わが青春の譜(4)(1/2)
山岡浩二郎
K型ディーゼルエンジンの開発
さて、孫吉社長の意を解した私たち技術陣は、そこで総力を結集し、死にもの狂いになって、小形ディーゼルエンジンの開発に乗り出すことになった。三人の午年生まれの男たちが年齢や立場を越えて、夜が白むまで大いに議論を戦わせたのもこのときである。
ところが会社は、インド向け輸出用エンジンの量産に追われ、てんてこ舞いの状態になっていた。とにかく七万五千円でつくった製品が十九万五千円で飛ぶように売れ、おまけにその製品は、神崎工場からわずか三十分で神戸まで運べば、回転クレジットですぐさま現金になるというのであるから、O専務やS製造部長の目の色が変わるのも、ある面でいたしかたなかった。だから、試作が入ると生産ラインの流れに故障を来すという、まさに目先の理由だけで、私たちの新しいエンジン開発には強い反対の姿勢をとったのだった。
こうして、会社のなかでは邪魔をされて十分設計に没頭することができないので、やむをえず、横井技術部長をふくめた技術陣は、甲子園にあった孫吉社長の家に立てこもることにし、時には夜を徹して、精力的に小形ディーゼルエンジンの設計に取り組むことにした。
一般の農家の需要家にとっては、当時はまだ石油発動機には案外慣れているが、能率のよいディーゼルは一般的ではなかった時代であった。そこで、誰にでも簡単に運転ができ、かつ分解調整に困難がないものにすること、高能率のディーゼルは稼動時間が大になればなるほど効果も大きくなるものであるから、ぜひとも長時間使用に耐えるものにすること、農作業の性質上エンジンに塵芥をかぶることが多いので、機関を密閉式にすることなどを条件に工夫を重ねた。
しかも、いかに機関が優秀でも価格が高くては問題にならぬので、これらの問題の解決にはもっとも苦心を要した。なかでも、とりわけ製造上の問題になったのが、ディーゼルエンジンの心臓部といわれる燃料ポンプ、燃料噴射弁等の製作であった。
こうして昭和二十四年(一九四九)三月、滋賀県伊香郡西浅井村(のち永原村にかわり現在は西浅井町)に敷地四千四百六十七平方メートルの精密加工専門の永原農村精密工場を建設、ここで小形ディーゼル用燃料ポンプ部品の製造を開始、昭和三十五年(一九六〇)には、さらに高月町の大森にも大森農村精密工場を建設した。
開設時の永原農場精密工場
ちなみに、この永原工場の建設にあたっては、地元の谷口久次郎氏(後、滋賀県農協連合会会長・県知事)、現在ヤンマーディーゼル殿村専務の父君である殿村官蔵氏、それに幸田政治氏の三人の方にたいへんご協力をいただいた。後年、私がアメリカにTUFFTORQCORPORATION(詳細後述)をつくったときにも、モーリスクウンに工場を建てる決心をする決め手になったのは、市長をはじめとする商工会議所幹部の人たちの温かい気遣いであったが、そのときも、しきりにこの永原工場建設当時のことが思い出されてならなかった。
昭和天皇永原工場行幸を記念して孫吉社長植樹
右から、谷口久治郎、掛工場長、孫吉社長、1人おいて大塚石松氏、左から2人目幸田政治氏、1人おいて〔山岡浩治郎〕
この永原というところは、当時、鉄道はおろかバスの便さえなく、冬は深い雪に閉ざされ、これといった産業もなく、長男以外はたいていが都会へ働きに出てしまうという琵琶湖北端岸の貧寒村落であった。だが、その反面、精密部品を加工するには、気候がスイスと同じで平均気温が摂氏二〇度ぐらい、空気の澄んだ閑静な環境で最適の条件を備えていた。冬場の交通のアクセス等に種々難点があるにしろ、地元から良質の労働力が確保できるという利点もあった。地元村民にとっては願ってもない地域の活性化につながり、会社にとっても村人に仕事を提供しつつ、農村工業の伸展に寄与できるということで、この交渉はスムーズにまとまったのである。
永原農村精密工場玄関前での記念撮影
前列右から2人目 殿村官蔵氏、1人おいて 谷口久治郎氏、中列中央 幸田政治氏
また、大森工場は永原工場が狭隘になってきたことから、当時日本火災海上保険の常務取締役で地元の地主であった小澤氏の工場誘致の話を受けて、昭和三十三年(一九五八)に買収し、建設した。
少々話が横道にそれたが、かくて昭和二十六年春、待望の軽量小形K2型(二〜三馬力)が完成、長浜工場で本格的な多量生産にとりかかった。インド貿易が途絶になる二ヵ月前だった。この製品にK型と名づけられたのは、ひとつは「軽い」という意味があり、今ひとつは「キング」のKをも意味するものとして採られたものであった。意気込みが感じとれよう。
世界最小の横型水冷ディーゼルエンジンK1型
ついで翌二十七年(一九五二)に入ると横型水冷K4型(四〜五馬力)、K6型(六〜七馬力)、K3型(三〜四馬力)の開発につづいて、九月にはついに、世界最小の横型水冷4サイクルディーゼルエンジンK1型(一・五〜二馬力)が完成した。生産台数も当初は月産二千台から三千台たったが、長浜が小形ディーゼルエンジンの専門工場になったのを機に、二十七年四月、私は責任者(工場長)に命ぜられた。
早速、品質の確保と量産体制を整えるため、大塚石松氏の指導を得ながら、プラノミラー、ボーリングマシン、ドリルユニットなどの電気式あるいは油圧式の単能専用機を苦心してつくりあげ、一方で生産方式もトロッコによるタクト生産から、コンベア方式による流れ作業にあらためて、機械加工、エンジン組立ラインを改革、生産効率の向上に努めた。
シリンダーボディ加工ライン(プラノミラー)
さらに新しい工程管理システムの導入、作業・検査の標準化も取り入れたが、なかでもロータリー式エンジン運転試験台開発の成果は大きく、生産効率を一気に高め、昭和二十八年(一九五三)十二月には前年対比約二倍の月産一万台を突破、この多量生産の実現が評価されて、昭和三十一年(一九五六)四月には財団法人大河内記念会から、「大河内記念生産賞」受賞という栄誉に浴することとなった。
ロータリー式エンジン運転試験台
さて、K型ディーゼルエンジン開発と前後するようにインド貿易は終焉した。ピーク時には全生産量の八〇〜九〇%を占め、利益も大きかっただけに、輸出が止まったときのヤンマーの打撃は大きく、先に述べた和歌山鉄工、野村製作所を手離すほか、約一割の人員整理も余儀なくされた。また、信太山の十万坪近い敷地に、大形エンジンの部品を削れるほどの立派な設備をもっていた若山鉄工所を手離したのもこの時だった。孫吉社長が三十億円の価値かある工場だから残しておきたいというのを、財務担当の一部の者が、資金調達に困ってわずか三億円で、社長の承諾を得ぬままに売却してしまったのであった。