時空の漂白 74 PDF (2011年12月22日)
広島・里山便り(12) 高橋 滋
今年の紅葉は悪かった。
山の方からも、広島市近傍では代表的な紅葉スポットである宮島からも良い話が聞こえてこなかった。
ところが、11月も押し詰まって12月に入ろうかという頃になって、市街地周辺の山の裾が綺麗に色付いてきた。
このあたりの落葉樹の中心木であるコナラの葉は秋が深まると茶色に変色してしまい、渋みはあるが、あまり綺麗な色にならないのが通例だった。今年はそれがかなり明るい色になり、場合によっては街路樹のケヤキのような黄色に近い色に変化した。葉の量も多く、盛り上がるようである。場所によっては、赤く色付く広葉樹(ヌルデやカエデなど)と一体になって、今までにない景色となった。
ただ、11月中は天候が定まらず、良い写真が撮れなかった。
12月4日、前日かなりの雨があって、つまり前線が通って、大陸からの乾燥した空気が下りて、空の透明度が上がった。
思い立って、山裾に立地する広島市の植物公園に行ってみる。背景の山(2月の「広島・里山便り」で触れた極楽寺山)は、それなりの様子を留めていた。
何度も述べたことだが、松が枯れ朽ちて、広葉樹が育ち、それが大きくなっている。あたかも県北(冷温帯)の落葉広葉樹林帯のような姿になっている所もある。
驚かされたのは、園内の景色である。広島市の植物公園は、もともとの地形を生かして、自然の樹木も残っている。池もある。その風景は里山の晩秋そのものであった。
季節ごとの樹木の様子を観察できるように計画的に植栽してあるエリアも狙い通りの様子であった。コミネカエデやコハウチワカエデなど赤みの濃いカエデ類を植えた一角はベストタイミングであった。
ブナなども植わる散策路には落葉が敷き詰められ、奥山の雰囲気を醸し出していた。
広島地方気象台発表の「植物季節」によると、イロハカエデ(イロハモミジ)の今年の紅葉日は11月28日となっている。
平年より8日遅く、昨年よりも4日遅いという。紅葉日とは、「対象とする植物の葉の色が大部分紅色系統の色に変わり、緑色系統の色がほとんど認められなくなった日」である。
今年は全体として季節が後倒しで進行したが、年末に至ってもその傾向が続いたことになる。
一方で、スイセン、タンポポなどが、1ヶ月以上早く咲いているという話がある。私の津田の園地でもピーマンが12月月中旬まで実を付け、近くのツバキ(植栽品)が咲き、クリスマスローズやヒュウガミズキなどがつぼみを膨らませている。
例年と異なる季節の移ろいが、植物の生育に混乱を与えているようだ。植物公園でも、菜の花(ハナナ)が咲いていた。
ところで、この「広島・里山便り」は、2011年1年間を記録するために開始したものであり、今回で一区切りとなる。今年初めに「広島・里山便り」を開始した背景には、前年の「2010里山便り」をもう少し深掘りしたいという気持ちがあった。
昨年一年間の自然観察の結果を通して振り振り返ってみると、自分でも驚くような「多様性」があった。その背景をもうすこし追いかけてみたいという気持ちがあった。この点については、この10月「時空の漂白」でレビューした。
それと、もう一つ追加して書いておきたいことがあった。
「時空の漂白」につたない文章を載せることになったきっかけは、2005年の「広島便り」であった。55歳で早期退職して職業訓練の一環で家具製作を学び、その流れで、小さな建物を廿日市市の津田(旧佐伯町)に建てた経緯を1年間、同時進行で掲載させてもらった。
形の上では小屋の建設記ではあったが、自分の中では、団塊の世代(の少し先行層)が、ビジネスライフを終了した後にどうやって過ごすのか手探りで探すセカンドライフ、シニアライフ探求の記録でもあった。
2005年の「広島便り」は11月11日の「その9」(「時空の漂白」第21号)が、本体建設が10月中旬にほぼ終了したことを記して最終回になっているが、実は、もう1回分の掲載機会を想定していた。
しかし「その9」がやや長く、トーン的にも最終回という感じだったので、そこ終了としまった。「その10」は「幻の原稿」として私のパソコンに残った。
2007年夏に「あれから2年」、昨年2010年夏に「あれから5年」を書いておいて、今さら2005年12月発表予定だった幻の「その10」を引き出すと、前後関係が乱れて分かり難くなるのだが、読み返すと、あのシリーズで訴えたかったことが凝縮されている。
今年の「広島・里山便り」は、「2010里山を歩こう」を深堀すると同時に、佐伯の園地での現時点での“擬似田舎暮らし”の様子を報告し、最後に「その10」を紹介することによって「大団円」を付けたいと考え開始した次第である。
2005年12月発表予定だった「その10」では、11月半ばに2回目の塗装が終了して本体の外作業が終結したことを報告した後、“本稿は、建築の素人が教科書を参考に住宅を自作するストーリーを軸にして「年寄りでもやればできる」ことを記し、今後増えてくる退職団塊世代の先行世代としての提案・心意気を示した。”と記した。そして次の通り書いた。
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ただ建物を造ることそのものが目的なのではなくて、ここで時間を過ごすこと、何かすることが本当の目的である。小屋の建設もその活動の一部であり「形ができて終わり」ということではない。
周辺を見渡すと仕事一本で生きてきて、その延長戦のように定年後の第二の人生に入ってゆく人が多い。それも良いけれども、「同じ人生なのだから、今までとは違ったことをやって見たら」と言いたいのである。やればできる、このような生き方もある、ということを纏めてみたかった。
もともとの計画では、遅くとも夏頃には作業の負荷が軽くなって、年末までには小屋での新しい生活 ---- 初回に述べた擬似田舎暮らし ----- が積み重なっているはずだった。
12月の最終回は、その報告をするつもりだった。しかし、思ったよりも時間がかかり、ウッドデッキなど未完成部分が多くて新しいステップには入れていない。田舎暮らしの報告はまたの機会としよう。
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これを受けて、外回りのしつらえが完成した2007年に2年間の経過を述べた。2006年、2007年は今思い返すと、家作り、庭造りが最も輝いていた時である。そして、その勤め(仕事)が終了すると、2008年4月からは家具製作中心の生活に入った。その様子については昨年、報告した。
2005年12月発表予定だった「その10」では次の通り書いた。
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長年、年度の区切りで生活してきた。1、2、3月を走るように過ごして、4月になって、「さあこれから新学期、新しいターム」というやりかたでずっと過ごしてきた。
それを、3年程前からカレンダー・ベースに切り替えている。確定申告など公的なものもカレンダー・ベースになっている。勤めから開放されれば、1年を1月から始めるのが自然である。年の終わりの12月を総括の月にして、1年を振り返り、1月から新しいパターンでスタートする。なかなか良いものである。これまでの習性からはすぐには抜け出せなかったが、ようやく馴染んできた。
今年は年初に“Slow and small, it‘s my life”というフレーズが浮かんだ。
それ以前3年ほど、親や姉の不幸が続いて、「死ぬまでには、棺に蓋をする時までには、生活をシンプルにしておかなければならない」ということを強く実感した。身の回りをシンプルにしなければならない。
ここまでずっと「生活は延びる、広がる」という方向で進んできたように思う。だが、親が死に、子供たちも家を離れて、ここからは、いわばゼロへ向かって収束させる段階である。そうであれば、身の回りに集まったものを順次整理し、物を買うことも控えよう。
そう思って、「シンプル」をキーワードに過ごしてきた。
それと同時に、一歩一歩ゆっくり歩みたい、その時間を大切にしたい、という気持ちも強くなってきた。
年を取れば人間としての活動水準(活性度水準)は否応もなく下がってくる。階段を一歩一歩降りてゆくようなものである。その先は永遠の休み所である。
どうせ下がるのなら、できるだけゆっくりと、年ごとの下がり代を少なくして過ごしたい。それが「スローライフ」なのではないか。それはまた「スモールライフ」と呼ぶこともできる。
シンプルに加えて、スローでスモール。スローガンや掛け声が好きな訳ではないが、自分では、良い組み合わせだと思った。
スローライフという言葉はここ数年よく見かけるようになった。書店の雑誌売り場に行くと、スローフード、スローライフを謳う小綺麗な雑誌がたくさん出ている。
私は、雑誌は人々(世相)の鏡だと思っている。時の流れを映し出す。
しかしまた、ややもすると、わが国では何事も一時のファッションとして消費されて、上澄みだけが食い散らかされ、流し去られてしまう傾向がある。
スローライフもそのように扱われることを懸念するが、現状では明らかに広く支持されるトレンドになっている。テレビ番組でも「人生の楽園」「十万円で暮せる町」といった番組が目立つようになっている。
その暮らし方は様々で、また、「田舎」に移住すれば良いというものでもない。
共通してあるのは、食べ物を当然のように捨てたり、プラスチックのゴミを毎日のように出したりする、という生活ではないということである。そのような暮らし方には、いつかしっぺ返しが来る。欲しくても手に入らなくなったり、価格が非常に上がったりするのではないだろうか。
一方的に多量に消費するのではなく、少しでもいいから衣食住の生産に寄与して、資源を有効に使うことを体で感じ取って、無駄遣いをしないこと、それがスモールライフである。
身近なものに工夫を加えて最大限の価値を引き出したり、何気ない現象から深い意味を汲み出して喜びを感じたりする営為とも言える。
本稿の2回目にちょっと触れたアリシア・ベイ=ローレルの「地球の上に生きる」は、アメリカの戦後の浪費社会への反抗(アンチテーゼ)としてのヒッピーのバイブルだった。彼女が目指したものは、そういう表現こそ使っていないが、スモールライフそのものだと思う。
佐伯の小屋での生活はまだ始まったばかりだが、これからスローライフ、スモールライフの実践・実現を目指して行きたいと思っている。
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昨年11月一杯で、工場を借りての木工生活(家具製作)を終了した(その理由は、昨年8月の「あれから5年」に記した。)今年は、その点からは「まったく自由になるはじめての年」であったのだが、この「広島・里山便り」に「スローライフ」を表出できたかどうかは、はなはだ心許ない。写真をひっくり返すと、こんなことがあったかと思う一枚が出てくる。作ったピザの写真である。
ご近所さんのソバ打ち姿などもあった。それも、ゆとりの姿かもしれない。
このようなシーンもあるにはあったが、やはり今年は天上から冷や水をかけ続けられた年であり、心の底から気持ちを和ませることは難しかった、と言わざをえないだろう。
子曰く、之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむも者に如かず。
楽しみの境地に達するには、もう少し時間を要するようだ。
12月20日。今月に入って8回目の佐伯行である。今月は、先月に続いて小屋の南側のリフォームの作業を行った。既存のパーゴラ(棚)に垂木を組んで、ポリカーボネートの波板を張る仕事である。たいした作業ではないのだが、元の構造がある分、かえって手間がかかるところがあった。前回までで主な作業は終わっており、今日は越年のための後始末である。
行く途中、ラジオが「県内では廿日市市の津田がもっとも寒くて六時現在マイナス4.6度」と言っている。県内に気温の測れるアメダスは18箇所あり、通常はもっと寒い所がある。今日は、県北は雲がかかってかえって気温が下がらなかったのかもしれない。
この日の津田の最低気温はマイナス5度であり、結局県内最低であった。広島市は1.3度であった。小屋の中もマイナス3度ほどになり、ガラスに霜がかかっている。このような光景は、昔はよく見られたが、最近の都市住宅では、室温がマイナスになることはないであろう。
3日ほど前には雪が降っており、屋根の効果を確かめたかったのだが、期待に反して雪は何も残っていなかった。
南側を開いて、明るくなった。屋根の効果はどうか。しばらく楽しみである。
水場の整理をした。小瀬川の源流に当たる渓流を堰き止めて小さな枡に貯め、50mほどホースで引っ張っている。雨の後は必ず砂が溜まり詰まるので、流しっぱなしにはできない。大雨になると堰き止めダムそのものが一杯になる。水量の増減はあるが枯れたことはない。有り難いことである。枡は4年使って、だいぶ瘠せてきた。来年は少し改良を加えて、やり直そうと思う。
毎年、越年を飾ってきたヒメツルソバのピンク色の花が今年は一つも見えない。雑草のようにはびこっていたフユシラズ(寒咲きキンレンカ)も見当たらない。はてなと考えるが、理由は判らない。
ゆるい日差しを浴びてアネモネが咲いている。クラブアップルも少しだが実を付けて色取りを添える。フユイチゴの実付きが大変良い。園地の周辺に沢山ある。背は低いが木である(木苺の一種である)。図鑑を見ると、食べられる、とある。雪が来る前に集めてジャムにでもしてみようか、と思った。