わが青春の譜(2)(1/3)

山岡浩二郎

呉海軍工廠

昭和十六年(一九四一)十二月八日、太平洋戦争勃発。そのため私たちは、昭和十七年春卒業となるところを、前年十二月に繰り上げ卒業することになった。

卒業と同時に規志子と結婚、同時に株式会社山岡発動機工作所に正式入社。だが、それは形式上のことで、休む間もなく、翌十七年の正月明けには、短期二年現役として、技術中尉の肩書をもらって、呉の海軍工廠に入ることになった。

海軍時代、孫吉社長邸で家族一同と
右から孫吉社長、長男 康人、淑乃婦人、長女 規志子(妻)、次女 圭子、〔浩二郎〕、次男 淳男

ついでながら書いておくと、当時機械工学の優れた学生たちは多くが海軍に就職、飛行機や艦船の開発に従事した。就職には、いわゆる永久就職と短期二年現役の二種類があったが、山岡発動機工作所がすでに海軍の指定工場になっていたことから、海軍標準型6KWディーゼル発動機を製造していたので、いずれはそこへもどり、海軍で得た知識を生かすということで、ごく小人数が採用される短期二年現役として工廠入りをしたのである。

呉は広島県南西部、広島湾の南西部に位置する港町であり、明治二十三(一八九〇)、ここに海軍の鎮守府が置かれて以来、終戦にいたるまで、横須賀、佐世保、舞鶴とともに軍港都市として栄えた町であった。そして、呉の工廠は、戦後になってからも旧日本海軍が保有した世界最大の戦艦「大和」を建造したところとして永く記憶されるなど、数多くある海軍工廠のなかでも、もっとも科学的管理法の進んだ工廠として、当時からよく知られたところであった。

折から、対米英戦に突入したこともあって生産力は急上昇、同時に潜水艦のディーゼルエンジンなども、従来使用していた英国式やドイツ式から、国産品へ開発が急がれる時期にあたっていた。私は入廠するとすぐ精密測定の方法、作業管理の方法などのいろいろな訓練を受けたのち、造機部に配属され、早速、潜水艦のディーゼルエンジンの開発、製造、燃焼方式の改善等々の仕事に取り組むことになった。

一年ほど経った昭和十八年のある日のことであった。上官に呼ばれると、「どうも製造がうまく進まんということから、今度軍需省で統制制度が設けられることになったんだ。すまんがお前、ひとつ、その担当官になってくれんか」と相談を受けた。いったんは任が重すぎるということを理由に断わったが、他の先輩連中は、「今さら、会社の営業みたいなことができるか」といって、誰も引き受け手がないという。「お前はどうせ会社にもどっても、技術畑一筋とはいかんだろう。それならこれも修業のひとつだと思ってぜひ頼む」ということで、とうとうバルブの軍需省直轄の担当官にされてしまったのである。

当時、海軍では、資材の購入はエンジン部品であれ、バルブ類であれ、すべてのものが各工廠単位で個々バラバラに下請けに注文するシステムになっていた。そのために民間の工場では、どうしても価格の高い工廠への納品を優先し、価格の低いところは後回しにする。場合によっては忌避する傾向さえあった。そこへもってきて、工員はどんどん陸海軍に徴用でとられていくから人手が足りない。むろん資材そのものも不足してくる。そのために下請け工場ではパニック状態に陥るところも出てくるほどのありさまになっていた。そこで全体を把握し統括し、潤滑油の目的をもって新設されたのがこの統制制度であった。

バルブだけでも、その種類と数量は膨大なものだった。私は手はじめに数名の部下とともに、艦船を新造船用と修理船用に分類、バルブの種類と必要数量のチェックが一目瞭然でわかるような大きな一覧表の作製に取り組んだ。今だったらコンピュータで簡単にできる作業だろうが、その頃はたいへんな大作業だった。そして日本中にある百数十社のバルブ会社を調べ、納品価格から発注日、納品日などを把握してみたら、とりわけ価格のアンバランスが予想以上に大きいことがわかり、これには驚いた。

そこで、これまでのうちいちばん安い納品分の価格に全体を並ばせることにし、その代わり会社ごとにバルブの種類を限定、発注量を増やすことにした。むろん、今後は、私が統制官として、全工廠分を統括し一括発注するのである。

説得には約半年を要した。しかし、その結果、工廠の能率は見違えるように上がるようになった。むろんその一方で、人手不足で納期が守れないなどの苫情も殺到した。私は今度は工廠内の各部門の責任者と掛け合うことにした。そして徴用で来ていた工員の多くを徴用解除にして、各地の工場に帰すことにした。

発注量は増えるし、人は帰ってくるというのであるから、おかげで下請けの会社からはたいへん喜ばれ、変わった中尉だということで私の人気も上々になった。しかし一方で、あるいは工廠内の一部では、減員になったりしたことで、迷惑がったところもあったかもしれない。だが、けっして工廠の作業を邪魔しようと思ってやったことではなく、どこまでも大局的な見地から押しすすめたことであった。事実、大いに寄与できて、たいへんよかったと思っている。

そういえば、下請け会社に原価計算の提出を求めてもなかなか出してこないということもあった。そこで主計中尉に相談して、辻棲の合うような原価計算の答案(雛形)をその部下につくってもらい配ったこともあった。一見無茶なやり方にも見えようが、何分寸刻を争う時代であった。短期間でなしとげたのであるから、これもうまくやったなと思っている。

また、ディーゼルエンジンの生産が間に合わないというのでいろいろ調べてみた。するとここでもバルブと同じで、肝心のクランクシャフトを日立、三

菱、川崎などの大手造船会社に、各工廠がバラバラに発注していて、おまけに注文を受けた各会社が、鍛造から切削まで、すべてを自社でまかなっていたものだから、生産能力をはるかにオーバー、四苦八苦の状態になっていることがわかった。

一方、呉工廠には、数万人の人間がおり、部門によっては三十尺、四十尺の大きな旋盤が泥をかぶったままで、機械も人も遊んでいるところもあった。事情を話して、削ってくれと頼めば、気持ちよく引き受けてくれた。かたや困っていることを知らないし、たとえ知っていても、よそのこととなると進んでやってやろうとも思わない。また機械や人の余力がないかどうかも調べない。まったく自分の殼にだけ閉じこもり、互いに正しい情報を交換して、助け合おうという雰囲気など微塵もない。「滅私奉公」とか「一億総力戦」とかいいながら、一皮めくれば、これがあたりまえと考えられていた時代で、最前線であるべき工廠内にも、驚くほどの縄張り根性、セクショナリズムがあった。いちいち指摘したら、今日でも相変わらず私たちの身のまわりに数え切れないほどある、日本人のせまい島国根性のなせるわざだが、のるかそるかの国運を賭しか厳しい時代のなかでもはびこっていた風潮である。

同じ頃、陸軍では、南方方面や中国大陸に兵士や物資を輸送しようとするが、すでに戦局の主導権が米軍側に握られて、輸送船団が次々飛行機や魚雷に襲われて目的地に着けない。そこで同じ広島県の宇品にあった陸軍工廠では、敵機が来たらさっと海面下に避難できるような、いわゆる上がったり下がったりする、潜水艦まがいの船の建造を試みたことがあった。

ところが、下へ沈むと、水圧で船底バルブから水が入ってきて死者が出るという事故が起き、私のところへ、バルブというのはどうやってつくったらよいか、聞きに飛んできたことがあった。話を聞いたところ、その程度のものなら潜水艦用バルブの不良品であっても間に合うということから、適当なバルブを見つけて分けたことかあるが、これなど、陸海たがいに協力し合ったよい例のひとつといえるかもしれない。

そんな担当官生活をしていたある日のこと、バルブ会社の視察と折衝で大阪に行ったついでに、ヤンマーの本社に孫吉社長を訪ねたことがあった。そのとき、「おまえはまだ経験も浅い青二才だ。短剣を吊って威張ってだけいてはダメだぞ」と、私が戒められたあと、同行していた四十歳ほどの部下の技手に、腰低く深ぶかと頭を下げ、「どうか、うちの息子をよろしく」といわれた孫吉社長の姿を、今も昨日のことのように記憶している。

実際、私の仕事は、民間との間の資材発注であったことから、誘惑の多いところであった。そうでなくても何とか工廠の仕事にありつこうと、女性をつかったり、あらゆる手段で私たちへの接近をはかる政商が、その頃、大勢この呉にはたむろしていた。わけのわからぬうちに蜘蛛の糸に絡めとられてしまっているような危険はいつもあった。それをあらかじめ私に教えて、身を守れるようにきっちりと指導してくれたのもこのベテランの技手だった。実に親身になってくれたが、これもあのときの孫吉社長の深ぶかと頭を下げられた姿があったればこそという気がしてならない。