時空の漂白 78      PDF (2014年3月28日)

広島・里山便り(15)最終回                高橋 滋 

これまで「時空の漂白」にはいろいろ書いてきている。

初めは広島市の住人の私(当時59歳)が隣の廿日市市佐伯の山中に山小屋を建て上げるまでのお話し「広島便り ---- 山中の小屋作り(1〜9)」(2005年3〜11月)。しばらく置いて「広島便り ---- あれから5年(1〜2)」、続いて歩いた里山のいろいろな写真を紹介する「広島便り ----2010 里山を歩こう(1〜16)」である。

そして「広島・里山便り」である。第1回は3年以上も前になる「時空の漂白 第48号」(2011年2月8日)で、その中で東広島市志和町の盆地の南縁の二半反(2500平米)の山(傾斜地)での森林作業の様子を書いた。ここは80年代半ばに、山で子供たちと遊んでみたいと思って買ったものである。

最初の頃は梅などの果樹も植えた。子供たちが巣立った後も、枯れた松が近所の迷惑になるので、毎年冬に始末に出掛けていた。そして「広島・里山便り」を書き始めたのは、少し気合いを入れて中高木の伐採に取り組みだした年のことであった。

私は、冬は1996年購入のドイツ製のスチールという大型チェーンソーを使っての「森林の作業」——「志和の作業」と「佐伯の作業」を行ってきている。今年は、「志和の作業」と「佐伯の作業」が重なって、なかなか大変だった。

「志和の作業」を開始する前は、夏は空が見えない状態で、これにどこまで手が入れられるか分からなかったけれど、やり始めたら、その後、かなり力が入った。

今シーズンも10回ほど出かけ、今まで倒してきた木を処理した。昨年の初めと比べて、広い範囲が明るくなった。志和の伐採が加速したのは、鬱蒼として暗くなった森林に変化を与えてみたいという気持ちに加えて、採ったものが小屋の薪ストーブに使えるという“いいわけ”があった。

実際、薪も作った。ところが、佐伯の小屋の薪ストーブが思いのほか燃料を食わないので、申し訳ないが、山の木は山で燃やすことにした。今シーズンは、あらかた焚き火であった。

「頂上」と呼んでいた敷地の中で最も高い所は大きな松が数本枯れていて、もぐり込むことも難しかったが、ここも整理できて、境界線含め、敷地の全域を確認することができた。

1970年代までは松茸がいやというほどできる赤松の優先林だったと思われるが、松枯れが進んだ。毎年、何本かの枯れ松を取り除いて、ようやく、あと数本を残すのみとなった。

「果樹のゾーン」には、キウイ、林檎、梨なども植えたが、日当たりが完全ではなく、うまく育たなかった。梅、酢桃すももも寿命を迎えつつあるようだ。姫沙羅ひめしゃらはだいぶ大きくなった。佐伯から移植したカリンが育っている。

明るい斜面がだいぶ広がったので 栗の木三本と、山茱萸さんしゅゆを植えた。山茱萸さんしゅゆは、「広島・里山便り(2)」で触れたが、子供のころ住んでいた東京の世田谷の家に大きな木が2本あって印象が深い。その記憶から、広島に来てから何度か植えたが育たなかった。今回も「もし気候があえば育ちなさい」といった程度の気持ちだが、4年続いた整備の記念として植えつけた。栗は、まわりに山栗が何本もあるので、生育に適正ありと判断して植えた。

佐伯は、小屋作りの記録「広島便り ---- 山中の小屋作り」(2005年3〜11月)、「広島便り ---- 2010里山を歩こう」で紹介した、標高300〜400mの中山間地である。一見すると単純な植生のようだが、複雑な地形生成の歴史を背負って、種々の樹木や山野草が育ち、蝶や鳥も種類が多いところである。直接見ることは少ないが、テンなども生息している。

しかし、その佐伯の小屋の周辺の様子が大きく変わった。昨年、目の前の人工林に伐採が入って、大きな木が全部切られたのである。森林の作業は成育の止まる冬季に行うのが常識だが、ここは通年作業が行われていた。

やや分かり難いが、次のグーグル航空写真で、舗装路がT字に交叉するコーナーが私の佐伯の小屋と園地である。その図面である(園地のレイアウトはこの図からは変わっている)。我が家の東側(航空写真で右側)は林になっていて、冬など、敷地に日が当たり始めるのは十時過ぎである。

造成していない狭い山地だが、空木うつぎ黒文字くろもじ白文字しろもじ、萩、山桜などの小中木を借景としている。春先に春蘭しゅんらんが咲く。岩絡いわがらみという珍しい紫陽花あじさいが花を付けたこともある。小さい杉や檜も生えていて、小鳥の巣箱をかけたこともある。

小屋のすぐ南側は、我が家とほぼ同高の宅地である。分譲初期(1980年頃)には、オーナーが子供と一緒に遊んでいたらしい。自動車の入れ込み口と川へ下りる階段が残っている。子供用の金属バットなども「出土」した。私が敷地整備に着手した2003年頃は、一面の竹林だった。それが手を入れられ、今は野芝の生えた広場になっている。

 

不要になった樹木の逃がし場所として、鶯神楽うぐいすかぐら欧州楢おうしゅうならなどを植えた。山香やまこうばし、エゴノキ、藪空木やぶうつぎ、檜などが自然に生えている。航空写真でも緑地のようになっているのが分かる。

これらの南に、小川が流れている。もっとも航空写真では、はっきりとは識別できない。一級河川小瀬川の源流の一つとなる小渓谷で、傾斜があるので小さな滝が階段状になって続くカスケードになっている。日本庭園では「せせらぎ」が模されるが、ここは苔や羊歯しだなどの植生を含め、モデルとしたくなるような姿である。いつも見る度にすごいところだなあと思う。

この川の堤防の斜面、法面のりめんには、笹百合ささゆり小紫陽花こあじさい吊花つりばな沢蓋木さわふたぎ木五倍子きぶししきみ、紫式部などが生えており、一種の「河畔林かはんりん」の様相を示している。

今年は、川のほとりで蕗の薹ふきのとうを見つけた。はじめてのことで、黄緑色の色彩も、若いつぼみの香りと苦味も、春を知らせるものであった。

このあたりは、昔、土石流があったところと聞いている。戦中戦後、大型の台風が続いて、何回か大水が出た。特に昭和26年のルース台風は山口に上陸したこともあって、被害が大きかったようだ。その名残で、谷地だが、比較的平らになっている。

林は樹齢30年程度の杉、檜の人工林がメインとなっている。グーグル航空写真では、樹冠が写って緑が盛り上がっている。ここが伐採された。

広島県は「森林税」という森林整備の税金を1人当たり500円徴収していて、これが間伐などに回ってくる。これを使ってのことだと思うが、町の業者が請け負って、木を切ってゆくのである。杉は皆伐、檜は間伐された。根本の直径が六十センチ近い大きな杉と檜が何本かあったが、そして同じくらい大きな赤松もあったが、伐採された。楓や杉は皆伐、檜は間伐された。根本の直径が60センチ近い大きな杉と檜が何本かあったが、そして同じくらい大きな赤松もあったが、伐採された。楓や漉油こしあぶらなどの紅葉のきれいな落葉樹は、何本か切られたが「できるだけ残してくれ」と頼んだところ、残しておいてくれた。

目の前の斜面(上部の山から続く尾根のような山)も伐採された。その斜面(かなり急である)を登ると、一帯が見渡せるようになった。

こうした説明をいくらしても、これまでは、なかなか理解してもらえなかったけれど、今回、ようやく「全容」を示す写真を撮ることができた。

階段の部分でかなり下がっているのが分かるだろう。この部分が川である。荒っぽい仕事で、中木や杉・檜の大きな枝が乱雑に切り捨てられて、足を踏み入れることもできなかった。雪が残る中、時間をかけ、10回ほど片付け作業を行って、ようやく目処が立ってきたところである。

この林地には、黄花秋桐きばなあききり深山飯子みやまままこな菜などの野草があり、早く地面を出してやりたいという気持ちがあったのである。

自前の敷地は100坪であるが、上から見ると、全体では500坪あろうかという別荘地のような雰囲気になった。山がなくなったわけではないので、朝日が水平にさし込むところまでは行かないが、日当たりは非常によくなり、明るくなった。小屋からの景色は奥深くなり、一変した。新緑は間違いなくきれいだろう。その後、どのように植生が変わってゆくのか、非常に楽しみである。

この春は、ずっと「懸案」だった、「ビオトープ」(動植物が恒常的に生活できるように造成された小規模な生息空間)として池を造成した。これまでも、樽や水鉢などで水をあしらうなど、いろいろな案を検討したのだが、なかなか着手できなかった。今回、ようやく、写真のように決着させた。

「庭に水」は日本庭園ならずとも一つの「夢」だと思う。池の完成であれこれやることも一巡した感じがある。セメントの池は結構難しかった。ちょっとしたところから水が漏ってしまい、修正に時間がかかった。ネットを見ると、同じようなことが書いてあった。現在は、分厚いゴムのようなものを敷くのが主流となっている。

この3月で、以前勤めていた会社を私が辞めて丸13年になる。会社勤めは33年間だった。この会社勤めの期間は、結婚あり、家の購入あり、子供の養育あり、海外勤務ありと非常に中身があった。人生そのものだった。

そして、その半分近くになる期間を、シニアライフ(第二の人生)として、すでに暮らしてきたことになる。そう考えると、その「軽さ」「足の速さ」に忸怩じくじたるものもあるが、これは年齢相応のものだろう。

正直なところ、来年70歳になるのを前に体力の衰えは大きく、時間を定めての森林ボランティア活動など本当にはしんどくなった。この3月で、ボランティアの認定も返上した。「一日」といっても昼まで、「一年」といっても昔の半年、若い頃の3分の1だろう。それでいて、2年前、3年前が遠い過去のように思えるのである。 

「時空の漂泊」で紹介させて頂いてきたライフスタイルには、家具製作のように続かなかったものも入っている。しかし、そのようなものも含め、ここには、この13年間の「生き方」の大事な部分が凝縮されている。ここから先、どれだけ健康で過ごせるか分からない。何ができるかも分からない。ともかく一日一日をそのときに合わせてベストで、気持ちよく過ごす、ということしかない。そこでやること、その中身については、この13年間の記録の中に、手掛かり、足掛かりがあると思っている。

以上、広島からの近況です。長い間、つたない文章を読んで頂いて本当に有り難うございました。