わが青春の譜(12)(3/4)

山岡浩二郎

釜本監督と共に

釜本新監督は就任にあたって「優勝を狙えるチームをつくるには.低三年はかかる。基本ができていないのに、守備もやれ、攻撃もやれといってもそれは無理。まず、自分の持ち場をきっちりやることから鍛え直したい」と、抱負を述べたが、私もまったく同感で、そこで、「基本から体制を立て直し、三年目に優勝する」ことを目標に定めた。若手選手には面白くないかも知れないが、ともかく体力と根性づくりのために、走ることから鍛え直せというわけだ。基礎になるものとは部員の体力、知力、技能力、そして根性だからである。

「技」だけの競技ではないのだから、個々人がいくら「技」を習得しても、イレブンがバラバラに行動したのでは試合には勝てない。「技」を生かすも殺すも、イレブンのけんめいの走りのなかで、瞬時瞬時の状況の動きを判断しつつ、次の変化の予測とタイミングキャッチを百分の一秒ぐらいの早さでデシジョンして、行動に移してこそ発揮されるもので、それが身につかねばならない。

釜本監督の三年計画は何とか進行し、選手も期待に応えようと頑張ってくれたおかげで、昭和五十五年(一九八〇)に五〇年以来五年ぶりで、「三年目に優勝」という念願を果たしてくれた。「釜本ヤンマー」になってはじめての優勝であり、また久しぶりの優勝ということもあって、サッカー関係者の喜びはもちろんのこと、ヤンマーあげての、従業員から関係各社の人々をふくめた大歓声となった。

ただ、私自身は優勝したからといって、だからイコール強いチームになったとは思っていなかったし、また選手たちにもけっして慢心している様子は見えなかった。この調子でいけば今年の天皇杯も取れそうだと忠っていたところ、案に相違して二回戦であっさり負けてしまった。

この年の天皇杯戦は、変則スケジュールで日程がつまっていたため、調整が十分にとれなかったのは事実である。気を抜いたり慢心したのでもなかった。しかし田辺製薬チームに対する読みは甘かったし、一人ひとりのどこかに少しずつではあるが隙が生じて、それが敗戦につながったのは確かなようであった。前半に一点を先行されて、その一点が.後まで取旦戻せないで○対一で負けるということは、精神のゆるみと評されてもいたし方のないことであり、大反省点となった。ほんの一瞬の心の隙からよもやの結果を招くからサッカーはこわい。社会生活、経済生活、企業活動とまったく同じである。

田辺製薬戦の二日後に釜本監督が報告にきて、「申しわけありませんでした。来年もプレインブマネージャーとして頑張りますごといってくれたので、私は小言はいわず、徹底して鍛え直してほしいとだけ頼んでおいたが、悔しさが消えたわけではなかった。釜本監督も同じ思いだったろう。

この五十五年度リーグ戦の前期は、モスクス五輪のアジア予選やジャパンカップ戦の関係で、一ヵ月間に九試合という強行日程だったが開幕から七連勝し、東洋工業戦を引き分けて、前期を八勝一分の無傷で折り返した。前期無傷の折り返しというのは過去にもなかったことで、これは、一ヵ月に九試合という強行軍が、かえって緒戦に勝ったことでムードの持続となり、一気に突っ走るという幸運になったのだろうと思う。八勝一分 ○敗、勝点十七、得点十三、失点四の成績は、勝点十二以上という開幕前の目標を大きく上回る戦績となった。

だが、内容を分析してみると、失点四はデフェンスが安定しはじめたことを示すが、得点十三は、十チーム中五番目で、シュート数も少なく、一点差のきわどいゲームが続いたことを物語る。要するに他を圧倒する強豪ぶりを発揮したのではなく、釜本選手を中心にして展開する試合運びのなかで、全員が走りながら状況を判断して瞬時に次の行動に移る、基本の身のこなしが出来た結果、獲得した勝利であった。原点に返ってやり直した訓練の賜だ。

後期開幕の三連勝はすべて逆転勝ちだった。釜本選手のハットトリックや、釜本君ならではの執念の技もあって幸運な勝ち星を重ねた。しかし後半戦四戦目が魔の試合となり、東洋工業に0対2という無得点の.悪の内容で初黒星を喫した。一点を先行されてから中盤の組立てがちぐはぐになり、焦ったDFが中盤のプレーをすっ飛ばして、FWへタテパスばかりを連続して送ったものだから完全にふせがれてしまった。勝ち続けた安心感からか、勝ち気にはやった焦りからか、何かしらイレブンの心の隙に悪魔が潜んだのだろう。だから負けた。試合後、私が「.後の.後まで心を引き締めてやれ」と厳しく注意したのは、そう感じたからだ。

結局、第十六節の新日鉄戦に勝てば自力優勝が決まることになっていた。たまたま私はこの新日鉄戦の二日前から社用で福岡に出張したので、当日は競技場に出向いて、胴上げをするつもりだった。ところがその前日、二位同士のフジク、三菱がともに引き分けたので、新日鉄戦を待たずに優勝が決まってしまい、何だか拍子抜けの気分になった。優勝が決まったのはうれしいが、ここで拍子抜けしたまま新日鉄戦に臨み、みっともない試合をしたのでは優勝が泣くし、ヤンマーサッカー部のプライドにも傷がつく。夜、私は、小倉の宿舎にいる釜本監督に電話を入れてこういった。「他力で優勝が決まってしまったけれど、新日鉄戦に勝って、きちんと自分で優勝を決めろ」。そして、おめでとうという言葉はひと言も発しなかった。

昭和55年度に本サッカーリーグ最終戦 対新日鉄に買って優勝の胴上げ

あいにく当日は雨天で悪コンディションだったが、私の厳しい考え方を感じとってくれたのか、バックスは完璧の守りをするし、釜本、長谷川治久の両主砲がそろって得点してくれ、2対0と、まさに優勝を実感として受けとめられる快勝となった。

おまけにこれで釜本君は通算得点が190点となり、優勝に華を添えてくれたのでこの時点で、日本サッカー協会の好意と尽力もあって、釜本君は十二月十七日にスペインのバルセロナで行なわれる対バルセロナ戦の世界選抜軍に代表選手として選ばれ、ペッケンバウアー、マラドーナらと組んで出場することが決まった。リーグはあと二試合残していたが、本人も「ぜひ行きたい」と希望しているし、私もこんなチャンスは二度とない名誉なことなので、心からおめでとうと祝福して送り出した。

残る二試合は釜本君なしとなったが、それでも一勝一分となり、五十五年度のリーグ戦は十三勝四分一敗、得点二十九、失点十三、勝点三十という成績で優勝した。うち釜本君の得点は十点で、シュート王・得点王といわれた.盛期にくらべると明らかに得点力は落ちたが、監督兼任ということと体力の衰えがある以上、これはやむをえない。問題は釜本君に続く者が早く成長して、得点力がさらに増えることだ。失点を十三に押さえたことは、バックスと中盤の守備の上達を示すもので、釜本サッカー三年の鍛練の成果であった。

しかし、一シーズンを振り返って、天皇杯の二回戦敗退のごとく、ムラの出る点はやはり問題として残った。ヤンマーはエンジンのかかるのがおそいよ、とよくいわれた。つまりフォーメーションがうまく繋がるまでに時間がかかりすぎるということで、これは反省だ。先行されると焦りが出てフォーメーションづくりに乱れが出て、日頃の練習の成果を発揮できないままくずれてしまうということだ。

「ダイナミックな戦略をみんながもっと頭に叩きこんでプレーしなければならない。ミクロの個人技、とくにトラッピングや長短自在の正確なパスの練習、ジュートへの執念等、まだまだより以上に練習して、改めるところは改めることだ」と、納会であいさつしだのもついこの間のことのように思う。