わが青春の譜(4)(2/2)
山岡浩二郎
K型ディーゼルエンジンの開発余話
一時間一馬力あて、燃料の消費量二百四十グラム、重量五十五キロ、農業用としてこのK1型の開発は、はかり知れないほど大きかった。
だが、市場に現われると、反響はむしろ外国のほうが大きかった。エンジンの趨勢が、当時はまだ大形へ、大形へと流れていた時代だったからであった。そこへ、第二次世界大戦の敗戦国日本で、世界に例のない小形のディーゼルエンジンがつくられたのだ。すぐさま特許を買いにくる商社が現われたり、米国政府からも、ライセンスは払うから製作法を教えてくれという申し入れを受けたが、日本内地の需要を満たすことが先で、欧米へ先に出してしまってはおしまいだと考えた孫吉社長は、断固として首を縦に振らなかった。
ちょうどその頃の出来事で、忘れられないことのひとつに、K社との間にくり広げられた宣伝合戦がある。
というのは、私たちがディーゼルエンジン開発に精力を注ぎ込んでいた昭和二十年代の後半は、業界はまだ石油エンジン華やかなりし時代で、全国には大小合わせて百五十社ぐらいの石油エンジンメーカーがあった。ところが、そのうちの大手メーカーであるK社が、ヤンマーが開発した小形ディーゼルエンジンに対して、重くて、スタートがわるいし、おまけに振ちょうどK型動も大きいと欠点を並べたて、戦後の一時期、放恣で退廃的な傾向の人々を呼ぶのに用いられた「アプレ」という用語をつかって、「アプレエンジン」とまでいって酷評したのであった。むろんヤンマーも反撃して、そこで宣伝合戦となったのだが、そのK社も後年ディーゼルエンジンをつくったのだから、よくもまあ、当時恥ずかしくもなくこんなことがいえたものだと、今でも思っている。
また、こちらは内輪話になるが、こんなこともあった。
長浜工場では賠償指定工場が解除になるとすぐ、戦時中機関砲をつくっていたホンダ技研から、米国製のラジアルボール盤、ブライアントのグライダー、シップのジグボーラーなど百点近い工作機械を買い込んだ。その一方で、大塚石松氏がドラムカムクイプの専用用機をつくるなどで、工場 いっきかせいは一気呵成に活況を呈した。ところが、ドラムカムタイプの専用機というのは、石油からディーゼルというようにエンジンの形が変わると、用が足せなくなり、スクラップにしてしまうしか仕方がない。
そこで私は、当時は興亜機械から移られてまだ間もなかった鈴木正之氏(の私が工場長になったとき工場次長になってもらった)に、「何か新しいものをやろうじゃないか」と相談、津上製作所に行って、「アメリカンマシニスト」という工作機械の雑誌をもらってきた。雑誌に目を通して驚いた。トランスファーマシンの話題ばかりだった。日本ではまだトランスファーマシンなんて何だろうという時代だったのに。 エンジンが出来た頃だったが、そこで考え抜いた末、鈴木次長とふたりで少々金がかかってもうちでもやろうということになり、まる二年がかりで、とうとう油圧・電動で駆動できる多軸ヘッドの専用機をつくりあげた。
福田農林大臣(後の総理)の工場見学を案内する鈴木工場次長(左)
一徹者の大塚氏は、アメリカンマシニストにのっている広告カタログを見ただけで、なかの構造が見えてしまうほどの工作機械の神様だったが、このときはさすがに寂しかったのだろう、「長浜ではもう私の出番はなくなった。カムドライブやベルトで動かす機械から、油圧や電動で駆動する機械に変わってきたのだから、私にはもう用事がない」とごねられたのには、他意がなかっただけに少々閉口した。孫吉社長にも、「浩二郎さんと鈴木さんは、あんなぜいたくな機械をつくって遊んでいるが、やめさせたらどうですか」というようなことをいったらしいが、しかし孫吉社長は知らん顔をしておられた。
ちょうどその頃、トヨタ自動車の取締役を経て、トヨタ工機の社長、会長を務められた菅隆俊氏が長浜工場に来てくださり、生産技術会議を開催したことがあった。そのとき、「これはトヨタでも考えていないことをやっている、これはよいな、早く完成させてください」と、いわれたが、結局この機械が次の時代の専用機として活躍した。
管 隆俊氏
カムとかネジで動かす旋盤をつくっておられた大塚氏には手に負えないものを、私たちの手によってつくりあげたということになるが、これは何も大塚氏のせいではない。以後も時代は急速に変わり、やがてNC、コンピューターコントロール、コンピュータのパルスを利用したモーターによって、自由自在に動く機械の時代に入ったが、エピソードのひとつとして、ここは正直にありのままを書きとめておこう。
(つづく)