わが青春の譜(13)(2/5)

山岡浩二郎

ヤンマー杯近府県軟式庭球大会

ここで銘板にも記されているヤンマー杯のことについて書きとめておこう。

昭和二十七年(一九五二)は連合国とのあいだに講和条約が締結された年でもあった。そこで新設されたテニスコートの完成を祝い、併せてこの年発効された講和条約を記念して、ヤンマーが主催となって、軟式庭球大会が開催されることになったのである。

すると蓋を開けてみて驚いた。何と、この周辺の人たちだけではなく、県外からも多数のテニスマンが参加申し込みをしてくるではないか。

そこでこの大会を協会の年度行事として恒例化、やる以上は県内にとどめず、広く他府県にも呼びかけて、軟式テニスの振興と、地域間の親善にも役立てようと考え、私はヤンマーが後援するからと提案し、第二回からの大会を、「ヤンマー杯近府県軟式庭球大会」と称することにしたのである。

この間、昭和四十二年(一九六七)の第十六回大会からは、日本テニス界に尽くされた清水善造さんの偉大な功績を讃えて、準決勝戦以上に勝ち進んだ選手のなかから、技量、マナーともに秀でた優秀なプレイヤー一人を表彰する「清水善造杯最優秀選手賞」を設けたり、女子部、壮年部といった種目を増やす等、大会はいっそう充実したものとなった。

ついでながら、清水善造さんとは、大正時代、軟式から硬式に転向した日本テニス界を代表するプレイヤーで、大正十年(一九二一)のデビスカップ戦で、時のテニス王チルデンが足を滑らせ転倒した際に、ポイントが取れるのにゆるい球を返したことが美談となり、スポーツマンシップの手本として高く評価され、教科書にも載った方である。

ヤンマー杯の大会にはじめてご招待したときは、すでに七十歳に近かったがすこぶる元気で、独特の話術でテニスの真髄を語り、また、私たちとの模範試合を通じて、身をもってそのことを示された。特に印象深く今も思い出されるのが、「和気集庭」(和やかな気分で皆が集まりテニスを楽しむ)という言葉で、同氏の達筆な直筆を印刷して扇子をつくったところ、大会参加者からもたいそう喜ばれた。

このヤンマー杯も順調に推移し、平成四年(一九九二)からは軟式庭球をソフトテニスと改称して今にいたっているが、ただ一つ残念だったことは、昭和六十年(一九八五)に入って世間に不況風が吹き、ヤンマーでもその対策の一環として経費節減を厳しくした折、こともあろうか、このヤンマー杯にたいする援助金まで打ち切ってしまわれたことであった。いくら経費節減とはいえ、わずか数十万円のことではないか。安易に切ったとは思いたくないが、本社・工場の幹部たちがもっとこの大会発足時の精神と趣旨を理解していたなら、孫古社長の郷土を愛し、地方社会との融和をはかる精神を身につけていたならば、こういうみっともないことはなかったと思う。

身振り手振りで熱のこもった挨拶をされる清水善造氏

清水善造氏の書

ヤンマーから連絡を受けて当時協会員だった前河氏がすっとんで来られ、「この大会をやめることなんてできません。何とかならんでしょうか」といわれたときには、さすがに私もがっくりした。「神崎工機はヤンマーほどには出せないが、援助金とカップを提供しましょう」ということで、昭和六十一年から六十三年までの三回は、「山岡浩二郎杯」でこの大会を継続することにし、関係者にたいへん喜んでもらった。

そうこうするうちにヤンマーの不況対策も一段落し、景気も回復してきたので、私は担当の常務にあって話をし、本来のヤンマー杯にもどしてもらった。孫古社長の魂が蘇ったということで、私もこれで一安心したが、どこかやりきれなさのようなものが心のどこかに残ったというのが、今もいつわらざる私の心境だ。

戦後すでに半世紀を経たが、私は今でも都合のつくかぎりこの大会に顔を出し、その夜は幹部の方々と慰労を兼ねて懇親の夕食会を催している。長浜の地元の人々と親しく旧交を温めあえることは、「美しき世界は感謝の心から」といわれた孫古社長の精神に応えられていることだと、ほんとうに心からうれしく思っているし、私自身にとって、長浜がたいせつなわが心の故郷のひとつであることにかわりがない。

ヤンマー杯近府県ソフトテニス大会後の役員との夕食懇談会