わが青春の譜(6)(1/3)
山岡浩二郎
神崎高級工機製作所社長就任
昭和三十一年(一九五六年)、私が三十八歳のときだった。四月にヤンマーの取締役になり、製造部長として製造部門全体の責任をもつことが決まった。同時に海外事業部長も兼務、当時計画を進行させつつあった、小形ディーゼルエンジンの生産拠点としての、海外直系会社の設立等にも取り組むことになった。
以前にもまして多忙になったその矢先のことだった。孫吉社長から、あるとき、「浩二郎、金をつかうだけやなく、金儲けや借金の苦労などもして金の有難さがわかるように、ここらで将来の修養やと思うて、ひとつ駅前工場の社長も兼務してみい」といわれたのである。
駅前工場とは、国鉄尼崎駅(現在のJR尼崎駅)のすぐ南側に会社があったことから、ヤンマー社内で通称こう呼ばれていた、神崎高級工機製作所(以下神崎工機と略称)のことである。
寝耳に水だっただけにびっくりした。「ちょっと待ってください。とにかく考えさせてもらいます」とだけ答えて、当時ヤンマーの上役のなかでは、私がとくに信頼を寄せていた、孫吉社長の片腕ともいうべき常勤監査役の阿閉広治氏に、相談をもちかけた。「あれは赤字の会社じゃないですか」「だから、あんたに立て直してもらいたいんだ。まだ若く、からだも丈夫なんだから、今のうちにできることは何でもやっていろいろ経験したほうがよい、ぜひやんなさい」
こう言われてみると一晩で腹がきまった。翌日、早速社長に会うと、「潰してもよいのでしたら、やらせてもらいましょう」と返事をした。
工場を見に行くと、わずか千五百坪(約五千平方メートル)ほどの小さい工場だった。ああこれだったら工場に毎日足を運ばなくてもやっていけるな、と思った。
昭和31年社長に就任した頃の神崎高級工機製作所の工場風景(現尼崎工場)
この神崎工機は、昭和二十二年(一九四七年)五月、孫吉社長が戦災を受けたヤンマー尼崎工場の復興のため、工作機械の整備・修理と治工具・部品を製作することを目的にして、発足させた会社であった。この発祥の地は、今の尼崎工場(尼崎市長洲西通)となっているところで、当時、この周辺を神崎といっていたことから、孫吉社長が地名をとって、「神崎の地で高級な機械をつくる会社にしたい」という願望をこめて、みずから、「神崎高級工機製作所」と名づけたられたのである。
むろん神崎工機はヤンマー直系の会社であり、現在も事業の大半はヤンマーの製造の一翼を担っているのであるから、グループ会社のひとつであることもちがいない。そんなところから、社内では知名度、信頼度を高めるためにも、ヤンマーの文字を一部に取り入れ、たとえば「ヤンマー工機」というように、社名変更してはどうかという意見がある。しかし、今述べた設立経緯でもわかるとおり、この社名は、孫吉社長が当時、神崎の地で高級な機械をと、願いをこめてつけられた社名だから、私が社長であるかぎり、社名変更することはぜったいにありえない。
私が社員にことあるごと、社名に恥じない会社にしようと檄をとばしてきたのも、このような由縁による。