時空の漂白 75  PDF(2012年8月13日)   

海の物とも山の物ともつかぬ(完) 熱気球   西村一彦    

 

1785年6月15日  フランスからドーバー海峡、そして
 1999年3月21日  初の世界一周

人類最初の飛行人、ピラートル・ド・ロジェは1785年6月15日、彼が新たに考案した気球でドーバー海峡を超えようとしていた。この年の1月にブランシャールらによりドーバー海峡は越えられていたのだが、彼らはイギリスからフランス側に横断したので、ロジェはフランスからイギリスに向かって超えることを狙っていた。

彼の考案した気球はガス気球と熱気球を合体させたもので、両方の良いところ取りをしたと彼は考えていた。しかしながら水素を詰めた袋を下から火であぶるのはさすがに危険であった。はたせるかな、飛行中の気球は炎上、彼は墜落死し、はからずも人類最初の飛行人は人類最初の航空機による犠牲者となってしまった。

それから214年後の1999年、気球による世界一周飛行がなし遂げられた。信じられないかもしれないが、この時まで多くの挑戦者が気球による世界一周を企てたが、誰も成功できなかったのだ。成功できた最大の理由は冷戦の終了による緊張の緩和だが、気球の改良の成果も大きい。

これを成功させた気球は、あのロジェが考案したタイプの気球である。危険ということで長く忘れられていたこのタイプは、ガスを不燃性のヘリウムに変えることで、まさにロジェが考えた通りに良いとこ取りに成功したのだ。現在このタイプの気球はロジェ気球と呼ばれている。

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ではなぜロジェ気球が長距離飛行に適しているのか、説明する。気球は浮力を溜めることで空中に浮くわけだが、ではその浮力をどうやって得るかということで、熱気球は空気を暖めることで、ガス気球は水素などを使って浮力を得る。

熱気球の場合、空気を暖めてもやがてその暖かい空気は周りの冷たい空気によって冷やされてしまい、それにより浮力は失われてしまう。浮力を失わないため、バーナでプロパンガスなどを時々燃やしてやるが、それは結局燃料がある間のみの話となる。球皮を断熱性の高いものにすれば燃費は改善されるが、通常の我々の熱気球はプロパンガスを80㎏ほど積んで、そして浮いていられるのは約3時間である。

ガス気球では水素などの気体がじわじわと球皮から染み出してゆくことで徐々に浮力が失われる。だがその失われ方は熱気球よりもはるかに少ない。だからガス気球は通常、熱気球より長時間浮いていられる。それは一昼夜以上である。

しかしこの一昼夜というのが問題だ。昼間、ガスの入った球皮が太陽に照らされ、ガス温度が上がると、ガスは膨張し、まるで熱気球のように浮力を得て、なにもしないでいると1万メートル以上に気球は上昇してしまう。上がりすぎて人間が窒息したり、周りが低圧になるため球皮が膨らみすぎて破裂したり、緊急排出口からガスが放出されてしまったりする事態に陥る。

それで安全のためガスを少し逃がして浮力を下げる。さて日が沈むと今度はガス温度が下がり、急降下となる。これ以上高度を落としたくないとなれば、バラストとして積んでいる砂をやむなく捨てて気球を軽くする。そして次の日がくれば、すでに軽くなっている気球は、また太陽に照らされてガスが膨張して軽くなり、また高空に ………… というプロセスを繰り返すことになる。

このようにガス気球で一昼夜以上飛び続けるのはなかなか大変なことなのである。バラストの砂を使い切れば、それ以上、ガス気球は浮かび続けられないと、これまで説明してきた通りだ。

この昼夜の温度差の影響を小さくする工夫がされているのがロジェ気球である。夜間にほんのわずかプロパンガスを燃やして球皮内のガスを暖めることによって、浮力の変動を抑えることができる。もちろんプロパンガスは消費されるが、その消費量は通常のガス気球で、やむなく排出するガスの量に比べるとずいぶん少ない。

ベルトラン・ピカールとブライアン・ジョーンズが乗った気球「ブライトリング・オービター3」は、こうした機構を持つロジェ気球で、これが19日と21時間55分を浮かび続け、初めて世界一周に成功した。これはまったく驚異的なことであった。

気球による初の世界一周は大変な快挙であり、この機体を製作した英国カメロン社もエリザベス女王の訪問という大変な栄誉を受けた。

1978年 大西洋横断フライト
 1981年 太平洋横断フライト

大西洋を気球が初めて越えたのは1978年のことだ。このときの気球はガス気球で、4日間のフライトのあとアメリカからフランスに到達した。

ベン・アブルッツオ、マキシー・アンダーソン、ラリー・ニューマンの3人が乗った気球「ダブルイーグルⅡ」は現在アメリカのスミソニアン博物館にアポロ11号とともに展示されている。

次は太平洋だ、ということで1981年、彼らはガス気球「ダブルイーグルV」で横断した。このときはベン・アブルッツオ、ラリー・ニューマン、ロン・クラーク、ロッキー青木の4人が乗り込んだ。彼らは離陸場所を名古屋の南の長島温泉遊園地とし、大量の機材を運び込んで飛行準備をした。

筆者はこの気球見学に行った。写真はそのときのもので、残念ながらこの時は離陸の準備作業に不手際があり、離陸できずに終了した。それから半年後、再挑戦で無事離陸した気球は84時間をかけて太平洋を横断した。これが有人気球による初めての太平洋横断記録となった。

ガス気球ではない、熱気球で最初に太平洋を越えたのはパー・リンドストランドとリチャード・ブランソンの2人だ。リチャード・ブランソンはイギリスのバージン・アトランティック航空の会長である。

熱気球ということから、1991年に彼らは6トンのプロパンガスを積んで宮崎・都城を離陸、46時間後、1万900㎞を飛んでカナダに着陸した。冬場のジェット気流に乗り、気球は最高速度、時速385㎞を記録した。彼らの気球は普段私たちが使っている球皮とは違う球皮を使っていた。アルミ箔とナイロンを三重に張り合わせたものである。通常の球皮より重く高価であるが、断熱性がはるかに良く、長時間フライトに向いている。

ここで忘れてはならないのが神田道夫氏である。彼は日本人の気球乗りではめずらしい冒険志向であり、熱気球によって、

①     北アルプス越え初飛行
 ②     隠岐〜長野の長距離フライト
 ③     上海〜九州の長距離フライト
 ④     高度世界記録1万2910m
 ⑤     長距離世界記録 2366㎞
 ⑥     滞空時間世界記録50時間38分

を打ち立てた。

この神田道夫氏も太平洋越えに挑んだ。しかし、2008年の3度目の太平洋越えの挑戦中に消息不明となってしまった。

なお、次頁の写真は、1990年に彼と筆者とその仲間たちでエベレスト越えに挑んだときのものである。そこに私いた。チベット高原で好機を狙って3週間待機した後、離陸した。しかし、成功したものの、風の状況があまりよくなく途中で不時着。残念ながらエベレストを越えることはできなかった。

 

私自身は冒険と呼べるほどの飛行はしていないが、北アルプス、長野県の槍ヶ岳越えは冒険的だったといえるだろう。高度3500mで槍ヶ岳を足元に見ながらの飛行は、若干の恐怖を従えた美しい景色であった。

また別のフライトだが、山形県の出羽三山と鳥海山を見渡す奥山の飛行は荘厳であり、思わず手を合わせた。

冒険というほどのことではないが、いずれにしても、まだ気球が飛んだことのない場所(処女地)で最初の飛行人になることには、いろいろな面白さがある。

土地の大人や子供が大勢集まってきて、そして提供してくれる、見せてくれる笑顔は最高である。

1981年8月18日  瀬戸内海横断飛行

佐賀での気球大会が少しずつではあるが発展している状況で、角田正氏はもう一つのプラン、気球による瀬戸内海横断飛行を企てていた。この計画は広島大学熱気球クラブを作ったときからの彼の目標であった。

1975年、広島大学熱気球クラブ設立。1976年に熱気球を完成させ、1977年には自身がパイロットの資格を取得。私が熱気球クラブに入部した1979年には先輩方はパイロットトレーニングにいそしんでいる状態だった。だが、クラブの活動が特殊であることや先輩の精神的シゴきがきつく、同時入部の私の同期は去ってしまい、そのため計画されていた瀬戸内海横断飛行は人数不足で実施できなくなってしまった。

そこため私が2年生になった時から新入生の勧誘を活発化し、何とか部員を6名増やすことができた。

次の年の勧誘活動でも、さらに5名ほど部員を増やすことができた。部員減で自然消滅しかけていた広島大学熱気球クラブは瀬戸内海横断飛行が可能になるほどの規模に拡張した。

夏場の北海道遠征などで、1年生もだんだん気球の扱いに慣れてきていた。そして機が熟したと判断した角田正氏は瀬戸内海横断飛行を打ち上げ、準備に入った。

瀬戸内海を横断するにはおおまかに言って「北から南」と「南から北」の2つの飛び方が考えられる。横断に不可欠な安定した強い風として期待できるのは、まず冬場の北西風である。しかし、海に着水したときのことと、高松空港へ侵入してしまう可能性を考えると、これを利用するというアイデアは採用できなかった。

夏場のフライトとなると基本は南風なのだが、日によって不安定に変わるので直前にならないと飛行可能な風かどうかが決定できない。

それに夏場の西日本の田圃は青々としていて降りられそうな場所などない。しかも瀬戸内海上空には旅客機航路が設定されており、航空局の飛行許可は高度4000フィート(約1300m)まで。これ以上の高度には、瀬戸内海横断に都合の良い風があったとしても、昇ることはできない。

決行日を8月18日に決めたのは単なる偶然。マスコミに発表したら日程を聞かれたので、ギャンブルで鍛えた先輩のカンでその日にしたのだ。

もちろん気象条件などから当日中止があることは大前提なのだが、マスコミ各社が数機のヘリを手配してしまったので、ともかく中止しづらくなってしまった。

こうして勢いで離陸した気球は3時間40分かけて50㎞を飛行した。南風は期待よりも弱かったが、奇跡的に四国の今治から本州の福山まで飛行し、そして空き地にノートラブルで着陸することができた。

2006年  角田の死と映画「気球クラブ、その後」

角田正氏は3回目となる熱気球世界選手権の日本開催の準備に没頭していた。1989年、1997年の2回は佐賀で開催され、大成功を収めていたが、より新しいステージを求めて角田氏が選んだ場所が栃木県の茂木だった。この大会模様は第8回で紹介した。

角田氏はこの大会にかける意気込みとして、「自分の競技委員長としての集大成」を語っていた。世界のトップレベルの競技者たちを唸らせる競技設定、腕と勇気を併せ持つ者だけが結果を残せる山岳地帯の舞台。角田を良く知る海外の競技者たちもこの大会を心待ちにしていた。

悲報は大会開催二週間前に届いた。角田正氏が心筋梗塞で倒れたのだ。ハードワークがたたったようであった。全世界の気球乗りの願いもむなしくその3日後、角田は帰らぬ人となった。52歳だった。

世界選手権のほうは各関係者の努力でなんとか無事に終わることができたが、気球乗りたちの心にぽっかりあいた穴は塞がらなかった。

大会が終了して1ヶ月後、封切られた映画が園子温監督の「気球クラブ、その後」だ。かつての気球クラブのリーダーの突然の死、そのクラブに属していた若者たちが過ごした青春の甘酸っぱい出来事。そして気球のことしか頭にないリーダーと、中途半端な状態でいつも置いてきぼりにされていたリーダーの彼女。

最高の大会を開いてやると言っていた角田正氏の無念。私の20歳前後にもなった気球と角田正氏との思い出。うまくいっていなかった角田正氏の家庭関係—そういったことが全部一度に私の心の中から出てきて、涙が止まらなくなった。この映画は、まるで私たちのことを予期して作られたかのようだった。

残された私たちは気球で何ができるのだろうか。世界一周も成し遂げられており、もう気球での冒険飛行はテーマにはならないのだろうか。

否。まだ私たちにはやり残したこと、未開拓の領域がある。かつて人類を初めて空の世界に導いてくれたもの、それを信じて人生を賭けた先人たちの思い、それを応援してくれる市井の人々の気持ち。私たちは冒険を続けなくてはならない。物理法則を覆すことは無理でも、人間が作った常識なら変えられる。

そのようなもの、この「海のものとも山のものともつかぬもの」に出会えた人生に、私は感謝している。

 

参考図書

「日本気球連盟機関誌No.26」1981年
 「日本気球連盟機関誌No.63」1991年
 「最後の冒険家」石川直樹 集英社 2008年

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筆者紹介

 

西村一彦(にしむら かずひこ)

1960年生まれ(山口県岩国市)
1985年 広島大学工学部
第二類(電気系)卒

 本業はコンピュータ・ソフトウェア・エンジニア。独立系ソフトウェアハウスに勤務。大手企業などから受託した制御系、通信系のソフトウェアの研究開発などに従事。最近はCAM関係のソフトウェアの開発やカスタマイズが多い。趣味は熱気球の操縦。大学時代入学時に熱気球クラブに入部したことが契機で気球活動が始まった。最近の熱気球の飛行は2ヶ月に1回くらいと控えめ。