わが青春の譜(2)(3/3)
山岡浩二郎
終戦前後
終戦前の一時期、私は喘息に悩まされて、転地療養が必要ということから、しばらく三菱神戸に配属替えになったことがあった。まもなく呉にもどったが、そこから終戦直後にかけて、書きとめておきたいことが二つばかりある。その一つは私か軍刀をつくった話だ。
この頃になると敗色は日増しに濃くなり、沖縄守備隊の全滅や日本中の都市という都市が焼土となるなかで、米軍の本土上陸作戦もま近いとされ、本土作戦計画に拍車がかけられるようになっていた。
そんな折、「山岡なら資材にも精通しており、下請けにも手づるがあるだろう」ということで、東京のエライ人から軍刀の大量生産を頼まれたのであった。東京の空襲で軍刀も焼けてしまい、これではアメリカが上陸してきても戦えないから、何千本でもつくれるならつくってほしいという注文である。呉市内をまわって、刀鍛冶にも聞いてみたが、一本つくるのに半年はかかるという。無理もない。もともと刀鍛冶は材料の選び方から、鍛造、焼刃にいたるまで全部手造りで、大量生産は行なわれないのがふつうだからである。
そこで私ほとりあえずバルブにする丸棒を持って、呉市内の仁方というヤスリ専門の町に出かけていった。そこでまとめ役の人を訪ねると、「仁方ヤスリ」というヤスリ屋の社長で、明治神宮の刀鍛冶から帰ってきたという、会ってみるとなかなかりっぱな人であった。「突けたらいいんだ。一つ一つ鞘に合わさんでもいいんだから」と、頼みこんだ。もともと刀鍛冶は手仕事である以上、鞘もまた一本一本それに合わせてつくられるのもあたり前になる。当然その一本にしか合わない鞘ということになる。 私の考えていたのは、全部標準化して規格化し、大量生産を可能にするということであった。事態が急を告げていることを話し、「一定のRアールでやってくれ」と説得した。リミットゲージでRをつけた丸棒の鋼を種油につけて、アセチレンバーナーをあてると焼ける。焼けて炎がこっちへくると油をのせてまわしていく。すると波ができる。ただ、ヤスリは面対称だが、軍刀も面対称にはなっているけれども片一方だけで細いから、なかなかまっすぐにはならない。そこは「何とか工夫してくれ」と説得した。
次に岡山県の津山にある木村合材という会社に行って、鞘をつくらせたが、それに使用する金具類は大阪の松尾橋梁でつくってもらった。その頃になると、ということが東京で噂になり、「山岡中尉が軍刀をつくっている」次々ご注文が殺到するようになった。二百本ぐらいはつくったろうか。そのうち終戦になってしまった。ほどなくして、造機部長から、関西方面の経済状態等を視察してきてほしいという命令を受けた。そこでこの際家族を連れ帰ることにして家も売り払った。
軍服姿のまま満員の貨車に揺られて大阪に着き、芦屋に家があるものと思って阪急の駅に降り立つと、一面焼野原になっている。家のあった高座の滝に近い山手に行って尋ねると、かつて大阪中之島の中央公会堂を寄贈した株屋の岩本栄之助氏の持ち家だったという豪壮な邸宅も、一トン爆弾を浴びて全焼し、孫吉社長以下家族全員、郷里に引き揚げているということだった。孫吉社長の生まれ故郷である滋賀の湖北の高月たかつき町束阿閉には、家を継いだ孫吉社長の兄が住んでいたりっぱな家があり、当時は兄も亡くなって、兄の息子夫婦が住んでいたが、ひとまずそこに引き揚げていたのである。その夜は、阪急の駅近くでたまたま見つけた宿屋に泊まり、翌日、滋賀を訪ねて家族を預けた。大阪に戻り、所定の任務を終え、貨車に揺られなから呉に帰った。
束阿閉の孫吉社長の生家全景
ところが帰ってしばらくすると、突然、軍管区から出頭命令を受けた。なんと、この関西出張を機に、山岡は工廠の鋼材をヤンマーヘ持ち帰ったという投書があったというのである。その間、ヤンマーではすでに空襲で七〇%を失った本社所在地に新社屋を建築し、戦後経営の第一歩を踏み出す一方、終戦から二週問を経ぬ八月二十七日には、朝日新聞に工場再開を告示した。この告示もまた、鋼材の横流しの傍証というかたちをとり、デマの震源地の作用をしたのである。根も葉もないまったくのぬれぎぬだけに、私は激怒した。訊問にあたった相手も同じ中尉であったが、まさにドアも蹴とばさんばかりに、「加藤少将の命令で行っただけではないか」とどなりつけた。思えばこれは、よい思い出の多い呉工廠の日々のなかで、最後につけられた汚点といってよいかもしれない。
いずれにせよ、孫吉社長の意見もあり、二年現役をそのまま延長して在任した海軍時代は、こうして幕を閉じたのであった。
(つづく)