時空の漂白 71      PDF (2011年10月31日)

広島・里山便り(10)                高橋 滋

デジカメを始めて、10年になる。
フィルムの時代は、写真は運動会とか旅行とかの「出来事」ベースで撮影していた。

デジカメになって、身近なものを出会い頭(がしら)に撮る形になった。道端の花や蝶を何枚も撮るなどということは、それ以前は考えられないことだった。

たくさん撮っていると、人に見せたくなるようなものとか、名前を確かめたくなるものなどが出てくる。

「里山を歩こう」というメルマガは、広島のマルタン二号さんという方が運営されている。草津のNというハンドルネームで、家のそばで見られる帰化植物の写真を投稿しはじめたのは、2002、3年ごろだったと思う。

セイヨウヒキヨモギ(西洋引蓬)とか、マンテマ(写真1)などという聞いたこともない名前を確かめて面白がっていた。スミレ(菫)(写真2)を食草とするツマグロヒョウモンの幼虫を見つけたこともある。ヒルザキツキミソウのように、園芸植物として販売されているものも野生化している。(写真3)

家の周囲は昭和30年代に造成された埋め立て地(広島市商工センター)であり、自然の草木はもともと何もない。

埋め立ての土と一緒に運ばれたり、トラックについてきたりした「パイオニア」型の雑草が道路沿いや空き地に育っている。時には、群をなして咲き誇ることもあり、観察していると、なかなか興味深いものがあった。

デジカメの写真は時系列で保管するが、年末や正月に1年分の写真の中から良いものを選んで、スライドのようなものを作っている。2003年初めに廿日市市津田(当時は佐伯町)に土地を取得したあとは、ここへ出掛ける度に写真を撮るので、年間の話は、ほとんどが「佐伯ガーデンの1年」になってしまった。

2005年の状況について「時空の漂白」に紹介させて頂いた後、2006、7年については「佐伯ガーデンの日々2006〜2007」として、小屋の外回りの整備状況を追跡しながら季節の変化や園地でのガーデン仕事や野遊びなどの様子を取りまとめた。2009年については、昔の無声映画のように文字を入れて、「佐伯ガーデンの物語2009」として整理した。

そして昨年末から今年初めにかけては、再び「時空の漂白」に「里山を歩こう」として掲載させて頂いた。昨年は蝶類が非常に豊富で、蝶類についてもいろいろ観察できた年であった。そして取り分け見栄えの良いシーンが得られた時には、春先のツマキチョウ(褄黄蝶) ・モンキチョウ(紋黄蝶)から、11月の紅葉まで、いろいろご紹介させて頂いた。

そのオリジナル「2010 里山を歩こう」は、もっと多くのシーンが収録されたA4で71枚の「長尺」ものである。これはメルマガに投稿したものが元になっている文字入り写真集のようなものである。それが読みきりの続き物の形に生まれ変わって「時空の漂白」に掲載されてきている。

昨年の11月に工場を借りての家具製作を終了して、今年は自由時間が増えるはずであった。時間ができれば、「自然探訪」を増やして、今まで見られなかったものが観察できそうだ、と考えていた。いくつかの定点観測のスポットも構想した。そう思って、この「広島・里山便り」をスタートしたのだが、今年は、都合であまり出かけられなかったこともあるが、草花も蝶の出現も昨年以上のものがほとんど見られなかった。

柿などの果樹に「)りどし裏年うらどし」があるのは知られているが、山の樹木の花や実は「何年置なんねんおきき」ではなくて、花が咲く頃の気候、さらには花芽ができる頃の気候に影響を受ける。野の花も、草刈りの頻度や周りの植生の影響を受け、毎年、同じようには育たない。

植物があるから生きてゆける昆虫類も、それを食べる鳥も、様々な「影響の環」の中で増減しているのであろう。

前回も触れたが、今年は季節の移ろいがどうも変だ。10月も16日に東京で29.7度を観測したという。「50年ぶり」というから、間違いなく普通ではないだろう。

気象の異常は、植物や動物の生活に、様々な「波動」を与えているように思われる。気候と同じように動植物も戸惑っているようである。  今年は、ヒヨドリバナ(鵯花)やフジバカマ(藤袴)が空からも見えるように生育したので、紋様の鮮やかな大型タテハチョウのアサギマダラ(浅葱斑) の沢山の来訪を期待したのだが、観察できたのは2回だけあった。それも飛んでいたのはそれぞれ1匹(採集者は「1頭」と呼ぶ)だけであった。

この「広島・里山便り」で紹介するできた蝶類も先月のクロセセリチョウ(黒挵蝶) を見た1回きりで終わってしまった。

10月も後半になると気温が下がってきて、気持ちがぴりりと引き締まってくる。飛ぶ蝶は減り、咲く花も少なくなってくる。林間にはサラシナショウマ(晒菜升麻) が咲き(写真4)、シキミ(樒)の実 が付き(写真5)、園地でツワブキ(石蕗)やサザンカ(山茶花)などの晩秋の花が存在を主張するが(写真6、7)、今年の観察もここまでのようである。

「広島・里山便り」を始めたもう一つの要因(ドライバー)は、「私が歩き回っているのはかなり狭い範囲なのに、どうしてこんなに沢山の生き物がいるのだろうか?」という疑問をもう少し考えてみたい、ということがあった。

それまでの観察で判っていたのは、佐伯の園地が林間と農地(開いたエリア)の境目にある、ということである。かなり大きな見栄えのするサラシナショウマ(晒菜升麻)も明るい草原のような所で咲いた訳ではない。大きな杉が並んでいて日が射し難いが、松が枯れて明るくなってきている所である。林地ではあるが外に向かって開いてゆく「林縁」である。

昨年紹介したアキノタムラソウ(秋田村草)、ハンショウズル(半鐘蔓)、ツルリンドウ(蔓竜胆)などが咲くのも、ここである。ササユリ(笹百合)、コアジサイ(小紫陽花)、サワフタギ(沢蓋木)、ツリバナ(吊花)など、みな同じ所に育っている。

「林縁」はまた蝶も活動し易い場所である。蝶の中には樹木を食草とする種類も多いが、親が餌を見付けられる平原部との境は便利であり、また枝に羽根が当たったりしないので、飛び易いということもあると思う。日差しの多い「林縁」では樹木の花付きが多くなる。そういう所は花粉を運ぶ虫も多くなり、蝶も飛来する。

人工物の多い都会でもない、完全な田園でもない、森林地帯でもない ― 中山間地の林縁は生き物の多様化をサポートする場である。

私は、もう一つ、この辺り(大きく言えば西中国山地)の「地形」の複雑さがポイントではないかと感じていた。

最近何気なくて手にした「僕らの昆虫採集」(株式会社デコ)(写真8)という本の中で、養老孟司さんは、虫を見れば日本の土地の成り立ちが判るという。

養老さんは、ゾウムシ(象虫)の研究をされている。最近は中国四国地方を探索しているが、鳥取県の大山まで連続して分布しているある種のゾウムシの存在がプツンと空白になり、広島県の冠山で再び見られるようになる。「大昔、中国地方は海没していた時期がある。冠山(かんむりやま)付近は海没せず、大山の付近は孤島のようになっていたからではないか」という。

この指摘は、冠山かんむりやま付近の自然の複雑さ、多様性の一つの背景を上手く指摘していると思う。この地域の複雑な地形は長い時間をかけての造山運動や火山や風雨凍結による風化侵食などの積み重ねによってできてきたものである。その複雑性が、ここで生きる生き物の多様性を作ってきているのである。

日本の植生の分布図で、本州の中で西のほうに飛び地になっているのが西中国山地であり、ここは照葉樹林帯とブナの落葉樹林帯が両方ある所なのである。(図1)

実は、昨年の「里山を歩こう」のオリジナル原稿の最終部には、冠山かんむりやまのもう少し南西側にある「深谷峡ふかやきょう」を訪れた記事があった。深谷峡ふかやきょうは「冠山断層」に注ぎ込む渓谷であり、今年の5月に訪れた「寂地峡じゃくちきょう」とほとんど同じところに位置する。深谷峡ふかやきょうには、現在の川筋(瀬戸内海に流れ込む錦川の上流にあたる宇佐川)から150mほど上部に、河岸段丘の名残がある。(図2)

地図をよく読み込まないと判らないのだが、この河岸段丘は日本海に流れ込む一級河川「高津川」のかつての河床で、大きな地殻変動によって上流部を別の河川に奪われてしまった歴史を反映している。

こういうダイナミックな地形が生き物にも影響を与えているのではないか、と考えていたのである。

今年初めに体系的に地形のことを勉強して、多くのことを学んだ。また、その後、進化論の文献を読んで環境の変化がいかに多くの生物を滅亡させ、変化させてきたかを知った。生き残るすべを身に付けたものが生き残ってきている。

3月の震災は、プレート移動の暴力的な力をいやというほど教えてくれた。遺伝子に大きな影響を与える放射性の物質も広く飛散させてしまった。

「林の中のキノコも昆虫も、もちろん樹木も人間も、元を辿れば、みな同じものから生まれてきて、地球の変化のなかで生きてきている」という自然史の教えによって周囲を見渡すと、その多様性が非常に貴重なものに見えてくる。

TV番組風に言うと佐伯の園地に「異変」が生じている。10月は佐伯に十三回も出かけた。最初は、九月から続いている菜園のレイアウト変更の仕事だったが、その後、急ぎの用事が出てきたのである。

わが小屋は北向きに建てている。日当たりの良い所を花や野菜に充てるという配慮と、南側を向く花や樹木を小屋の中からでようという狙いである。北側は背の低い人工林だが、何本かの落葉樹があり、四季折々の変化が楽しみであった。  その広葉樹が刈り取られ、小さな平地が造成され、家が建つことになった。(写真9)

造成後に建つのは平屋ということだが、我が家から向こうの生活空間(南側)が丸見えとなってしまい、小屋での落ち着きはなくなりそうである。残念であるが、よくあることではある。2003年に物件を見た頃は、赤松や雑木ぼうぼうで、薄暗い所だったが、わが小屋が立ち、新しい家もできて、だいぶ様子が変わってきている。

対応として、先方の工事が始まる前に、境界部分に木を植え、フェンスに蔓ものを這わせて目隠しを作ることとした。また、進めてきた「リガーデン」を拡張して、花を作ってきたエリアを一部平地にして、やはり目隠しになる「東屋」を計画した。

久しぶりの木工になる「東屋」は正三角形のフレームを五角に繋げる一種の「スペースフレーム」で、以前、もらった使用を終えたものを利用して製作することにした。木部は腐り、金物だけ残っていたものを利用して作ることにした。

久しぶりにCADを使って寸法を検討し、紐で確認したり、模型を作ったりして、サイズや土台の高さなどを決定した。木材の買出し1日、加工1日、基礎にする松の切り出しと加工・据付1日、部材仕上げ・塗装・仮組み立て1日、細部調整・上部の桟設定1日と、天候のこと体力のこともあって、効率の悪い作業が続いたであったが、月末までに何とか形にすることができた。(写真10、11)

まだ夏野菜(ピーマン類 写真12)が終わらないこともあり、菜園部分の段々畑の形状出しは完了していないが、全体の位置・形状は確定した。(写真13)

デッキも追加する。東屋を覆うツルバラ(蔓薔薇)が育てばどうなるか、楽しみである。