わが青春の譜(3)(1/5)

山岡浩二郎

ヤンマーの生産開始

終戦に先立って、昭和二十年の六月には、ヤンマーもまた、大阪製作所、尼崎製作所ともに空襲を受け、大阪製作所は建造物の七〇%を、尼崎製作所は機械設備の三〇%と建造物の七〇%を失っていた。終戦になり、私は、会社がこれから先どうなるのか、その成行きがやはりいちばん心配の種だった。それだけに、八月二十七日の新聞に孫吉社長が出した全国の代理店と需要家向けの工場再開を告げる記事を見たときは、うれしく、ほんとうに生き返ったような気持がした。

事実、大阪製作所の設備機械を、空襲に備えて、大阪府池田市伏尾の久安寺という寺の境内に疎開させたこともあって、戦後ヤンマーの工場再建の動きは急ピッチで進んでいる。十一月には長浜工場でS型ディーゼルエンジンの生産を再開、これを可能にした原動力のひとつは、この疎開させた機械設備を主体にしえたからであった。

長浜工場がある滋賀県の長浜市は、JR東海道線の米原駅から、北陸線に入って二つ目に駅がある町で、東に伊吹山の雄大な姿を望み、西には美しい琵琶湖の眺めが景観できる人口約六万人の湖北の中心都市である。その昔、今浜と呼ばれていたのを、羽柴秀吉が築城して移り住んでから長浜と改められた町で、近郊には関が原、賤が岳、姉川などの古戦場を中心に史跡の多いことでも知られている。

終戦直後の長浜工場

地場産業としては、湖北の養蚕地帯を背景に、浜ちりめん、別珍、ビロード、麻かやなどが盛んであったが、業種の性格上家内工業的で小規模工場が多かったのを、昭和十七年(一九四二)、当時戦時中で休業同然という状態に追いこまれていた、その中の大手であった中辻織物工場をヤンマーが買収、長浜工場を設置してからは、ポリエチレンなども進出、重化学工場の面からも知られるようになった。ついでながら、山岡家の郷里で疎開先となった高月町は、長浜からさらに北陸線で北上した町、賤が岳や余呉湖の南方で、国宝の十一面観音立像のある向源寺などで知られる。私は長浜工場までは汽車で通勤することになった。

海軍から帰ってきた私は、むろん直ちに会社に復帰、長浜工場で農工用の小型横形水冷エンジンの生産を担当、昼夜を分かたず奔走し、戦後のエンジンメーカーとしての基礎固めに傾注することになった。とにかく戦後の猛烈な物資不足のなかでの再開であるから、生産が再開できたとはいえ、機械設備はけっして十分なものではなく、それ以上に頭を悩ませたのは極度の資材不足と闇物資の氾濫であった。東奔西走して資材をかき集め、何とか需要に応えられるようにするための苦労には筆致ではいいあらわせないものがあった。

私が長浜工場に帰ったとき、現場では、篠原小四郎君らが一生懸命働いてくれていた。Kという頑固な労組の委員長をしていた男もいた。篠原君からは、「月産百台、いや二百台つくれといわれるけど、ガタガタのボーリング、ガタガタのプレーナーで削ってますんやで。わしらやから丸く出来るけど、あんたが削ったら三角の穴しか出来ませんで」と愚痴られたものである。ボーリングといえば孔をうがつ機械のことだから、三角になるようなことはないとはわかっていたが、それくらいガタガタの機械をつかっていたのは事実だった。海軍で性能の優れた機械ばかり見ていただけに、「いくら百姓のエンジンやいうてもこれではひどすぎる」と、正直いって弱ったものだと思ったものだった。

そんな状態だから組み立てもたいへんで、ふつうの者では一日一台組み立てるのがやっとだった。ところがKは、一日に七台も八台も組み立てるのである。はじめは感心していたが、そのうちよく観察してみると、けっして上手なせいではなく、よい部品ばかりをうまく自分の手元に取り込んでやっていることが、海軍帰りの私には見破れた。こんなずる賢い処世術にたけた夕イプの職人は海軍にもちょくちょくいたものである。

生産を再開してまもなく、というよりあっという間にこの年は暮れていた。そして翌昭和二十一年に入ると、わが国の産業も、いよいよ復興を目指して活発な動きを見せはじめるようになった。ここで最大のネックになったのが深刻な電力不足だった。工場といわず病院から映画館にいたるまでが、非常用(停電用)発電機の動力源としてディーゼルエンジンを求めてヤンマーに殺到してきた。試運転が終わると、待ち切れずに塗装なしで引き取っていくというありさまだった。うれしい悲鳴といってもよいが、何分生産力がないのだから、何とか需要に応えられるようフル操業で生産を続けた。それでも月産二百台がいいところといったものだった。