わが青春の譜(3)(4/5)
山岡浩二郎
三人の午年男
さて、私は大正七年生まれの午年だが、ヤンマーには私の他にけっして忘れることのできない二人の午年男がいた。「三人の午年男」といわれた所以ゆえんでもあるが、その一人が、私より二まわり年上の明治二十七年(一八九四)生まれの大塚石松氏、いま一人が一まわり年上の明治三十九年(一九〇六)生まれの横井元昭氏であった。二人とも今では鬼籍に入ってしまわれた。
大塚氏は先に紹介した元大塚鉄工所の社長。まったくの叩きあげの職人肌の人で、英語などはまったくダメだったが、アメリカンマシニスト誌などのような機械専門雑誌に掲載されている広告カタログを見るだけで、機械のなかの構造がぱっと頭に描けるほど、工作機械に精通しており、文字どおり「工作機械の神様」がぴったりの人だった。
ヤンマーに迎えた初期の一時期、私は向陽館で、同じひとつ屋根の下で起居を同じくすることになった。おかげで、まさに私にとって家庭教師ともいうべき存在ともなり、工作機械というものはこうやってつくるものだということを、一から教えていただいた。大塚さんがいっしょに住むと決まったとき、私は家内にこういったものだった。
「大塚さんは口の肥えた方で、食事には気づかうことも多いかもしれないが、居てもらわないと困るんだから、どうか、わしの親だと思って一生懸命がんばってくれよ」
横井元昭氏はすでに述べたとおり元海軍の技術中佐であり、ヤンマーに入られてからは、一貫して研究・開発部門を担当された人であった。
この二人の先輩と私は、おたがい同じ干支ということも手伝って、親しく交わり、技術開発の先頭に立ったが、いつのまにか、年の差と経験の差から大塚氏が「大馬」、横井氏が「中馬」、そして最年少の私か「小馬」ということになった。といって、私たちはけっして単なる仲良しブルーブとして交わったのではない。私はつねに二人の先輩、とくに大塚さんからは、工作機械に関する豊富な知識と経験を貧欲に吸収、勉強に励んで一日も早く二人に追いつき追いこせるような、「中馬」「大馬」になりたいと心に誓った。私は真剣であり、まだ若く血気盛んな頃だったから、二人の先輩にも、エンジンの開発・設計・製造について歯に衣をきせず議論を挑み、夢中のあまり、気がつくと夜がもう白んでいたということもしばしばあった。
欧米視察旅行の帰国歓迎会
左から〔山岡浩二郎〕(小馬)、大塚石松氏(大馬)、挨拶をする孫吉社長、横井元昭氏(中馬)、山岡淳男(現ヤンマー社長)
ちょうどこの時期、戦後も昭和二十五年(一九五〇)を過ぎる頃になると、この年六月に勃発した朝鮮戦争を契機とした、あるいは刺激とした特需景気によって日本経済は急速に進展、農業の近代化・機械化も急テンポで進められるようになった。
そのなかでヤンマーでは、昭和二十六年(一九五一)暮れまでに、画期的な軽量小形ディーゼルエンジンK型を完成、翌年一月発表会を行なうや、たちまち注文が殺到するようになり、増産体制を早期に確立することが急務の課題となった。
よりよいエンジンを、より安く、しかも能率よくつくるにはどうしたらよいか。横井氏から出されたエンジンの設計を、大塚氏と私が「もっと製造がしやすいように改良できないか」「複数のワークを一挙に削れるような形状にならないか」等々の、製造の立場からの設計変更を求めてフィードバックする。その間のやりとりは、ただ傍目で見ている人にはけんか沙汰にしか思えないほどの激論の連続だった。師と仰ぐ大塚氏に対しても、私は真っ向から異論を述べた。それらはけっして議論に終わることなく、「議して決して」そして即実行に移されたのである。このおたがいに垣根を張らない設計と製造一体の開発・生産体制の構築が、その後のヤンマーの発展にはかり知れない大きな礎となったことは申すまでもない。
しかし、近年思うに、会社の規模が拡大し、組織が肥大化するにともなって、それぞれの部門がわが城を守ることに窮々として、セクショナリズムに陥り、こうした相互影響・相互浸透の心のこもった一体感の精神が稀薄になってしまった。口やかましくはなったが、よい点が受け継がれていないということは真に残念でならない。過ぎ越しの日々に思いを馳せるとき、今も鮮やかに浮かびあがるのは、あの頃の「三人の午年男」たちの日々である。