わが青春の譜(8)(1/3)

山岡浩二郎

ヤンマー農機設立前後

康人副社長の決断

ヤンマー農機株式会社を発足させたことについては、「歯車の集中生産と卜ランスミッションの開発」の項でも少しふれた。ここでは、そのいきさつ等について、今一歩踏みこんで、書きとめておきたい。

戦後も昭和二十五年(一九五〇年)が過ぎて、敗戦直後の混乱期からようやく立ち直りのきざしが見えはじめた頃から、農業の分野でも、従来の足踏み脱穀機が動力脱穀機に変わる等、近代化、機械化の波が急速に押し寄せるようになってきた。それにともなって、ヤンマーの農業用エンジンの需要も、日増しに増加の一途をたどるようになった。だが、ディーゼルエンジンというのは動力源であって、エンジンそのものが作業をするわけではない。作業機があって、その作業機に動力を与えて、はじめて目的とする作業ができるようになるのである。したがって、この時点の市場では、特約店が各作業機メーカーから脱穀機、籾すき機、耕うん機などの農業機械を仕入れ、自分のところで、ディーゼルエンジンとベルト・プーリーをセットして販売するのが慣行になっていた。

一方、私は、昭和三十年(一九五五年)頃から、エンジンと作業機の調和を重視しなければならないと考えるようになり、トラクタをはじめディーゼルエンジンを原動力とする作業機の開発にたいへん興味をもって、世界中からトラクタを集めるなどしていたが、昭和三十年代に入って、ヤンマーのエンジンがユーザーの好評を得るにしたがい、ユーザーや特約店から、ヤンマーの農業機械を希望する声が高まるようになってきたのである。

こうして、ヤンマーもエンジンのみならず、エンジンと一体化した農業機械事業を経営の一つの柱とする機は熟したが、永年、エンジン一筋にやってきたヤンマーには、農業機械に対する技術・人材・設備がなかった。これらを一から整えるには、むろん多額の投資が必要になるし、先発メーカーに追いつくまでには相当の時間も要することだった。そこで浮かびあがったのが、既存のメーカーと提携、系列化することで、ヤンマーが母体となって、それぞれの優位性を生かせる新しい会社を設立するという案であった。

むろん、この新会社構想にいたるまでには、社内には賛否両論があり、議論も伯仲した。主なる反対意見のひとつは、「研究や開発をすすめる過程で、われわれのノウ(ウがとられるからダメだ」ということだった。

しかし、当時、ヤンマーの副社長だったのちの康人社長(孫吉社長の長男)は、物の見方・考え方がひじょうに柔軟なうえに、先を見通すことにも鋭敏な方だったから、自分の出身校である早稲田大学のクラスメートで、農用エンジン担当の営業役員だった河口実氏などとともに周囲を説得、

山岡康人二代社長

「いろいろと問題はあろうが、この際思いきってやろう」と決断されたのである。康人氏は社長になられてからも、私には「製造はお前に任すわ、しっかりやってくれよ」とよく言われたが、世界の流れ、日本の流れ、日本の将来ということに対して、実に敏捷な神経をもっておられた方であった。「将来は年寄りが増える、年寄りでも出来る農業が必要になる」という考えが、この会社設立の基礎にもはたらいてたのある。こうした考えは、何もこの場合に限ったことではなかった。「年寄りが息子、娘や孫といっしょに楽しめるようなゴルフ場をつくろうじゃないか」と、その頃はまだ誰もが想像しなかった発想で、昭和三十三年(一九五八年)に滋賀県栗東町にある琵琶湖カントリークラブを創設し、さらにこれとは別に三重県に近い信楽焼で有名な信楽町に、錦松が自然に生い茂った山地を数十万坪購入し、親子、孫が泊まりがけでゴルフを楽しめるような別荘付きのゴルフ場の建設計画を立て、それは着工するまでになっていたが、若くして急逝されその夢は実現しなかった。

康人社長(中央)の長浜工場巡視を案内する〔山岡浩二郎〕(左端)

当時を振り返ると、あの時康人副社長なくしては、今日のヤンマー農機は存在しなかったであろうと、私は固く信じている。