わが青春の譜(10)

山岡浩二郎

ヤンマーグループ初のアメリカ生産工場
TUFF TORQ CORPの設立

神崎工機では一九八〇年代に入ってから、小形トラクタ、ローントラクク、モア等に使用するトランスミッションを、「クフトルク」(TUFF TORQ)のブランドで広く海外のOEMに供給してきたが、幸いユーザーの評判もよく、これら製品における当社の技術力と品質は高く評価されるところとなっていた。なかでも米国とは、当社の親会社であるヤンマーディーゼル株式会社が世界一の農業機械メーカーであるジョンニアィア社とトラクタで業務提携をしており、深い繋がりがあった。

あるとき、私は、このジョンーディア社の購買部長だったマーテンス氏(現JDHWのジェネラルマネージャー)と技術部長だったレナード氏(現ワールドワイド・トラクタ開発担当役員)とミーティングをしていて、おおむね次のような発言をした。「ヤンマーの創業者である初代孫吉社長は、金持ちでない貧しい農家に、小形で経済性に富んだディーゼルエンジンを提供することで成功しました。時計の日本のトップメーカーであるセイコーは、若者をはじめ低所得者に喜ばれる安価な時計を、自社の高級品指向のイメージをダウンさせないよう、アルバというブランドで売り出して成功しました。使い勝手のよさ、手頃な値段というのは、規模・貧富の差に関係なく、ューザーからは喜ばれるものです。あなたの会社も、ユーザーの二五パーセントである大規模農業や金持ち層ばかりを対象にするのではなく、残る七五パーセントのユーザーに喜ばれるような製品をつくったらどうでしょうか。トランスミッションでは大いに協力しますよ」

うれしいことに、それからしばらくして、同社では、草刈り用を含めた小形トラクタの開発に力を入れはじめたのである。これらの製品は将来に向け、活発な需要が見込まれた。

そこで、私は、第一に、円=ドルレートの変動に影響されない安定した価格でューザーに製品が供給できること。第二に、ューザーニーズに的確に対応できる態勢が整えられること。第三は、さらにはバイアメリカンの現地の要望に応え、ひいては日米貿易問題にも対応できること、等の問題のクリアを条件に、米国への企業進出を決心し、ヤンマーに提言した。

ところが驚いたのは、ヤンマーの長浜工場でナップというプロジェクトチームを編成したので、てっきりここが主体となってアメリカに工場をつくるのかと思ったら、何のことはない、高くついて採算がとれないからやめましょうと社長に進言、とうとう中止に追いこんでしまったのである。

よし、それなら私がまだ七十歳で元気なうちに神崎工機で、アメリカに工場をつくってやろうと考え、淳男社長に申しあげたら、「たいへんだろうがやってみろ」と激励され、そこで勇躍、工場用地の確保から乗り出した。

工場の設立計画の過程で、もっとも慎重に検討を要したのは、どこに工場をつくるかということであった。物流、労働事情、気候条件等、工場建設の立地条件が揃わねばならないのはいうまでもない。用地物色中、テネシー州以外のいくつかの州政府からも熱心な勧誘を受けたが、私たちの調査チームはテネシー州政府から手に入れた資料によって、モーリスタウン市の存在を知り同地を訪問した。またその後、モーリスクウン商工会議所経済開発局のドライト・ネルソン氏がテネシー州経済地域開発局の幹部とともにわざわざ来日され、私たちの計画に協力するという申し出をされた。調査チームが数多くの候補地を調査したなかからテネシー州モーリスタウンをもっとも有望な候補地として選定したのは、最終的には現地調査とネルソンさんのミッションの話から、良質の労働力、交通の便、穏やかな気候等々、私たちの求めるものすべてが揃っているという調査結果を得たからであった。

なるほど、モーリスタウン市は州東部にある人口二万人ほどの小さな市であるが、丘陵地にもって風光明媚、閑静な田園都市で、しかも英国系移民の流れを汲む人たちが多く住んでいる、人情味豊かな土地柄である。私は調査チームの報告を受けて最終決定をくだす段階でこの地を訪れたが、何よりも私をしてこの地に工場建設をすることを決心させたのは、その折の市長をはじめとする市の幹部、商工会議所幹部の人たちの、協力的で信頼できる温かい心であった。そのとき私は、もう三十年の昔、滋賀県湖北の農村地域に、地元の人々の協力をえて、ヤンマーの農村精密工場、永原工場を建設したときのことを思い出した。

現地法人「TUFFタフ TORQトルク CORPRATIONコーポレーション」(略称TTC)の設立は平成元年(一九八九)七月。これはヤンマーグループでは初の米国生産拠点となった。会社の敷地は四万七千平方メートル。正面を入った玄関前には石庭を配し、敷地周囲には桜や楓を植えて環境の美化にも努めた。第一期工事では五千平方メートルの工場と事務所棟を建設、小規模生産からスタートしたが、このとき現地で従業員を募集したところ、私たちの事業に参画を希望してくれた応募者が採用予定人員の五十倍にも達したのには大いに驚いた。その後の募集の際も同様で、これら現地のアメリカ人従業員たちが日本から派遣されたスタッフとともに、現在も熱心に意欲的に仕事に励んでくれているのはうれしいことだ。

開設時のタフ・トルク・コーポレーション工場全景

生産は翌年一九九〇年一月から開始した。操業まもなく米国経済のリセッションに見舞われる等、厳しい一時期もあったが、親会社である神崎工機が開発したIHT( Integrated Hydrostatic Transaxle)の投入と、TTC営業部門の新規顧客の開拓によって、生産高は順調に伸び、採算面でも平成五年(一九九三)六月には黒字を計上できるまでに成長した。その間、操業からわずか三年目の一九九二年には、生産高では初年度と対比して七倍に達し、その成果に対し、はからずもテネシー州州知事から、「一九九二年度優良企業知事賞」を授与された。

タフ・トルク・コーポレーション開所式で挨拶をする〔山岡浩二郎〕(右端)

開所式でお祝いの鏡割り

この賞は製品品質と製造工程、人間関係、投資状況および地域社会への貢献度といった観点からも審査され、製造業とサービス業を分け、また従業員数規模により層別した各層から一社ずつ選ばれることになっている。特筆すべきは、この時点でこのテネシー州には大小合わせて九十六社の日系企業が進出していたが、そのうちの最初の受賞となったことだった。

記念植樹

私はこれもまず第一に、元来勤労意欲の高い優れた現地のアメリカ人従業員が、会社設立以来、私が提唱している経営理念である「和」(やからが)の精神を十分に理解して、良い人間関係をつくりあげ、その優れたチームワークを、神崎工機で技術を結集してつくりあげた高度に自動化した最新の生産設備の上に生かし、高品質製品と高い生産性を生み出してくれたからだと思う。第二は、全従業員が協力し合って、地域の奉仕活動に積極的に参加してくれていること。そして第三は、私が会社設立の記念として、またこのように私どもを温かく迎えてくれたモーリスタウンの地元の人々に感謝の気持を表したいために、いろいろ考えた末に、今後長く地域に貢献できるようにと創設した「山岡奨学基金」が、地域への貢献度として審査の席で評価を得たのであると思う。

この奨学制度は、理工科系の教育振興の一助として、地元高校を卒業し理工科系大学へ進学した優秀な学生を対象に奨学資金を支給しようと発足させたものだったが、これが引き金となって、地域の総合的な育英制度へと発展したものであった。この予期せざる大きな反響を私は心底からうれしく思っている。それらをふくめた受賞の栄誉に深く感謝している次第である。

(つづく)