凸版印刷とともに60年(5/15)

鈴木和夫

初代外国部長としてインドネシアのコーラン製造を受注

昭和三十五(一九六〇)年、凸版印刷に外国部が設けられ、私が初代の外国部長を拝命した。 最初の仕事は、賠償金によるインドネシアのコーランの製造であった。インドネシアの宗教省と印刷の幹部との間で、イスラム教の教典であるコーランを五百万部調達するという話し合いは既にできていたが、賠償の手続きはもちろん、値段も見本も作業手順も、何もかも一切決まっていなかった。

見本を造り、見積もりをして驚いた。六億四千八百万円という数字になった。わが社において一受注伝票で、この金額を上回った伝票を発行した者は、平成の今日に至るまでいないそうである。

ところで見積もりができても、賠償使節団に認めてもらわねばならない。しかし使節団は、賠償払いは、ダムや発電所、港湾、道路、学校といった施設でないと認めないという。私は団長に直接談判をして、五百万部のコーランは、インドネシアの人たちの心の糧として、いかに重要な価値を持っているかを何回も説明した。宗教省の役人は早く仕事にかかれとせっつくし、宗教大臣ワヒブ・ワハブも来日、一時はどうなることかと心配した。十一カ月近くかかったが、やっと賠償金での支払認められ、インドネシア大使館で調印式が行われた。

聖典「コーラン」は、B5判約五百五十頁で製造部数五百万部、インドネシア政府の宗教省の要請により受注し、日本の賠償金から支払を受けた

アラビア語の校正ができないので、インドネシアから四人のハジ(メッカへの巡礼を済ませた僧白のトッピーを被っている)が校正のためにやってきた。

ある時、四人の内の一人が歯を痛めたので、医者に連れていった。すると他の三人がやって来て医者で彼のために支払ったのと同じ額をわれわれにくださいと言う。そうでないと不公平だと真面目に言うのである。この「不公平論」には、さすがにびっくりした。コーランの教えに従った行為ことであるが。

それはともかく、仕事は順調に進んだ。板橋と大阪の両工場の活版輪転機に、インドネシアの、メラ・プチ(赤・白)の小旗を掲げて、精神込めて作業に従事した。

コーランの完成を契機に、戦後中断していたわが社とインドネシアとの関係が急速に回復した。ルノ大統領が来日された折には、板橋工場まで足を運ばれ、山田社長の先導で隈なく工場を見学された。戦時中に軍の管理下にあった凸版印刷では、ジャカルタを始めバンドン、スラバヤ、マランの各地で女性三人を含む約六十名が仕事をしていた。戦後引き揚げてきた人たちは皆、インドネシア意を抱いていて、再び接触が始まったことを喜んでくれた。

板橋工場聖典「コーラン」印刷開始式典

外国部長としての私の気持ちは、敗戦により壊滅状態にあったわが印刷業界が、アメリカから大産技術と製版技術を、ヨーロッパ諸国か印刷の基本技術と製本技術の面で大変にお世話になったからには、今度は日本の番と、東南アジア諸国に、技術的なお返しをするのが当然の義務ではないかということでた。従ってインドネシアの他にホンコン、シンガポール、マレーシアなどから数名の留学生を預かった。彼らは工場の人たち良しになった十数年以上も経った今では、現地で立派な印刷人として自営している人、あるいは、わが社の現地法人の役員になっている者もいるの根外交の一役を「心のつながり」を通じて行うことの大切さを、身をもって体験いる。

香港凸版で印刷・製本した『スカルノ自伝』

東アジアで忘れてはならないのは、お隣の大国、中国である。戦争中の不幸な出来事は、なにもに限ったことではない。しかし過去の歴史に照らしても、将来を考えても、中国とのお付き合いは、アジアの平和にとって最も大切であることは疑う余地がない。中国の印刷界からは、現在までに既に五十名以上の研修生を、東京と香港でお預かりしている。十二億の人民の中で、たった五十名が何の役に立つのか?と考えると、少し寂しくなるが、二十一世紀のアジアの中の日本のことを考えると、あらためて、新しい考えのもとに、頑張って続けていければと思っている。