時空の漂白 76      PDF (2012年12月29日)

広島・里山便り(13)                高橋 滋  

今年のはじめ、近くのホームセンターで小型のまきストーブを見つけた。時計型の簡易なものや、ダルマ型のものを見ることはあったが、本格的な鋳鉄のストーブが扱われているのを見たのははじめてだった。

まきストーブは憧れだが、普通の家に簡単にすえつけることは出来ない。住宅地では、煙やススの問題がある。燃料の確保や保管も面倒なことである。新築に据えるのなら、ホームセンターの安物など買わないだろう。

しかし、お店はまきストーブがブームと見たのだろう、現物を置き、黒塗装の煙突などもならべていた。

2005年に廿日市の佐伯(津田)に作った小屋の西側の壁面には未完成のままの部分が残っていた。「石窯を作って、暖炉と兼用にする」という考えだったのだったが、その案になかなか弾みがつかなかった。石窯は相当量のレンガを要し(300㎏近く!)、暖炉との兼用は理論的にあわなかった(片や蓄熱、片や放熱!)。西側に火を扱えるスペースを増築する(かまどを作る!)という案もだいぶ検討し、基礎の準備までしたが、やはりその先が進まなかった。

ホームセンターで売られていたストーブはサイズ的にコンパクトで、煙突の配管もなんとか実現できそうだった。50㎏を越える表示重量にたじろいだが、持ち上げてみるとなんとか運べそうだった。2、3日迷っているうちに在庫一掃のセールとなり、値段は一段と下がり、2万3000円となり、これも縁だと思って購入した。

外側の工事は久しぶりの木工であった。常用することはないので耐熱の心配はあまり要らないが、それでも熱がかかるところである。「雨仕舞あまじまいい」もあるので、あまり安直には出来ない。苦労して温存してきた防水紙や古材も使い切って完成させた。7年近く未完のままだった西側の壁面がようやく綺麗になった。窓枠も塗り直した。飛び出した部分は、内側では暖炉のようになるところである。

完成したのはもう春になってからだったが、ためしに火を入れて、使い勝手を確認したり、周辺の温度の上がり方を見てみたりした。おさまりとしては、まずまずの出来となった。

まきストーブの前側は開くので、火加減をうまくやれば、オーブンのような使い方ができるのではないか、という期待も持てた。何よりも炎が見えるのが楽しみとなった。

昨年の夏から続けてきた園地の中央にある6×10mの「畑」の部分をもう少し整備しようという「リ・ガーデン」もようやく終了した。

その「畑」というのは基本的には菜園で、作付けごとに畦を立てていた。畦は東西方向に走り、緩やかな傾斜があった。

当初の「リ・ガーデン」構想は、この「畑」の部分を、各区画は平坦の四区画に段分けし、これにあわせてその北側(道路側)も少し整理しようというものだった。

しかし、昨年の夏、作業をはじめたところで、目の前の狭い敷地に家が建つことがわかった。

私の小屋に行くための道路の入口にはN建設という土建店があり、そこが一帯の自前の土地に家を建てきている。これまでに3軒が建てられていた。

このN建設の廃材や残土や重機などの一時置場として、私の敷地の北側を走る道路の奥地が使用されてきていた。奥はスギの人工林で、前にはシロモジ、カエデ、シバグリ、ウラジロノキ、コナラなどの落葉樹があり、折々の季節感が楽しめるという隣地だった。小屋の基本の向きを道路が走る北側にしたのも、一つには、この「借景」を楽しもうという狙いがあったからだ。写真は2003年の「借景」である。

ここに家が建つというのである。しかも別荘のような期間利用ではなく、地元の人の常住である。そこの敷地は狭いから、そこに建つ家と私の家との距離は近くならざるを得ない。しかも、私の家は、それと向かい合うようなるように建ててしまったものだから、これから雰囲気が壊れてしまうのは明確であった。

それで、いろいろと検討し、北側(道路側)の敷地利用計画を変更、「東屋あずまや」のスペースを確保し、道路際には目隠し用の生垣や塀を作ることにした。この作業は6月には一応形になった。やや分かり難いが、道路側に目隠しが並んでいるのが見える。7月に入ると、暖かくなり、前年に植えたツルバラも成長が進み、花も付け、「東屋あずまや」ともマッチし、雰囲気が出てきた。

「畑」が太陽光線を平面で享受するものだとすると、「ガーデン」には立体的にしつらえて太陽光線をボリューム(体積)で享受しようとする面があると理解した。「外圧」によって形作られた「リ・ガーデン」だったが、それによって新しい姿になった。

ちょうど陶芸や絵、木工の成果を展示して人を呼ぶというイベントがご近で行われることとなったので、“高橋ガーデン”と称し、人が立ち寄れるようにした。そして7月21日(土)・22日(日)の二日間、田舎の菜園、変じてガーデンとなる、

ということかなと思いつつ、来客の応接にいそしんだ。

道路際に、目隠しと生垣とが出来上がったのは2012年11月であった。この土地を求め、登記したのは2003年2月で、3月から「開墾」を始めた。それから間もなく満10年を迎える。

「開墾」に着手してしばらくはカヤや松の始末に手をとられた。それでも2004年には、畑となる中央部に土を入れ、基本の形状の整地が終わった。

荒地は「菜園」を経て、「ガーデン」に生まれ変わり、そして間もなく満10年を迎えようとしているのである。

しかし、この1年だけを振り返っても、相変わらず、いろいろな出来事が相次いる。今年の1月中旬、20年前に3年ほど住んだカリフォルニアに行った。ノースウェストのマイレージには有効期限がなく、その処理のための小旅行である。知る人ぞ知るノースウエスト航空の「不滅のマイレージ」である。

現役時代の海外出張の余禄が15万マイル近く残っていた。ノースウエスト航空は2010年1月にデルタ航空に統合され、姿を消したのだが、それでも若干減価したもののノースウエスト航空の「不滅のマイレージ」の特権は文字通り残った。「不老長寿も苦しいものだろう」といった人がいるが、「不滅のマイレージ」もなかなか扱いに困るものである。

いろいろ検討したが、自由旅行もなかなか大変で、良いプランが組めない。捨てるにすてられず、気にし続けていたが、羽田発着の手頃なフライトが見つかったので、モノ珍しさも手伝って、ついに「不滅のマイレージ」を消費したのである。

久しぶりのアメリカである。1ドル80円という為替レートに胸をときめかせたのだが、物価が上がっており、期待外れだった。しかし、デパートのNordstrom、チェーンストアのK-Mart、ディスカウントストアのTARGETなどは健在で、スーパーのVONSもまだ店舗を維持していたのには、驚かされてしまった。

改めて日本の変化が大きかったことを思い知らされた。日本では銀行の名前までもが何回も変わってしまった。

K-Martでは、ついつい植物の種を買ってしまった。日本でも手に入るものもあったが、いろいろ買った。その中に学名「チトニア」、英名「メキシカンサンフラワー」(メキシコヒマワリ)、があった。絵姿が良かった。

種袋には、高さ4〜6㌳になると表示されていた。帰国してインターネットで調べたら、高さ1〜2mになるとなっていた。しかし、実際に種を蒔いて育てたところ3m以上に育った。この仲間に皇帝ヒマワリという5mを越える高さに育つ品種がある。その血が混じっていたのかもしれない。

9月に九州に接近した台風のあおりで大風があり、茎は倒れなかったものの、大きく傾き、もろい枝は折れたりした。10月に入っても花は咲かず、「霜が来て、このまま咲かせずに終わるのかな」と案じていたら、10日頃から開花し、それなりの姿となった。

メキシコ中央部に栄えたアステカ王国(1428〜1521年)の国花だという。太陽神のシンボルらしく、空に向かって伸びる花はなかなか印象的だった。サイズも開花時期も笑いを誘う花だった。1ドル50セントでここまで楽しめるものは、なかなかないだろう。

ハロウィーンカボチャの種を蒔いたら、4個採れ、ランタンも作った。ハロウィーンが近づくと、黄色の皮のカボチャがスーパーにごろごろ並ぶ「アメリカの秋」の記憶が呼び戻された。

サルビア・インディゴスパイヤーも存在感を示した。アメリカで偶然に生まれた雑種で、片親はメキシコ産の背の高いサルビアらしい。中米地域は園芸植物の一つの「母国」だが、どうも背の高いのが育つ条件があるようだ。たった1株だが1メートル以上に育ち、初夏から秋遅くまで花をつけた。

一方、新たに設けられたメインとなる花壇では、これらK-Martで買い求めてきたいろいろな種から芽が出て、それが育って、そして花を付ける前に、まず春先の花の第一弾として一年草の花がそれなりに咲き揃った。

しかし、続いて初夏向けには、カンナとダリアを育てて、それでボリュームを作り上げるというコンセプトはうまくゆかなかった。花は咲いたものの、ボリュームが不足し、貧相だった。

もっとも良い切花ができたと思うことは何回かあった。

10年前、始めてここへ来たときは、まったくの山の中の荒れ地であった。 それを開墾し、菜園そしてガーデンとしたものの、同時に周囲もすっかり変わった。西側の木が植わっていた空き地は、N建設によって木が全部切り取られ、更地になってしまい、西日がまともに差し込み、冬の季節風が直接吹きつけるようになってしまった。

10年とはそういう時間なのかもしれない。現役時代においては、10年ごとに仕事は大きく変わった。そして、その度に大学時代に学んだ「10年コソリティ説」を思い起こした。

航空計器の講座を担当されていた佐貫亦男先生は、戦争中は日本楽器製造(ヤマハ)でプロペラの開発、戦後は気象庁で風速計の開発に携わっていたというユニークな経歴の持ち主で、その経験を踏まえて「10年間ひとつのことをしっかりやれば、オーソリティにはなれなくても、コソリティにはなれる」と授業中に何度か言われたものだった。

「コソリティ」という言葉を他で聞くことはなかったが、言い得て妙であると今でも思う。

10年という期間は職業生活時代の中では、3つか4つしか経験できない。その後のシニアライフでは、おそらく健康で過ごせる10年は1つか2つだろう。

私の佐伯の園地・小屋の生活も、間もなく満10年になる。ある高み(あるいは曲がり角)に到達し、一つの区切りを迎えるようになっている。ここから先2〜3年は平穏な水平飛行が楽しめそうな気がするが、それから先、どこかで下降航程に入ることになるのは必至である。そして、昨今は、そのタイミングや条件、そして着地のときの様子を考えるようになっている。平穏な水平飛行が楽しめるのは、最大で10年だろう。その頃には、この園地は、いったいどんな姿になっているだろうか。気が付くと、そんなことを考えているようになっている。

写真は南西の隅で、ヤマボウシ、スモークツリー、ジューンベリー(2本)、ヒュウガミズキ、ライラック(3本)、ベニマンサク、ロウバイ、サンショ、アジサイ(4本)、ブラックベリー、ブッドレア(3本)、ウメモドキ、ギンバイカ、チャ、サザンカ(4本)、オオヤマレンゲ、ウンナイオウバイなどが植わっており、あと数年たつと姿が大きく変わるゾーンである。また北側には、利休梅、ミニリンゴ、バラ、桜(御衣黄)のほか、マンサク、トキワマンサク(赤、白)、柿、夏ロウバイ、カシワバアジサイ、アナベル、サザンカなどが植わっている。 こちらも数年後には姿が変わってしまうゾーンである。

その前に、ともかく来年が良い年でありますようにお祈りします。 

高橋 滋 広島県森林インストラクター・
広島市里山整備士
1968年 東京大学工学部航空学科卒業


 1968年 東洋工業(株)(現マツダ(株)入社)

 以降、主として商品企画・経営企画部門。
電気自動車、都市交通システムの調査研究

中長期経営計画、商品計画
乗用車の基本設計、商品企画
、商品開発主査などを担当
この間、1988〜1991年、北米R&Dの副社長
として 商品企画・評価・人事・財務担当に従事。
2001年 商品企画ビジネス戦略本部副本部長を最後に早期退職
2002年 (財)広島市産業振興センター
・中小企業支援センタープロジェクトマネジャーに就任
2008年 退職 現在、広島県森林インストラクター・
広島市里山整備士として活動中