わが青春の譜(7)(1/5)

山岡浩二郎

ヤンマーのブラジル進出

ブラジルヤンマーの正式名は「ヤンマーディーゼル・ドーブラジル・リミターダ」。昭和十二年(一九五七年)二月、ヤンマーが海外直系の現地法人としてはじめて設立した会社で、本社工場はブラジル国サンパウロ市の西北約百キロメートルの地、インダイアツーバ市にある。

ヤンマーではすでに戦前からディーゼルエンジンを海外に輸出していたが、そのマーケットは東南アジア地域が中心であった。戦後になって、生産が順調に回復しはじめるとともに、中南米諸国に潜在需要の大きいことに着目、昭和二十五年(一九五〇年)、南米ブラジルヘの輸出を開始、二十七年(一九五二年)にはリオデジャネイロで開かれた第一回ブラジル日本商品見本市に出展、二十八年にはブエノスアイレスのアルゼンチン日本商品見本市に出展、二十九年にはサンパウロ市四百年祭国際見本市に出展するなど、積極的政策をかかげてきた。そして昭和三十年代に入ると、いよいよ、この地域に生産・販売の前進拠点を設けることを決定した。と書くと、のんびりしているように思われる人がいるかもしれないが、実際今日では企業の海外進出は日常茶飯事のことであるが、四十年前、しかも日本からすれば地球の裏側にあたる南アメリカの地に企業進出するということは、まだまだ一大決断を要した時代であった。

その頃、私は先に述べたようにヤンマーの取締役(昭和三十三年からは常務取締役)として、製造全般の統括と海外事業を担当していたが、この拠点設置の事前調査のために、数度にわたってブラジルを訪れ現地調査を行なった。その結果、拠点はそのままブラジルにおくことに決定をみたのであるが、その主な理由は次の三つだった。

第一に、ブラジル政府が国の開発のために、外資系メーカーを積極的に導入しようという政策をとっており、ドイツからもベンツおよび一流の部品メIカーが進出しつつあったこと。

第二に、ブラジル国内だけでも、その広大な国土の六〇%が農耕可能面積で、市場性に富んでいたこと。

そして第三に、人種もラテン系の人々で穏健であり、人種差別もなく、また邦人移住者も多く、安定した生活基盤を築いていたことであった。

拠点進出の計画段階では、適当な工場を買収し、当初から小形ディーゼルエンジンを小規模でも生産しながらスタートしようという案もあったが、当時のブラジルの状況をさらに継続してくわしく調査する必要もあったので、まず販路を開拓し、マーケットを拡大することに主眼をおいて、日本からディーゼルエンジンを輸入し、販売するという、つまり商業活動から開始することにした。

その頃、ブラジルでは首都をブラジリアに移すという、一大プロジェクトが計画されており、一九六〇年代に入る頃からは、首都建設工事も着々と進行するようになっていた。おかけで、工事現場の飯場、仮設のガソリンスタンド、簡易レストランなどでは、ヤンマーの小形ディーゼル自家用発電装置が大量に使用されることになり、商用電気の供給設備のない各所で、大いに役立つことになったのである。

また、アマゾン河流域では、ヤンマーのディーゼルエンジンが、それこそ漁業、交通、運搬など、あらゆる分野の船舶用エンジンとして使用されるようになり、これは今日でも、四馬力から一千馬力のエンジン一万二千台以上の活躍する姿となって継続されている。もっとも、資金力の乏しい現地では、古いエンジンが今なお使われているという状況があって、ヤンマーではこれらユーザーに応えるためのパーツの供給、修理など、アフターサービスのための徹底した体制をいち早く敷いた。

こうした商業活動を行なう一方で、工場の土地条件、資材調達関係などを綿密に調査、生産活動の周到な計画と準備の上、ブラジル工場場開所式を行なったのは、昭和三十六年(一九六一年)十二月のことであった。翌年二月からは横形水冷ディーゼルエンジンの生産を開始した。