わが青春の譜(1)(3/3)
山岡浩二郎
わが青春の序曲 大阪高等学校理科乙類
この今宮中学校時代、私は将来は医者になろうと心に固く決めていた。母親が病弱で、たえず病院通いをくり返し、学校から帰ると留守がちが多くいつも寂しい思いをしたからだ。そんな母のためにも、また将来の自分の家族に同じ寂しさを味わせないためにも、ぜひ医者になって幸福な家庭を築かねば、と子供心に決めていた。その点では、先にスポーツのことばかりいったけれども、勉強のほうもおろそかにせず必死になって励んだものだった。おかげで念願の大阪高等学校の理科乙類に進学することができた。当時の大阪高等学校がどんな学校だったか、手元に先輩にあたる作家の故秋田實氏の『大高時代』という文章があるので、ちょっと引用させてもらおう。
大阪高等学校料理乙類同級生31人(中央から5人目 山岡浩二郎)
「思い出すと、懐しい。
私が大高に入学したのは大正十二年、その年の九月に関東大震災のあった年で、まだ私が数えで十八歳、もう今から五十四年の昔になる。学校の正式の名前は大阪高等学校。 はじめて大阪に、東京の一高や京都の三高と同じ高等学校が出来るというので、世聞から物珍しがられた。私はその第二期生で、文科乙類、ドイツ語だった。入学する時は、二十四人に一人という大変な競争率だったが、私は幸い席次は十二番だった。入る時の成績はわりあいよかったが、入ってからは代表的な怠け者の生徒で、皆が三年で卒業するところ、私は二年余計にいて、五年かかった。」
先輩の方はよくご存知だと思うが、当時の高等学校は文科・理科ともに外国語を英語とする甲類、ドイツ語の乙類、フランス語の丙類に分かれていた。なかでも理科乙類は医者を志す者の関門で、合格は最難関とされ、合格者は三十人、その大半が医者の子弟だった。
大正十一年(一九二二)開校。浪速っ子の衆望を担った学校で、阿倍野橋から電車で十分余り、大阪南部の北畠にあった。
校舎だけがポツンと、東は生駒山まで遮るものが何ひとつない田畑の中にあった。あたりはのち、この大高を中心に発展していった。高等学校にはサッカー部はなく、私はラグビー部とテニス部に籍を置いた。ラグビー部は、今はもう亡くなられたが、天理教の若野法主が先輩でキャプテンをしておられ、厳しく激しい練習に黙々と取り組んだ。
そのころ、こんなことがあった。練習中、頃を強く打って脳しんとうを起こしそのまま二日間夢遊病者のようになってしまったのである。それが三日目にパッと、それこそ憑きが落ちたように正気にもどったのである。
寮生活をしていたのを幸い、母親には心配かけまいとしてついに黙ったままで押し通してしまったが、大事にいたらなくてよかったものの、友人たちには心配をかけるし、冷汗ものであった。
クラブ活動とは別に、一年生は全寮制で全員寮生活を義務づけられていたために、たくさんの友人もできた。その一人に、のち医学界での功績いちじるしく、文化勲章・勲一等瑞宝章を受章され、ノーペル賞の候補にまでなった早石修君がいる。かつてはドイツの各大学で客員教授を務められ、京都でも多くの教授を育てられ、大阪医科大学の学長を経て、現在は大阪バイオサイエンス研究所の所長として、バイオテクノロジー研究の分野で、今日なお多大の貢献をされている人である。今でも親友として親しくつき合っていただいているが、同君は頭脳明晰で、試験前夜、徹夜で卓球に興じながら、優秀な成績でゆうゆうと合格してしまうというところがあった。私は一夜漬けながら、必死になって勉強して試験に臨んだものである。
早石 修君の叙勲受賞祝賀会にて(同君夫妻と)
秋田実氏も、先の文のなかで、入学してすぐ覚えだしたのは、玉突き、将棋、トランプ、花札、麻雀、煙草、酒、何でもだったと書いておられるが、私なども勉強もよくしたと思う反面、じつによく遊んだものであった。ミナミにくり出しては騒ぎたてた。すき焼き屋の「いろは」や寿司屋の「寿司すて」に行って気勢をあげるのは日常茶飯事で、とりわけ学芸祭が終わったあとなどは、マントを羽織り、白い鼻緒の大きな高下駄をはいて道頓堀あたりを徘徊、酒の勢いも借りて、アサヒビールの看板などをはずしたりわ.る.さ.もずいぶんしたものだった。
白い鼻緒の高下駄が懐かしい
当時の高等学校生徒といえば、「いずれは学士さん」ということで、世間からも一目置かれ、よくもてたもので、だれひとり叱る者もいなかった。いうなれば特権階級であった。私たちのほうにもかなりの甘えもあっただろうが、今となってみれば、どれも楽しい青春の思い出として、昨日のことのように思い出す。
さて、このあたりで、多少は生真面目な告白もしておかねばなるまい。当時、ヤンマーディーゼルの創業者である故山岡孫吉初代社長の長男で、これも今は故人となった二代目康人社長にも、少年時代には失敗があった。といって、今の時代ならばそう咎め立てされることもないだろうが、甲南中学に在籍していたとき、ダンスに興ずるなどかなり派手に立ちまわったものだから、学校側から非行として問責され放校処分に処せられてしまったのである。先にも述べたとおり、私の父は教育者であったから、人伝てにこのことを聞き、孫吉社長から相談を受けることになった。
「あなたのところの浩二郎君は性格も座ってよく勉強もするようだから、ぜひ、あなたの家に預かってくれないか」そんな次第で康人さんと寝食を共にするようになり、年も康人さんが二つ上でしかなかったので、以後兄弟のよう交わることになった。
私自身の将来を決定した山岡家との関係はこんなように始まった。当然のことながら、康人さんの母親である孫吉社長夫人や妹の規志子ともよく往き来するようになり、学校の記念祭などには、康人さんや規志子を誘うこともあった。そして、それがきっかけで、私と規志子はしだいに好き合うようになり、やがて、二人の仲を知った社長夫妻から、「学校を卒業したら、ぜひヤンマーに来てほしい」と懇請されることになったのである。孫吉社長と私の父とのあいだにも互いに深く信頼するところがあり、そんな父の勧めもあって、私は医者になることを断念、工学系に切り換えると、大阪高等学校卒業と同時に大阪帝国大学(今日の大阪大学)の工学部機械工学科に進学、将来に備え、主として内燃機関にかかわる基礎研究に励むようになったのである。
大阪帝大3年の時、研究室前で友人の杉本信夫君(左)と
大阪帝大昭和16年(後)機械工学科同期生による卒業50年記念同窓会(前列左から3人目山岡浩二郎)
つづく