わが青春の譜(11)

山岡浩二郎

米国との二つの訴訟事件から

私は昭和六十一年(一九八六)に(社)日本歯車工業会の会長に就任して以来現在もその職にある。監事、理事、常務理事の期間を通算すると、実に三十六年間役員を務めていることになる。これはこの工業会が昭和十三年(一九三八)の「東京歯車製造工業組合」の誕生をもって創立としているので、その歴史五十九年にくらべても半分以上にもあたるだろう。

いうまでもなく歯車は機械のシンボルといわれ、あらゆる機械に欠かすことのできない最重要の要素部品だ。だが、これを製造業界のなかからみれば、歯車業界は業態的には中小企業の構成比率が高く、全体の九〇パーセントを占めており、その点では工業会は、歯車業界独自の問題とともに、中小企業一般の共通の課題もたえずかかえてきた。したがってわが国機械工業の発展に遅れずついていくためには、何としても根本的に中小企業の構造を改善し、技術・販売・資金すべての面で企業体質を強化しなければならない。

工業会としてはそこで昭和四十六年(一九七一)から今日まで、「中小企業近代化促進法に基づく構造改善事業計画」を最重要課題として推進してきた。昭和四十六年に第一次がスタート、以来第二次、第三次を経て、平成七年(一九九五)からは第四次計画がスタートした。その他にも、工業会にはまだまだ各種の調査・研究・規格の制定などたくさんの活動があるが、そのなかに、近年起こった国際的な問題で特筆すべきことがらがあった。

それが、米国との訴訟事件のひとつ、米国の歯車工業会(AGMA:AmericanGear Manufacturers Association)が起こした提訴事件である。

近年、日米間では貿易不均衡に起因してさまざまな問題が生じているのは周知の事実である。このなかには自動車問題のような政治絡みのものから、世間には知られない個々の企業間で発生している大小さまざまの係争事件があり、その件数はおびただしいものにのぼっている。この事件もそんな係争事件のひとつともいえよう。

平成三年(一九九一)十月、AGMAは、アメリカの歯車業界の衰退は日本やヨーロッパからの歯車の輸入に原因があり、これが安全保障上の問題を招いたとして、通商拡大法第二三二条(国防条項)に基づいて米国商務省へ提訴した。

歯車は機械の中に自由自在に組み込まれている部品であって、それを取り出して貿易不均衡の火種にし、自由な流通や貿易に制約を加えるのは、どう考えても理不尽というしかない。この提訴では、直接には輸人制限には言及していないものの、結果的にはわが国の歯車輸出に重大な影響をおよぼすことが懸念された。そこで私たち工業会としては、通産省の指導と関連業界・企業の協力を得て、意見書を米国商務省に提出、反論した。平成四年(一九九二)八月になって、米国商務省は最終的に、「歯車の輸入は米国の国家安全保障を脅かすものではない」との判定を下し、この事件は当初憂慮したような事態にいたらず決着したが、私たちとしては、米国の同業の業界が、自助努力によってふたたび繁栄の日を一日も早くとりもどしてくれるよう切に祈っている。

いまひとつの訴訟事件というのは、こうした米国の動きについて、これは歯車工業会のことではないが、私が神崎工機の社長として経験したことである。

この事件は、神崎工機が米国向けに輸出している、トランスミッションの特許にかかわる問題として発生した。平成六年(一九九四)五月、まさに寝耳に水で、かつて当社と合弁事業を話し合ったことのある米国の同業者SAUER社が、突然特許侵害で訴えてきたのである。

調べてみると、その特許は、合弁事業の交渉中に当社が提示した図面を流用したものであり、しかも先方のIHT(Integrated Hydrostatic Transaxle)は当社の米国特許を侵害していることもわかった。訴えられた以上受けて立たないわけにはいかず、また逆に当方からも訴えを起こしたので、双方で訴訟合戦となり、証人喚問などもあって多大の時間と費用をついやすことになった。

裁判で勝つ確率は高かったが、米国の陪審制度のもとでは、日本企業への敵意から不利な判決を出される可能性もあり、先方から和解を打診してきたこともあって、これ以上時間と費用をかけて法廷で争うより和解が得策と考え、賠償金は一文もとらずに和解契約書にサインをしたのである。

これが概要であるが、この事件は、特許取得上のわずかの間隙をついて起こされたものであり、やはり法律の異なる外国での特許戦略には、よほどの注意を払っておかなければ、たとえ裁判で勝訴しても、莫大かつ無駄な時間と費用をついやすことになる。その点で今回の事件は、いささか高くついたが、よい教訓にはなった事件であった。

ここで歯車に関連して思うに、戦後日本の民間企業は、世界に秀でた潜水艦をふくむ艦船建造の、技術・製造能力をもった旧海軍の優秀な技術者を大量に吸収した。日本の旧海軍は技術者の養成に多大な費用を投じたのであるが、民間企業は日本の敗戦によって、これらの技術者を濡れ手に粟のように一文も払うことなくクダで吸収した。そしてこれらの人たちが戦後復興の主役となり、旧海軍で得た知識と経験をペースに、米国からも多くのことを学びつつ、日本人特有の持ち前の勤勉さで高度成長をも成し遂げ、日本を経済大国と称されるまでに押し上げたのである。その間、ある面で米国は日本にとって一貫して恩師であった。

その常に一歩先んじていなければならないはずの米国が、いつのまにか自助努力を怠り、その怠惰をかえりみず、弟子ともいえる日本に対して報復的な制裁措置を講じたり、難題をふっかけてくるようになったのである。まことに情けないことであるがこれが現実の姿である。幸い、前述の二つの事件はうまく解決できたが、これは過去いくたびにもわたる外遊によって、私には米国に恩師ともいうべき先輩、友人がおり、彼等との交わりを通じて、米国社会の仕組みや民情に長けていたことと、必要に応じてこれらの友人からの正しい情報、忌憚のない意見を聞くことができたからであった。

そして、このAGMAの提訴を契機として、これを反省点にするかのように開催されたのが「世界歯車サミット会議」であった。

この事件が決着しかと時を同じくして、このAGMAと、欧州九カ国の歯車業界で構成する欧州歯車工業会(EUROTRANS:European Committee of Gear and Transmission Parts)の両者から、一九九三年四月、ドイツのハノーバーメッセの際に、米・欧の歯車業界の代表でサミット会議を計画しているが、日本も参加しないかという招きを受けた。先の提訴も、結局はお互いの実情認識の不足から生じたことであり、とりわけ国際協調が声高く唱えられている今日、こうした場で実情を友好的に話し合い、正しく理解し合って問題解決にあたることがたいへん重要であると考え、喜んで参加することにした。

大阪で開催された第2回「世界歯車サミット会議」風景

席上、私の提案で第二回のサミットは日本で開催することがきまり、翌年一九九四年十月末、大阪で行なわれた第十七回国際工作機械見本市開幕日の翌日の二十七日を選んで、インテックス大阪に隣接して新築オープンしたばかりのハイアット・リージエンシー・オオサカを舞台に開催された。

二本歯車工業会会長として歓迎の挨拶

米国歯車工業会(AGMA)のレックマン会長

欧州歯車工業会(EUROTRANS)のデルフト会長

さらに第三回はAGMAの提案で、一九九五年十一月、米国インディアナ州インディアナポリスで開催。第四回は一九九七年四月、再びハノーバーで開催することとなっている。事実、回を重ねるごとに会議の内容も、また、その後に行なうそれぞれの国の歯車製造会社の工場見学会も充実してきた。

いずれにせよ、この「世界歯車サミット会議」を通じて、いらぬ摩擦を防ぎ、国際化時代にふさわしい公正な競争と共生に寄与したいと考えている。

(つづく)