わが青春の譜(3)(5/5)

山岡浩二郎

インド貿易ブームのなかで得たもの

話は多少前後するが、ヤンマーではすでに昭和の初期から、フィリピンなどの東南アジア地域、インドなどにディーゼルエンジンを輸出していた。戦後それを再開したのは昭和二十三年(一九四八)。するとまもなくインドから大量の灌漑水揚ポンプ用のディーゼルエンジンの注文があり、インドブームを呈するにいたった。興亜機械工業、昌運工作所、和歌山鉄工、野村製作所を買収したのは、この増産に対応するためで、そのためのエンジン部品をつくるのが目的だった。

それでも注文に応じきれず、ダイハツの小石社長や富士精密の新山氏(航空機の権威で当時工場長だったが)に相談、パテントのことなど多少問題もあったが、とにかく両社でもエンジンをつくってもらい輸出した。面白いもので、奈良漬けは兵庫県でつくっても奈良漬けと呼ばれるように、インドに輸出されるエンジンもまた、他社でつくったものもすべてヤンマーと呼ばれたことだ。それだけヤンマーの製品は好評だったわけで、その結果、それまで英国から入っていたエンジンなんかはすべてダメになってしまったのである。

このブームは昭和二十六年(一九五一)まで続き、同年になって、同国の外貨事情が悪化、二十馬力以下のエンジンの輸入が禁止されたことで終了したが、この間、ヤンマーから輸出した台数は実に二万八千台、利益もおおむね約三十億円に達し、戦後の経済復興期の取引としては破格のもので、日本政府が奨励していた外貨獲得にも大いに寄与することとなった。

このインドブームの真最中であった。ある日、私たちは、孫吉社長から、「こんなブームは、しかしいつまでも続くものではないぞ。国内で他社に遅れをとらないためにも、ヤンマー本来の目的である、農業用エンジンの開発に全力を注ごうではないか」といわれたのである。

もともとこの孫吉社長は、金持ちでない貧しい農漁村、しかも石油資源の乏しい日本のような国では、燃焼効率が高く値段の安い重油でまわるディーゼルエンジンこそが、もっとも必要な動力源であり、もしディーゼルエンジンを、石油エンジン並みの値段でつくることができれば、かならず石油エンジンを駆遂し、とってかわることができるという、強い信念に燃えた人であった。

この立場からこのときもいわれたのだろうが、のち、私はダイナミック・マネージメントヘの考察をとおして、企業が発展するためには、企業業績の「変化速度と変化加速度」を定量的に眺め、この加速度がマイナスになるポイントをできる限り早期に察知し、適切に意思決定をくだすことが、トップ・マネージメントの重要な任務であることに気づくようになってから、あらためてこのとき孫吉社長が、インドブームの真っただ中で小形エンジン開発の必要性を提唱されたことは、まさにこのポイントに到達する直前の時期であったことに気づかされたのである。孫吉社長にはこうした、理屈・理論からではない、余人にはない先天的とも思える、将来を見通す洞察力が備わっていたのであった。この文章を書き綴りながら、しみじみとそう思う。

もっともこうした先を見通す能力というものは、たんに勘であるとか、経験の豊さだけで発揮されるものではない。脳裏に刻みこまれたあらゆる情報がその基礎となるものだ。したがって情報量は多ければ多いほど、的確な判断がくだされやすいわけで、私はことあるごとに、役員だけといわず社員に対しても、マーケティングということを厳しくいっている。一般経済情勢、農・漁業の状況、製品に対する市場のニーズ、競争相手との宣伝をふくめた競争力、特約店の動向、あるいはまた社内の開発体制等々、そのアイテムには枚挙のいとまがない。

(つづく)