わが青春の譜(6)(2/3)
山岡浩二郎
就任時の神崎高級工機製作所
この会社は、発足当初は、戦時中、空襲で被災したヤンマー尼崎工場の工作機械の修理を主な仕事とした。やがてその仕事が一段落すると、他社からもいろいろな仕事を受けるようになり、さらにヤンマーエンジンの部品も製造してしのぐようになった。
だが、ヤンマーには工作機械のわかる者がおらず、修理費ひとつをとっても高いか安いのかさっぱりわからないというありさまで、しかも代々ヤンマーの役員またはそれに相当する人たちが兼務で社長を務めたため、皆、本気でやる人がおらず、当然ながら実質的には赤字続きで、給料も遅配・欠配になるところを、ヤンマーから補填を受けて、何とかやっている状態になっていた。事実、ヤンマーの役員の中には、私が社長を引き継ぐことが決まったとき、公然といったものだった。「山岡、あの会社は、ヤンマーのエンジン部品でもやらしておけば、わざわざ行く必要もないし、それで利益が出るようにすればいいんだから、気軽にやりたまえ」
しかし、この会社には、工作機械の技術があった。初代社長の正田夘吉氏、また、戦前から工作機械をやっていた唐津鉄工所出身の五、六人の技師たちがいた。私は社長を引き受け、これは面白いぞ、ここでぜひ工作機械をやってみようという気持ちになっていた。だから、この役員にこう言ったものだった。「冗談じやないですよ。私は工作機械が好きだから、あの会社を引き受けようと決めたんです。あなたのおっしゃることは聞けませんな」
そして、社長に就任するとすぐ全社員を集め、次のような要旨の訓示をした。「私はヤンマーから来て社長になるが、この会社は現在赤字会社である。社長になった以上一生懸命にやって、一日も早く採算のとれる良い会社に再生させたいと思う。中小企業の一社長として、この会社のために勉強もしたいと思っている。したがって諸君も、親方日の丸で、ヤンマーが何とかしてくれるから、というような安易な気持は即刻捨ててもらいたい。また、ヤンマーが後ろ立てになっているということで、もしM歯車会社のように労働争議をやるならば、立ちどころに会社を閉じる覚悟をしているから、それも承知しておいてもらいたい」
余談になるが、このM社というのは、戦前から尼崎にあった会社だが、戦後仕事がまだ満足にできないころから、労働組合ができて争議がたえず、嫌気がさした社長が、数百万円でO社に売却してしまうという経過をたどった会社であった。ところがその直後に朝鮮戦争が起こり、その特需で、日本の産業は一気呵成に息を吹き返したのであるからたまらなかった。このM社の社長は孫吉社長とは友人であり、私もこの間の事情をよく聞かされていたので、もう少し辛抱しておれば高く売れたのにと、歯ぎしりしておられた気持もよくわかったのである。それを教訓とすべく、就任あいさつに加えたのだった。