わが青春の譜(12)(1/4)

山岡浩二郎

ヤンマーサッカー部と共に

自ら総監督となって創部

ヤンマーディーゼルサッカー部は昭和三十二年(一九五七)に創部した。

すでに述べてきたように、私は元来スポーツが大好きで、戦後海軍から復員して長浜工場に勤めるようになってからも、社内の親睦と地域住民との融和を図るためにもスポーツがいちばんと考えて、余暇には社内外の同好の士を集め、比較的手軽に出来るということもあって、はじめはテニスや卓球をよくやった。昭和二十七年(一九五二)にはヤンマーが協賛して、長浜軟式庭球協会主催の、ヤンマー杯近府県軟式庭球大会というのを発足させた。 だが、私はもともと企業スポーツというものは、個人競技ばかりでなく、たとえ費用はかかっても、チームワークを重視する団体スポーツもたいせつにしなければならないと、つねづねから考えていた。当時からヤンマーには、会社がバックアップし、従業員が運営主体になる体育会組織があって、野球部をはじめテニス部、卓球部、バレーボール部などが活発に活動していた。そこへ、サッカー部の初代監督となった古川能章君など、学生時代にサッカーを経験した若手の社員数名から、サッカー部をつくりたいという話が持ちあがったのである。こうして私がみずから部長兼総監督になって、サッカー部が発足した。

発足時のメンバーは十四、五名だった。だが、そのほとんどは素人でここでおぼえはじめた者が多く、試合といっても既存のチームの胸を借りての練習試合という域を出られなかった。それでも二年たった三十四年(一九五九)には大阪実業団リーグ二部に加盟、公式戦にも出場することになり、やる以上は戦力も強化せねばと、学卒のサッカー選手を年々補強するようになった。そのおかげで昭和三十八年(一九六三)には、リーグ加盟四年目にして一部昇格をなし遂げたのである。

同じ頃、日本サッカー協会では、サッカーの指導者としてドイツから招請したクラフー氏の提唱によって、全国リーグ(JSL)創設の機運が高まり、昭和三十九年(一九六四)にその構想が発表された。ところが見て驚いたのは、関西代表のチーム枠はわずか一チームで、これでは田辺製薬をはじめ湯浅電池、大日本電線、電々近畿、日本ダンロップといった、先行する名門チームが居並ぶなかでは、とてもヤンマーの入り込む余地など、虫の隙間ほどもないということだった。

しかし、全国リーグの重要性を直感した私は、何をしてもりリーグ入りを果たしたいと燃え、関係者にも大号令をかけ、猛烈に働きかけを行なうことにした。このサッカー部あげての熱意に加え、幸いなことに、関西の各チームが日本リーグの価値をいまひとつ疑問視し、やや消極的だったという事情にも助けられて、おおかたの予想土畏切って、ヤンマーが関西代表として、昭和四十年(一九六五)六月、JSL発足と同時に晴れてリーグ入りを果たしたのである。

と、書けば、万事が順調なようだが、何分熱意ばかりが先行して、実力がともなわないままの加盟だっただけに、さまざまな苦労もつきまとった。 JSL加盟が決定した直後の.重点の課題は、いうまでもなく戦力の補強であった。しかし優秀なこれと思う選手は、どうしても先輩のいる伝統のあるチームを目指し、新興の実績をもたないわがヤンマーには目を向けてくれない。補強もままならぬままに、いよいよ昭和四十年日本リーグは開幕、試合に臨んだが、やはり他のチームとの戦力格差は否めず、昭和四十年は八チーム中七位、四十一年は.下位とさんざんな戦績に終わり、毎年入れ替え戦を演じ、リーグのお荷物と酷評されるありさまとなった。

当時、私はヤンマーディーゼルの専務で、担当業務の分野もひじょうに広範囲となり、多忙をきわめていたが、私自身関西代表として日本サッカーリーグ一部の評議員も務める以上、これでは駄目だ、責任もあると思い、監督・コーチとともにチームの運営に直接タッチ、体制の立ち直しに乗り出すことにした。