時空の漂白 72      PDF (2011年11月29日)

広島・里山便り(11)                高橋 滋

生物学の本(「生物と無生物の間」、福岡伸一、講談社現代新書)を読んでいたら、シュレージンガーの名が出てきた。

 

懐かしい、というよりも、(個人的には)何か「いとわしい」ことを思い起こさせる名前である。量子力学——物理の教科書の最後に章立てされていて、理解が及ばなかった。オングストローム単位の空間で、陽子や中性子が「浮いている」状態が想像できなかった。

「わからない」という状況に直面して、つまずくような感覚があった。

よく文系の人が「物理・数学が判らなかった(だから理系には行かなかった)」という言い方をするが、「理系」の中にもグラデーションがあり、高度な理解への階段を登れなければ、高度な世界(たとえば量子力学や高次の数学の世界)を堪能できないのである。

現在、生物学の教科書を開くと、われわれが抱く「生き物」の常識からかなり離れたところから説明が始まる。例えば、8月に紹介した「キャンベル生物学」の第一部の冒頭の章は「化学の基本」であり、原子の構造からスタートしている。

実を言うと、ここ半年ほど、何回か「教科書」を開いているが、分子や細胞から入っていくのに、どうもついて行けなかった。

一時は取り組み(理解を進めること)を断念しかかったのだが、今月始めから「ミトコンドリアはどこからきたか(生命40億年を遡る)(黒岩常祥、NHKブックス)や福岡伸一のいくつかの本を読んで、目を開かれる思いがした。

その思いで「キャンベル生物学」を手に取ると、最近の生物学の発展の基礎が「分子生物学」にあったことが理解でき、すべての生物学教の科書が細胞の解説からスタートしていることも納得できる。

シュレージンガーがダブリンにおいて「生命とは何か」という講演を行ったのは1943年で、翌年、同じ題で書籍として出版された。副題は「物理的に見た生細胞」で、理論物理学の立場から「原子のサイズから見ると非常に大きな物質である」生物の構造とダイナミズムを探求している。生物を分子から見て、物理学と化学で説明するアプローチは、この本によって切り開かれたとされる。1951年に岩波新書で紹介され、1975年に改版され、2008年には岩波文庫で再登場している。

この時点で、生物の基本単位が細胞で、その中に核があり、染色体があり、生殖にあたって染色体が減数分裂して、あたらしい生命になることは理解されていた。メンデルが明らかにした「遺伝」の法則も理解され、何らかの「遺伝子」が親から子へ伝えられこともわかっていた。ただ、遺伝情報がどのような物体どのように乗っているのかは解明されていなかった。シュレージンガーは、その「物体」がどのようなものか、理論的に推測した。

私が中学の頃、クラブ活動(生物部)の先生が「遺伝物質を運んでいるのは、デオキシリボ核酸という高分子である」と板書し、これは画期的な発見であると説明した。

この折に、DNA(Deoxyribonucleic acid)という略語が使われたか、二重のらせん構造の説明があったのかなど細かいことは覚えてはいない。

中学2年だとすると昭和34年(1959年)のことで、ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの構造を明らかにした1953年から見れば後のことだが、まだノーベル賞をとる時(1962年)よりも前だった。

伝統的な生物学を学んできた先生からすれば、「これからはいろいろなことが解明されるぞ」との思いだったろう。そのピリッとした口調が記憶に残っている。

デオキシリボ核酸ということばはよほど鮮烈だったみえ、私の記憶の壁にぺたりと張り付いて、終生離れようとしない。

後になって、健康のために運動をするようになって覚えたアデノシン三燐酸ATP Adenosine Triphosphate、エネルギーの運搬役)がしばしば記憶の落ち葉の底に埋まるのと対照的である。(念のために付け加えるが、人間の記憶はコンピューターの記憶素子のように不動の物質ないし状態としてストアされているのではなく、思い出すごとに回路が活動して像を結ぶとのことである。写真を探し出すように思い出すのではないらしい)

DNAは、リン酸と糖(デオキシリボース)が鎖のようにつながって柱となり、それぞれの糖から四種の塩基がぶら下がっている高分子である。(正確に言えば、「リン酸と糖と塩基からなるヌクレオチドというモノマーがつながってポリマーとなっている」)

2本の柱の間に対になった塩基がはしごの踏み台のようにつながり、それらがねじれてらせん状になって安定している。塩基ごとに対になる塩基が決まっていて(A、T、G、C、4種のうち、AとT、GとCが必ず対になる)、踏み台のつながりがほどけて分離したあとに、それぞれのポリマーが新たな塩基を呼び寄せると、鋳型のように同じものが複製できる仕組みになっている。

生き物の基本構成はタンパク質で、ヒトの場合、数万の種類がある。すべてのタンパク質はいくつものアミノ酸がつながったものである。アミノ酸自身は20種類しかない。

DNAが生命の設計図と呼ばれるのは、3連の塩基が特定のアミノ酸を指定し(例えば、CGCがアルギニンとか)、その配列を規定することによって、タンパク質を指定できることによる。塩基のシーケンス(順序)があたかも暗号のように働いて、タンパク質の合成プロセスを進行させる。

様々な手法でこのことが解明され、コード化の原則がすべての生物で共通することが確認されて、生物学の世界観が一変したのであった。

進化論は菌が人間に変化してきたことを教えるが、感覚的にはなかなか理解できないことである。生物を分子に還元して、その動きから生き物を解釈すると、大腸菌もネズミもヒトも同じである、ということになる。そのキーになる物質の一つがDNAであったわけだ。

遺伝子の話は、「キャンベル生物学」でも3つの章が充てられている。現在の医療の最先端にも関連していて、非常に難しい話である。ここで深入りすることは本意ではない。主題は葉緑体である。

自然を観察していて、緑色の葉が持つ力、太陽光線を糖に変える力に驚かされる。すべての生き物は、植物の光合成能力に依存しており、その源泉は、葉緑体である。

私が、「ミトコンドリアはどこからきたか」を読んで「ああ、そうだったのだ」と思ったのは、細胞の中の主要器官の由来である。

 葉緑体はどのようにして光のエネルギーを糖という物質に変えるのか? と探索しようと思うと、まず右図のような葉緑体の構造が紹介される。

今年、初めてこの葉緑体の図を見た時、まず、チラコイドとかストロマという表現が障壁になってしまったのと同時に、なぜこのような構造になっているか、理解できなかった。

ミトコンドリア(葉緑体と同じように細胞の中にあり、エネルギーを使う器官)がそうであるように、葉緑体もそもそもは独立した(核のない)細菌が、進化のどこかの段階で、細胞の中に入り込んだものである。膜が二重になっているということは、細胞の外にあったものが内側にまくれ込んで、細胞の中に取り込まれたものである、ということを示す。

この説明は、非常に説得的であった。細胞というものは、卵の薄皮のように内部でその活動が自己完結する「部屋」のようなものではなく、内部と外部と一体になって物理的・化学的プロセスが繰り返される装置である。細胞膜と言ってもフィルムのようなものではなく、脂質が粒のようにつながっており、タンパク質がその脂質の海に氷山のように浮かび、流動し、細胞内外の物質の流通を調整している。

生物の進化は、そのような流動性の中で進んできたといえる。

葉緑体のチラコイド膜も、細胞膜と同じ働きをする。膜に集積した光化学反応の機能を持つクロロフィル(色素)が受け止めた光子のエネルギーによって水を分解し、電気のエネルギーに変え、そのエネルギーでATPを合成する(この過程で酸素を発生する)。

電気のエネルギーと、生成したATPの両方を使って、CO2から順次次元を上げた炭素の合成物をつくり、最終的にはグルコースC6H12O6を合成する。この工程は循環的に行われ、カルビン・ベンセン回路と呼ばれている。

これは図では反応は4段階で説明されているが、実際はもっと多段の反応が連鎖しており、その途中では様々なタンパク質や酵素が関与している。

一言で言えば「水と炭酸ガスから酸素と糖をつくる」ということなのだが、実際のプロセスは、このように、葉緑体の中で、電気的、化学的に連続して進行する。当然のことなのだが、外部の条件(例えば、日照、温度、湿度など)や、エネルギー利用のニーズなどと協調して進んでいる。(情報の交流が行われている。) そして、この生成物は、細胞間を伝わって体の各部に運ばれ、自体の生存・成長の基本物質となる。(物質が、細胞間を移動している。)

そのあたりの理解と説明をもう少し深めたいところだが、長くなる。このあたりでいったん打ち切っておく。

もし、炭酸ガスから直接デンプンやタンパク質を(低コストで)調達できれば、と多くの人たちが考えてきたことだろう。だが、樹木の構成物質(代表的には、セルロースやリグニン)から有用物資を引き出そうとした(バイオマス利用の)研究が実用化に結びつかないように、光合成のプロセスを人間が模倣して実用化するのは、遠いことのようだ。森林を維持し、生物の多様性を確保するほうが、本質的な道であるように思う。

と同時に、原生的な「菌」の世界をもっと大切にする―入り口的には理解を深める―ことの重要性を感じる。こう思ったせいか、図書館などでも、この関連の本が目に付く。子供の科学・サイエンスブック「菌類の世界」(誠文堂新光社、2011/7)など、大人も読める意欲的な出版である。

さて、11月という月。月初めの一週間は、広島市内で最高気温が平年よりも3度以上高く、夏日もあって(全国的には真夏日も報道された)、「秋が来ない」といわれた。

その後、2回ほど寒波が来て、月末には、11月相応の気温となった(ただし、乱高下の気配が残っている)。

廿日市市の津田は、広島市と比べて最高気温の差は二・五度程度だが、最低気温は六度近く低くなる(標高差は300m程度なのだが)。11月下旬になって氷点下の日が何回かあり、25日に訪れたときは、水桶に薄く氷が張っていた。

霜が降り、氷が張れば、園地は一挙に冬模様となる。今年の秋野菜は、園地の整備に手をとられて(というよりも「区画整理」の障害となるので植え付けを制限したので)、まともな収穫はダイコン程度しかない。夏に植えたジャガイモは芽を出すことがなかった。ほぼ一年がかりとなる(と言っても春に蒔く)落花生は、一応収穫できた。そして11月始めにタマネギを植え付けることで、今年の作業はほぼ終わっていた。

今年のスペシャリティ(特作)として作ったキビは九月はじめの台風で横倒しになって一遍で駄目になってしまい、少しだけ残し、収穫して乾かして置いておいた。

捨てるのも惜しいのでミルを使って脱穀したが、なかなか難しい。黄色く見えるのが、本来のキビの完成形である。

ソバも育てるのは簡単だが、実を取り、粉にするのは、なかなか苦労がいる。デパ地下などで雑穀類を売っているが、価格は高い。ソバ粉も単価は高い。米に比べると、手間隙のかかった高級品(贅沢品)になってしまっている。

前回、目の前に家が建つことを述べたが、建設が進んでいる。

追われるように、こちらもリフォームを進めた。南側の一部をツーバイフォーの二ユニット分(約半間)開け、採光および出入口にしようという考えである。

 1年程木工を休んでいるので、勘が戻らず、能率が悪い。ミスもある。しかし6日間ほど集中して、いったんけりをつけた。

立派な扉が何とか突貫仕事の面目を保っている。しかし、これは昨年の秋に工場を借りていた時に作ったものである(別の用途を想定していた)。機械がなければ、このような仕事はもうできそうにない。明るくなり、外の水場にも近いので便利になった。

朝の気温が5度を切ると、ストーブの出番である。今年の初めに木を切った志和の山から、薪を取ってきた。

志和の山は、以前は鬱蒼うっそうと木が茂って、夏は空が見えなかった。

今年の手入れで、すっきりとして、明るくなった。

コナラの小さな苗がたくさん生えてきている。もう少ししたら、様子が変わってくるだろう。

津田と志和の2つのサイトの距離は、おおよそ70㎞ある。志和のある東広島市は、「広島県のヘソ=重心」になるポイントを持っている。一方、津田は、少し走ると山口県である。広島県の半分ほどを移動することになる。薪を運ぶのは大変だが、森の恵みを無駄にしたくないという気持ちで頑張った。(山の材も、放置していると腐ってくる。)

秋口に「今年は炭を焼こうかな」という気持ちが生じたのだが(炭にすると、かなり体積が減らせる)、園地・小屋のリフォームで、手がとれなかった。せめて、ストーブで利用しようとの思いである。(炭焼きの装置は10年ほど前に作り、2、3回使って、その後、使う機会がなかった。もう1回使ってみたいと思っている。)

今年は、気温の低下がうまく進まず、紅葉についてはよい話がなかった。津田の小屋の周辺の紅葉も、よくなかった。

林の中に、小さなカエデが精一杯色づいている。イロハモミジだと思う。よい色をしている。大きく育てば、存在感を示すことになりそうだ。

11月は、毎年、クリスマスツリーのようなクラフトを作る季節でもある。しkし、今年は追われるようで、その余裕がない。木工作業を横目に、家内が小さな飾りをつくった。但し、アウトドア用の飾りである。

古い写真を引き出してみると、なかなか再現し難い良い作品が出てきた。

12月に入ると何かと気ぜわしくなる。クラフトなどを楽しむ時間ができるだろうか。