第 1講 今なぜ知的財産権が注目されるのか(1/4) PDF
細川 学(2006年08月)
第1話 知的財産が注目され始めた理由
なぜ知的財産戦略会議が発足し、知的財産基本法が制定されたのですか
- IT(情報技術)時代を迎え、商品も技術も地球レベルで瞬時に流通するようになりました。同時に21世紀は偽物の時代とも言われるように不正コピーが深刻な問題になりました。生産も自社で製造工場を持たずに他社に委託するなどの方式(ファブレス)も進行しています。
- そのため1980年代より米国を中心として知的財産権を武器とする国際的な市場ルールの構築を目指す知的財産権強化策(プロパテントの法理)が採用されるようになり始めました。その結果知的財産の国際支配が進み、パソコンOSのマイクロソフト、CPUのインテル、影像のディズニー等、知的財産権をバックに国際市場を支配する企業が続々と出現するようになりました。
- この関連では、日本のマスコミではあまり報道されませんでしたが、日本の関連産業の知的財産権分野の関係者の間ではすっかり著名になったレメルソン氏のように1954年に出願した1件の特許出願を基に、何百件もの関連技術について特許権を取得し、それで約5億ドルも稼いだという“ 町” の特許成金も出現しました。しかし、その裏には、基本的に日本の経営者の間では知的財産権に対する関心に欠如していたということを背景に、各国間の法制度の違いなどを武器にし、それに言葉の障壁もあって、その間隙をついた辣腕な特許事件弁護士が暗躍したという事実があることを忘れてはなりません。
- このように、日本は「もの作り」の技術については先進国ですが、これまで知的財産権ということに対する意識は希薄で、後進国でした。いくら「もの作り」の技術を誇っても知的財産でも先行しなければ世界のリーダーになれなくなりました。そして日本でも、ついに2002年3月には「知的財産立国」を目指して内閣府に「知的財産戦略会議」が設置され、2002年12月には「知的財産基本法」が制定され、さらにそれに基づいて内閣府に「知的財産戦略本部」が発足し、「知的財産推進計画」が策定されるようになったのです。
プロパテントの法理とは何のことですか
- プロパテント(Pro-Patent)の法理とは、知的財産権を強化する法理論とそれを支える政府の経済政策との組合せのことです。プロパテントの意味そのものは、特許権に保護を強くすること(特許重視)で、その反対語はアンチパテント(Anti-Patent)です。
- ある特許発明に対する特許権侵害を判定する場合に、プロパテントの立場に立つと、特許発明の権利範囲を広く解釈するようになります。知的財産権は排他的独占権ですから権利の強化は発明、創作意欲の増進、産業競争力の強化に役立つ反面、権利者による市場支配を促す懸念もあります。
- 従って各国政府は自国の知的財産活動の状況によって、独占禁止法との関係を考慮しながら、プロパテントとアンチパテントを使い分けてきています。しかし、国際的にはプロパテントが潮流になりつつあります。
- そして日本も国際的なプロパテントの動きを背景に、知的財産先進国になったとの認識の下に、プロパテントの方向に舵を切りをしましたが、心配な面もあります。
- それは日本が依然として追従型研究開発・技術開発を得意としていると思うからです。追従型研究技術開発を得意とする日本にとってプロパテントの方向への変更は厳しいものになると思います。日本が先行型研究開発・技術開発に転換できるかどうかが、これから重要な鍵を握るようになると思います。
プロパテントの潮流はなぜ生まれまれたのですか
- プロパテントの法理は1980年代始めに米国で生まれました。
- 米国ではどちらかと言えば産業寄りの共和党と労働者寄りの民主党では知的財産権の保護のスタンスが異なり、だいたい共和党政権はプロパテント政策をとり、民主党政権は独占禁止法を厳しくするという流れがありました。
- 1980年、第2次石油危機が世界経済を直撃し、廉価な石油を前提とする米国経済は破綻の危機に瀕しました。そこで米国は輸入規制を行うとともに、上級特許裁判所を創設し、独占禁止法を緩和し、さらに1985年の「ヤング・レポート」に基づく「88年包括貿易・競争力強化法」を制定し、特許法、関税法その他の知的財産関連法を改正し、知的財産権を画期的に強化しました。
- この改正法により米国ではプロパテントの流れが確定し、知的財産権の紛争が増大し、権利者に有利な判決が主流となると共に賠償金も飛躍的に高額になりました。日米企業間でも、以下のような高額紛争、その和解金による解決などの事例が相次ぐようになりました。
ポラロイド対コダック:自動焦点カメラ |
判決873.3百万$ |
1991年 |
TI 対富士通:キルビー特許 |
原告請求額2000億円 |
1991年 |
ハネウェル対ミノルタ:自動焦点カメラ |
和解金127.5百万$ |
1992年 |
コイル対セガ・エンタープライズ:ゲーム機 |
和解金43百万$ |
1992年 |
レメルソン対トヨタ他:CCD画像処理 |
和解金100百万$ |
1992年 |
IBM 対京セラ:パソコンソフトウェア |
原告請求額187億円 |
1993年 |
これらの背景には日本企業を標的とした辣腕な特許事件屋弁護士の暗躍があった。彼らが暗躍することが出来たのは、以下のような事情もあった。
- 日本は聖徳太子の昔より「和をもって尊し」とする国であり、話合いによる円満解決を望ん でいました。当方が有利な状況でも経営的な判断で示談に応じる傾向がありました。この特 質を知りぬいた一部の弁護士が特許事件屋弁護士となりました。
- 彼らが日本企業を攻撃する根拠としたのは、もっぱら「88包括貿易・競争力強化法」により 制定された米国特許法271(g)項と改正関税法337条でした。
たとえば、米国にしか存在していなかった方法特許を使って外国で生産された部品を組み込 んだ自動車などの組立品に対してまでも、特許権侵害訴訟と米国への輸入差止請求をちらつ かせて示談を強要するなどを行いました。