大阪の明治・大正・昭和初期のカラー印刷(3/8)
市田幸四郎とその時代(1885~1927年)

元凸版印刷株式会社専務取締役 河野通

市田幸四郎の育った市田写真館

市田幸四郎が日本の印刷産業の歴史に大きな足跡を残したことは、彼自身の育った環境──当時、横浜と並んで西欧文化の接点・窓口として華やかだった神戸を象徴する神戸のトップクラスの「市田写真館」の息子として育ったことと深く関係していたと思う。

神戸元町商店街ホームページ(11)」には、当時の神戸の写真館の模様などが紹介されている。その中で「“原色版印刷の光村”と呼ばれた光村に写真技法を伝授した人として特筆される市田左右太の市田家の養子の市田幸四郎(12)は“市田写真館”内で“市田印刷”を創業、大正中期に日本へ輪転機を用いたオフセット印刷(13)を導入し、“オフセット印刷の市田”と呼ばれたことから、市田幸四郎の源流として市田左右太の名は日本の印刷史にもその名を残すこととなりました。(市田印刷は後に日清印刷に吸収され、やがて大日本印刷に合流しました)。」と紹介されている。

この「神戸元町商店街ホームページ」には、市田幸四郎自身に関してはあまり記載されてはいないが、市田幸四郎を養子として向かい入れた市田左右太および当時の神戸の雰囲気を知るには良い資料だと思うので、引き続いて同ホームページに記載されていることを紹介する。

元町通の写真館(2)「市田写真館と平村写真館」

神戸港が明治元年(1868年)元旦に開港すると、維新の混乱が続く神戸に外国人が続々と来神、花隈村の森川家は長崎から移ってきたフランス人写真家ゴールトに町家を貸し、同家の長男の為助が写真術に興味を抱き、ゴールトから写真機材一式を譲り受け、神戸初の写真館の「森川写真館」を開業しました。居留地の第一回目の競売が始まった明治2 年には大阪にいた写真師・守田来三が今の5 丁目に、また、紙幣(大坂為替会社発行)に貼付の偽造防止用写真の撮影で大儲けした横田朴斎が鯉川筋に写場を開き、写真稼業を始めました。

翌明治3年(1870年)には、但馬国出石藩領で生まれ、京で2年ほど営業していた市田左右太が妻子を残して西国街道筋の今の元町通3丁目にやってきて、掘っ立て小屋の写場を開きましたが、商売になる客は外国人。市田は大きな暗箱を雇った人夫に担がせて、造成中の居留地を歩き回り、写真営業を行いました(14)。同じ年には旧二ツ茶屋村の豪商「茶屋」こと高濱家の次男に生まれて幼くして花隈村の森川家の養子となり、後に為助が生まれて縁家の平村家に養子に出された平村徳兵衛(友人の保証人になって失敗し居留地で工事人夫をしていた)が外国人から写真機を譲り受けて「平村写真館」を創業、明治9年(1876年)に元町通6丁目の横小路に移転した写真館は、翌年の西南戦争時には神戸に集まった官軍兵士が最後の身姿を写しておこうと、早朝から長蛇の列を作る繁盛ぶりだったといいます。

かたや、妻子を呼び寄せた3 丁目の市田左右太は、明治12年(1879年)には2丁目浜側(今の1番街の西半分)に移転して立派な西洋写真館を新築し、上野彦馬・弟の上野幸馬仕込みの市田左右太は「神戸一の写真師」と全国に知られるようになりました。(森川為助は後に5 丁目に神戸初の眼鏡店の現「めがねのモリカワ」を創業、神戸現存最古の平村写真館は戦後に5 丁目に移転、元町通で最初の西洋建築の市田写真館は戦災焼失しています)(安井裕二郎)

元町通の写真館(3)「続・市田写真館と平村写真館」

明治中期の元町通には2丁目に「市田写真館」(市田左右太)、6丁目に「平村写真館」(平村清)の神戸を代表する有名写真館があり、一握りの富豪らが写真に「芸術」を求める時代を迎え、東京・横浜と並んで神戸が日本の写真界をリードすることになりました。

明治22年(1889)には東京に日本初のアマチュア写真倶楽部の「日本写真会」(榎本武揚が会長)が誕生し、さっそく会員となった平村清は翌明治23 年に神戸沖で行われた神戸で最初の海軍の観艦式を諏訪山から撮影、手で彩色した大型写真を同年に上野で開催された第三回内国勧業博覧会に出品し、小川一真(明治写真界の重鎮)、鹿嶋清兵衛(日本初のアマチュア写真家)の作品と共に大絶賛されました。

一方、明治24年(1891年)には神戸随一の廻船問屋だった栄町の「長門屋」の光村弥兵衛が没する出来事があり、その葬儀写真を撮影したのは「市田写真館」。その葬儀写真に興味を抱いた一粒種の光村利藻は早速、居留地のトムソン商会から輸入カメラを入手、「市田写真館」に持ち込んで市田左右太から直接手ほどき受けました。その年に慶応義塾に入学して上京した光村利藻は、宮内省に出入りの小川一真に伝授料200 円を支払って当時最新の「コロタイプ印刷」(写真原理を用いた美術印刷)をマスターし、相続した遺産3000 万円を美術印刷につぎ込み「光村印刷(15)」(東証1部)の基礎を築きました。

『原色版印刷の光村』と呼ばれた光村に写真技法を伝授した人として特筆される市田左右太の市田家の養子の市田幸四郎は「市田写真館」内で「市田印刷」を創業、大正中期に日本へ輪転機を用いたオフセット印刷を導入し、『オフセット印刷の市田』と呼ばれたことから、市田幸四郎の源流として市田左右太の名は日本の印刷史にもその名を残すこととなりました。(市田印刷は後に日清印刷に吸収され、やがて大日本印刷に合流しました)(安井裕二郎)

  1. 神戸元町商店街ホームページ:写真およびイラストも同ページより
  2. 市田幸四郎:明治18 年(1885)1月15日神戸市で誕生。父は氷見良明(鐘紡重役)、8歳の時に市田家の養子となる。(「「市田幸四郎小伝」(谷本 正)(昭和54年刊)
  3. オフセット印刷:実際に印刷イメージが作られている版と紙が直接触れないのが特徴。版に付けられたインキを、一度、ゴム製などの中間転写体に転写(off)し、それを紙などの被印刷体に付ける(set)というもの。そのためオフセット印刷(off-sett printing)と呼ばれる。
  4. 「市田家は明治3 年以来、当時の英国領事ガールス氏などの勧めにより、写真館を営んでいた。神戸の市田写真館の名は日本の写真館の始祖として日本全国にあまねく知れ渡り、長い間そのみちの名舗としてゆるがぬ地位を占めていた」―――「市田幸四郎小伝」(谷本 正)(昭和54 年(1979))
  5. 光村印刷:明治34年(1901)、光村利藻、神戸に「関西写真製版印刷合資会社」を設立。昭和3年(1928)、社名を「株式会社光村原色版印刷所」と改称。平成3年(1991)、社名を「光村印刷株式会社」に改称。