凸版印刷とともに60年(12/15)

鈴木和夫

職場環境の整備に努める

ある新聞社の若い記者が、気軽に「三Kの代表である印刷業が……」という記事を書いていた。そこで彼に会った時「印刷業が三Kの代表みたいなことを、マスコミの人たちは言うが、本当に自分の目で確かめてそう思っているのか」と聞いてみた。

もちろん、三Kとは、キタナイ、キケン、キツイの頭文字である。昭和六十三(一九八八)年頃の話である。

私は彼に次のように言った。キタナイに関しては、うちの工場を見てくれないか。精密電子部品のクリーンルームでは、作業員は白衣を着、エア・シャワーを浴びて作業にかかる。また食品用包装用品の製造では、虫一匹も飛んでない。一般印刷の工場の床も舐めたように光っている。

キケンに関しては、無災害が何万時間も続いている。この頃は街中をぼやぼや歩いていると、暴走車にひかれたり、頭上から看板が落ちてくるといったケースが少なくない。その方がよほど危険でいか。

ただし、キツイということに関しては、目下大わらわで改善中である。時間短縮については、週時間をクリアし、事務職や研究職には、コア・タイムのないフレックス・タイム制を導入するなど、頑張っている。マスコミはむしろ、印刷業がそのように懸命な努力をしていることに、頑張れ援を送ってもらいたいものだ。

しかし、私は自分の経験から、次のような反省を心に抱いている。

最近の、学校から職場にやってくる若者たちの労働価値観の変化や、仕事内容のハードからソフトへという変化が急激である。われわれ使用者側は、そのような「変化」を徹底的に究明して、それ応する適切な労働環境作りを、怠ってはいなかったかということである。

労働によって得られる付加価値の尊さ、立派な価値を生み出す誇りと喜び、それを持つことの大などを、新しく社会人となった若者たちに、誰に遠慮することなく、堂々と徹底的に説く必要があったのではないか。

もっともそのことは、幼稚園、小学校に始まる初等・中等教育から、さらに家庭教育から始めなければならない。ここにも国民的コンセンサスによる国の教育に関する「国家理性の理念」の確立がであると思っている。

印刷会社の三Kの話はさておいて、私はその頃、日本商工会議所、東京商工会議所の労働委員長せつかっていて、気になることがあった。

よくテレビなどの報道で女性がブルドーザーを操作したり、高い鉄塔の上で作業をしている場面し出された。初めの頃は「職場の花」といった存在で、珍しいのと興味とが入り交じった報道であったが、そのうちに従来女性に向かないと決め込んでいた仕事にも、労働環境の整備次第では女性場となり得ることを報じていた。

頭脳労働、肉体労働を問わず、働きたい女性に環境を整備して働く職場を広げることは、時流に沿ったことであると思う。しかし、夫婦が設ける子供の数が一・三人を割る状態を、どのように考えたらよいのだろうか。

かつてのフランスがそのような状態になった時、国家の将来が危ぶまれたが、現在では二・五人復しているとの話も聞いている。

日本の将来を背負う立派な子供を生み育て、なおかつ、働く意欲と希望をかなえて、職場進出がになるための環境整備まで踏み込まなければ、本物の議論にはならない。社長時代に、責任者としての私が果たしてそこまでやれたか、大いに反省すべき事柄であると思っている。

高齢者の問題にも同じことが言える。若年労働力が不足したので、慌てて高齢者を使えというのもおかしな話である。確かに昔に比べ、肉体的にも精神的にも老化の年齢は高くなっている。

五十五歳の定年は六十歳に移行した。六十歳を超えても元気で、もっと働きたいと希望する人もたくさんおられるので、更に定年年齢を引き上げることも、働く環境の整備や雇用形態の工夫と仕事容によっては可能だろう。

しかし女性や高齢者の労働力に、大きな付加価値の創出を期待するのであれば、もう少し、中・的な展望に基づいた議論をつめて、国民のコンセンサスをまとめていく必要がありそうだ。

一方で、労働付加価値を、最も効率良く発揮しなければならない青壮年者雇用確保のため、新し会構造、組織構造はどんな姿なのかの、はっきりとした絵が描けていないことが、目下の最重要関心事であるべきであろう。