わが青春の譜(12)(4/4)

山岡浩二郎

サッカーで考えたこと

ところで昭和四十年代に入って、ヤンマーディーゼルがデミング賞実施賞の受賞を目標として「全員参加のYQM」(Yanmer Quality Management)を提唱した dynamic management 頃、私はサッカーの闘い方からヒントを得て、「ダイムボール(dynamic management ballの意)を回そう」という小論をつくり、YQMをわかりやすく解説して、全従業員が立場の違いをこえて、ダイナミックな経営管理の原点を認識してもらえるための教材に使用したことがあった。要するにマネージメントをもっとダイナミックに上昇させることで、つねに次元の高いバラツキを意識し、ジャストインクイムに行動をとることが重要なポイントだということを、サッカー風に説明したのである。

ダイムボールを掲げて勝利を祝す

事実、サッカーチームの運営自体においても、「ダイムボールを回そう」の考え方に沿って、改めるべくは改めるという積極性をもって課題に取り組んでいくことが肝要であると思い、そのために五十六年度(一九八一)には吉村大志郎君をコーチに任命し、体力、知力、技量、根性のいっそうの練磨に徹底を期すべく号令をかけた。当時、私の胸中には、毎年のリーグ戦をはじめとする諸々の大会に勝つことはもちろん大事であるが、目標をさらに大きく掲げて、単独でも世界選手権戦を互角に戦えるようなチームを育て上げたいという、激しい情熱がみなぎっていた。

こんなこともあった。JSL時代のサッカーは、今日のJリーグのようにプロではなかったので、選手はすべて社員であった。試験に合格して入社すれば、それぞれ配属された部署で午前中仕事をし、午後からグランドに出て練習するのである。したがって学校を卒業するサッカー選手が、もしヤンマーに入ってJSLでサッカーをしたいと思えば、まず入社試験に合格しなければならない。ところがヤンマーはある水準以上の成績でなければ採用しないものだから、少し成績がわるくても、人柄に優れ、サッカーの技量に秀でた選手がいると、私が神崎工機の社員として採用することにした。ところがそのメンバーには、正規に入社した者より仕事面でも役に立つ者がけっこう多く、そんなこともあっていつのまにか人数がどんどん増え、ヤンマーのサッカー部はリーグ一部・二部ともにチームを持っていたが、その総勢の過半数の部員が神崎工機の社員ということになってしまった。

だから、サッカー部のことで会社(ヤンマー)とのあいだに何かトラブルがあると、「神崎工機でリーグに出たらどうですか」と、若い選手たちはよくいったものだった。もちろん出来ない相談であり、その代わりといっては何だか、ヤンマーのサッカー部をやめた連中も加わって、のちには神崎工機でサッカーチームをつくり、JSLの下部組織である社会人リーグに加盟した。ヤンマーをやめたとはいえ、まだ年も若くJSL戦で戦ってきた選手が加わっているのだから戦力はある。だんだんに優秀な成績をあげてきた。「おい、もう勝ってくれるな、お前達がJSL(全国リーグ)に出てきたらたいへんだ。まあ、そのへんでとめとけや」と、冗談まじりにブレーキをかけ、そのかわりに褒美としてユニフォームを新調してやったりしたものだ。

神崎高級工機製作所サッカー部

このように私は日本リーグの発足以来、日本初の外国人選手導入や釜本君のドイツサッカー留学あるいは平日午後の練習実施、選手の健康管理、体力の増強、海外遠征等久細かくあげればキリがないぐらい、いろいろなことを実行に移して強化に努めてきた。

ブラジルからの吉村君の参加にしても、以来各チームは競って外国人選手の確保に乗り出したが、これは単にチームカを強めただけではなく、日本選手のレペルアップに役立ったと私は思う。ましてや今日、Jリーグが発足するにいたってば、外国人選手なくしてはチームが成り立たず、各チームはますます血眼になって外国人選手を物色し導入をほかっているが、これはあくまで日本人選手の層の薄さが原因であって、出来るだけ早い機会に技術、人気ともに外人に頼らなくてもすむ、世界レベルの日本選手が多数育ってくれることを願ってやまない。

ともあれ、おかけでヤンマーのサッカー部は過去日本リーグで優勝四回、準優勝四回、天皇杯全日本サッカー選手権大会でも優勝三回、準優勝五回、JSLカップサッカー選手権大会では優勝二回、準優勝二回という輝かしい戦績と栄冠を獲得し、名実ともに日本リーグの名門チームの地位を築いてきた。

これだけのチームを維持存続するのであるから、考えてみれば苦労も多かった。なかでも不景気で会社が人員を調整していた一時期があったが、折も折、その.中に、サッカー部では優秀な選手を入れて戦力を強化しなければ、一部リーグから二部へ転落するという危機に直面した。人事部長の専務に相談すると、「今、人員を整理しようかといってる.中に、選手の採用などしたら組合にしめしがつかない」としぶい返事だ。話にならないので、社長に直接談判しても、イエスでもノウでもなく、はっきりした答えが返ってこない。そこで、「任せてもらいますよ、よろしいな」と三回念を押し、ブラジルから優秀な選手を二名採用して強化を果たしたことがあった。

サッカーでは個人のテクニックそのものには当たり外れがあるが、やはりトップとは、こういう一つの切れ目に、しっかりした決断で何をもってやるかということがいちばん大事なことだ。

私は日本リーグ発足当初から、同リーグの.高議決機関である評議員会の評議員として、リーグの運営に参画し、平成二年(一九九〇)一月には日本サッカーリーグが創立二十五周年を迎えるにあたって、.長評議員賞という表彰を受けた。その日は、情熱を燃やして突っ走ってきた、リーグ運営のいろいろな出来事や名勝負の数々の場面が、走馬燈のように頭のなかを駆けめぐり、さすがに感無量の思いであった。

最長評議員賞受賞の栄誉に浴す

そして今や、Jリーグはプロ野球をはじめ、他のプロスポーツと同様、押しも押されもしないプロの世界に位置している。

ヤンマーも当初からプロ化を目指していたが、何といってもプロともなれば年間数十億円ものお金がかかることだし、慎重に進めていたため準備不足となり、.初のスタートには時間切れで間に合わず乗り遅れてしまった。そうこうするうちに、ヤンマーの役員会でもいろんな問題があって、とてもサッカーを維持するのは難しいから、この際やめてはどうかという意見も飛び出してきた。私は「馬鹿なことをいうな」と一蹴、逆にサッカーのプロ化推進をはかる社内組織を強化、日本ハム、カプコンその他大阪の各企業の皆さん、さらに大阪市長の賛同を得て、平成七年(一九九五)から、「セレッソ」(スペイン語で桜、桜は大阪市花)という名前でJリーグ参入が実現できた。サッカーファンの期待に応えて、かつての光輝と伝統あるヤンマーのサッカーが再現でさればと真に願っているところだ。

(つづく)