わが青春の譜(6)(3/3)

山岡浩二郎

歯車の集中生産とトランスミッションの開発

私が就任した頃の神崎工機は、ヤンマーの関係では主としてディーゼルエンジンの部品(歯車の一部を含む)と船舶用クラッチを製造していた。一方、その頃のヤンマーでは、エンジンに使用する歯車は、それぞれの工場で製造していた。

そこで私は、ヤンマーの製造部長として製造全般を統括している立場からも、将来を眺望して、歯車や船舶用減速逆転機などは、専門技術の蓄積と品質、性能の確保、さらにはコストの低減をはかるうえで、専業独立企業における集中生産に変える必要があるという理念から、ヤンマーグループ各社、各工場に分散していた歯車製造設備をぜんぶ神崎工機に移設、名実ともに、歯車および歯車装置の専門生産工場として再出発させることにした。

先に述べたとおり、この会社には、歯車の精度向上を目指したギアシェービングマシン開発など、優れた工作機械の実績をもつ技術陣がおり、そこに私は期待したのである。この一連の事業推進のため、神崎工機ではヤンマーから千九百万円の借入金をしたが、これが私が責任をもった最初の借金であった。

この歯車の集中生産は順調に軌道に乗り、四年後の昭和三十五年(一九六〇年)十月、尼崎市猪名寺に新しく歯車専門工場として伊丹工場を発足させた。現在の本社および本社工場があるところである。

開設時の伊丹工場全景

しかしその一方で、私はこんなように歯車だけをつくっていても、結局は値切られて儲けは少ないし、そのうえ何か問題が起こるたびに歯車がわるいと言われ、これもまた割に合わないところから、舶用クラッチの実績もあることだし、何とかして歯車装置の拡大をはかりたいと考えるようになっていた。

折も折、ヤンマーでは従来までのエンジン専門メーカーから脱皮、新たに、農業機械事業を経営の柱として加えることがきまり、昭和三十六年(一九六年)、ヤンマーの農業用エンジン部門が母体となり、岡山の藤井製作所、高知の協和農機、九州の竹下鉄工、静岡のニューデルタ工業の四社と系列を組み、ヤンマー農機株式会社を発足させた。つまり、四社と業務提携を行ない、それぞれの会社の作業機とヤンマーのエンジンを直結して、これをヤンマーの商標で販売することが決まったのである。ところがいざ発足してみると、藤井、協和、竹下でつくったヤンマーブランドの耕うん機の評判が悪い。エンジンの力が強すぎて作業機とうまくマッチングしないのである。

そこで私はかねてからいだいていた歯車装置の製造を、この耕うん機の卜ランスミッションで実現しようと意を決し、神崎工機の技術陣に、「ケースなんか簡単じゃないか、専用機をつくって三方からさっと加工すれば、いっぺんにできるじゃないか」とはっぱをかけた。

ついに完成。そして出来あがったのが、Y型というヤンマーブランド統一の耕うん機であった。このとき、三社の社長はケンケンゴウゴウと反対した。ついにはヤンマー農機の専務までが反対した(ついでながら当時私はヤンマー農機の取締役を兼任。昭和四十一年十二月から四十五年五月までは専務取締役総合技術研究所所長を兼務した)。「山岡は神崎工機でミッションをやりたいもんだからやっとるんだ」というような陰口が盛んに飛び交う始末だった。しかし、私は集中生産のメリットを生かして、安くしかも品質が安定しておれば、これはぜったいに正しいんだという信念があった。だから誰が何をいおうと、それを理解できない程度の者が吠えたてているのだと思って、知らんふりすることにした。

ところが、このミッションが耕うん機搭載用に開発された新エンジンとよくマッチしたものだから、Y型耕うん機は爆発的な売れゆきを示し、一気にシェアが六割も拡大した。やはり私はまちがっていなかったとひそかに自負していたが、皆がよい耕うん機が出来たとワイフイ言い出した頃、たまたま陰口をたたいた人物の一人と顔を合わせたので、さすがに私もひと言いってやった。

「私は神崎工機のためにやったんか、それとも君たちのためにやったんか、どっちやと思うかね」 皮肉まじりのひと言だけに、その人物も大いに閉口したものだった。 昭和四十年代に入ると、農機市場では今度は、トラクタがいよいよ本格的に参入しはじめるようになった。そこで経験上、私は、トラクタを成功に導くためには、何をさし置いても、トランスミッションの専門工場をつくることがどうしても必要であると主張した。

するとまた、ものをつくることを知らず、しかも目先の資金調達やリスクばかりを恐れるヤンマーのG専務をけじめ、トラクタそのものの製造を疑問視する者たちをふくめて反対者が続出した。しかし、私は淳男社長と相談をし、反対意見を押し切って、昭和四十五年に伊吹工場を開設したのである。

いま振り返って、もしこれがなかったらトラクタは、またヤンマーはどうなっていたかと背筋が凍る思いがするし、ほんとうによかったと、この点も自負せざるをえない。このような経緯を経て、神崎工機はヤンマーブランドで市場に供給するすべての農業機械のトランスミッションを製造するところとなり、さらに今日ではトランスミッションにとどまらず、小形トラクク、田植機の完成品まで製造するにいたったのである。

(つづく)