「真実」とは違うとは思うのだが)いわゆる「歴史」という「集合(A)」とは、それぞれの一部である「共通集合」でしか結びついていない。
これにもう一人、別の個人を加えれば、重なり合う「共通集合」は、狭いものとなる。人数が増えれば増えるほど、「共通集合」の部分が減少する。考え始めるときりがない。
しかし、単純に、いち個人に戻り、その「記憶空間」を考えると、その構造は意外に単純なもののように思われる。お菓子のバームクーヘンの木目にあたる層、「認識曲面」を半透明にし、それを球体にしたようなもの ――― たくさんの半透明の層が何重にも重なり合った球体が個人々の「記憶空間」のように思われる。
この球体の中を、透明の層を貫きながら自在に動き回るのが、多分「時空の漂泊」なのだろう。鶸みたいに、ホバリングしたりしながら脳内の四次元の「記憶空間」を飛び回るのである。
「時空の漂泊」とは、多層の透明な「認識球面」で構成される球体の中をあてどなく、「連想」の縄梯子や吊り橋や蜘蛛の糸を頼りに漂うことなのだろう。鶸の巧みな羽使いの代わりになるのは「連想」の縄梯子や吊り橋や蜘蛛の糸である。
ところが、この「連想」の糸が曲者だと思う。その正体についてはここでは素通りするけれど、ともかく、この「連想」の糸がなければ、「記憶空間」を旅することはできない。「記憶空間」に進入することもできない。「連想」の糸につかまって無重力の「記憶空間」を旅することから「時空の漂泊」は始まる。
もっとも「記憶空間」の実体は実にあやふやである。そのコンテンツを書物などの形で蓄積されている外部の情報で再確認してみると、この「記憶空間」の中の「認識球面」は歪み、重なったり逆転していたりする。時間が前後し、「認識球面」がせり上がっていたり、すとんと落ち込んでいたりしている。
随分と気持ち良く移動したと思っていたら同じ所をさ迷っており、元の場所にどうしても戻れないこともある。
この「記憶空間」を覗くと、雲のような記憶の塊らしいものがふわふわといくつも浮かんでいる。濃淡の斑のようにも見える。幾重にも透明な層をなした球面上に広がった雲の島模様を想像してほしい。しかも、それは同じ球面にくっきりと浮き彫りになっている訳ではない。その中に、連想の糸に操られ、揺られながら入って行くと、鈍く光った記憶のコンテンツが見えてくる。銀河系宇宙の中に星の塊を見つけるような感じである。
「時空の漂泊」の原点は、この球体の記憶の雲の中を無重力状態で往来する浮遊感と、その雲の中に記憶の星の塊を見つける醍醐味かもしれない。飛翔している訳ではないが、星が見えてくる楽しみである。
時代を隔てた記憶の星たちが、連想の糸に手繰り寄せられ、雲の晴れ間に映し出され、万華鏡のように見えたりする。
この「記憶空間」への出入りは自由自在である。時には「記憶」のコンテンツを確かめたくなって、「記憶空間」の遊泳を中断し、外に脱出し、友人に電話したり、文献を渉猟したりして「記憶」を確かめたりもする。「外部情報」の取り込み作業である。しかも「外部情報」を漁っていると、突然、連想の糸が絡み付き、出てきた所とは全く別の脳内の「記憶空間」に引き戻されてしまうこともある。
「アボリジニ」(aborigine)
記述するということは、「記憶空間」と「外部情報」との間を連想の糸に操られて「時空の漂泊」を行い、まるで「飛び杼」(flying shuttle)のように往来しながら、何かの脈絡でメッセージを紡いで織物を織り上げ、さらにそれを文字に直すという作業のように思われる。どうも脳内の白いカンバスに気楽に絵を描いて、それを文字にしているのではなさそうである。
脳内に、糸紬や機織りなどの道具が揃っているのかも知れない。それは生まれると同時にセットされるのではなく、混沌の中から徐々に組み立てられ、絶えずどこかが壊れ、修繕や改修が行われる。だからこの「脳内繊維機械」は、当然、個人々で異なるように思われる。
その「脳内繊維機械」が連想の糸を縦糸に、記憶や「外部情報」を横糸にして、様々な模様を織り込みながら織物を作り上げていくのだろう。糸の紡ぎ方も、集めるメッセージやメッセージの集め方も、個人によって異なるだろうから、出来上がる織物は人の数以上に多種多様なものになるだろう。
しかも、それを記述するとなると、必然的に誰かを相手にする、誰かに語る、読者や観客を意識するという要素が加わってくる。そうなると、鶸みたいに、枝に掴まらずホバリングしながら蜜を吸い出すような隠し技をたまには披露したくもなる。スパンコールやビーズや宝石なども織り込んでみたくもなるだろう。
そんな行為の結果、記述されたものが、大きく分類すると、専門書になったり、小説になったり、報道になったり、エッセイになったり、詩や歌になったりするのだろう。
もっとも、我が「時空の漂泊」の旅行記は、これらとはやや趣を異にすると思う。ともかく明確な目標とか目的がないのである。だから、思わぬ模様が浮かんできて面白いとも言える。
目標や目的の裏に透けて見える新鮮味のない意図や織模様の陳腐さや、あるいは進歩や近代化を標榜しながら想像力を掻き立てない「語り」に自分自身が辟易し、「時空の漂泊」に救いを求めているのかもしれない。
もう少し解説を続けると、目的を持った「脳内作業」では、沸き上がる様々な連想の糸を整理してしまうから、形は整っているが模様はどうしても単純になってしまうように思う。我が「時空の漂泊」を基準にすると嘘っぽいのである。
専門領域の「脳内作業」については、教育や訓練によって、連想の枝は剪定され織模様は整えられるようになる。専門領域については、よく「木ばかりを見て森を見ない」という難癖が付くことが多い。その通りである。森を見ていては専門領域に留まっていることは出来ないだろう。
それに対して、我が「時空の漂泊」では、この専門領域という限定を外すから、木は歪んでいたり根っこが枝に生えたり、花の盛りに一緒に実がなっていたり、枯れ枝が花を付けたりする。
虫眼鏡で枯葉や蟻の顔を眺めたり、土竜の巣に入っていったり、時には専門家をこけにしたりする。唐突で脈絡がなく、オーストラリア原住民、アボリジニが描く模様のように始めも終わりも定かではなかったりもする。
そう、アボリジニの模様は一見に値する。是非、確かめて欲しい。上下や左右を対称にしたり、一定のモチーフを繰り返したりするアラビアや西洋風の模様とも、自然を写した日本や東洋風の模様とも違う。奇怪な混沌を絵にしたようでいながら、心に訴える新鮮な趣がある。
これに比べると、我が「時空に漂泊」の模様は、長い間、受けてきた教育の「お陰」で見劣りすることは否めない。それでも、何とか和服の模様を一歩くらいはみ出した「非論理」の世界が描ければというのが私の願いである。それをいじらしさいとでも感じていただければ幸いである。
というのも、アボリジニの模様が新鮮に映るのは、多分、既成のモノの考え方や仕分けの仕方、煎じ詰めれば近代が築き上げてきた評価体系が機能不全というか、活力を失ってきているせいであり、そうした蹉跌の思いを抱いていることが、我が「時空の漂泊」に染み込み、時に同時代の専門家の考え方に異を唱える姿勢が現れてくるように思えるからである。
ともかく今の私には、アボリジニの模様が新鮮で優しく映るのである。そして、長年にわたって近代の評価体系を頭にたたき込まれた自分が、今、なお、純粋アボリジニの模様が描けるとすれば、それは芸術活動―――その定義は別の機会にしたいが―――に近いと思う。「時空の漂泊」は自画自賛になるが未熟な芸術活動なのかもしれない。文字という記号を駆使して、これを組み合わせて行く文章化という厳密な作業を伴った、未完の芸術活動なのかもしれない。今のところは、こんな風に考えている。
連想の蜘蛛の糸に乗って、「記憶空間」を勝手に飛び出し、何かが堆積した世界に飛び込んでしまったのかもしれない。
(壺宙計画)