わが青春の譜(7)(4/5)

山岡浩二郎

忘れ難いこと

ブラジルヤンマー創設期のなかで、今でも忘れ難いいくつかのことがらがある。そのひとつは、ブラジル東洋紡の大谷コー氏のことである。

ブラジル東洋紡が設立されたのは昭和三十年(一九五五年)のことで、第二次世界大戦後、日本から海外へ進出した最初の企業がこのブラジル東洋紡であり、大谷氏はのちに東洋紡本社の社長・会長を歴任されたが、この頃はこの会社の初代社長をしておられた。この大谷氏から私たちは、ブラジルにおける工場用地の問題、人の問題、水の問題などあらゆる諸知識を教えてもらったのである。

たとえば、水があっても飲料に適さない地域ではたいへんであること。自動車、ベアリングなど大企業のあるリオ、サントス街道では、小工場があたかも人の養成工場のようになっていて不適当であること、その一方で、ボッシュなどドイツ系の人々の多いところが好ましいことなど、工場建設にあたって留意すべき点を逐一教えていただいた。

この大谷氏とは、その後月日が流れて昭和五十七年(一九八二年)十一月、(財)関西生産性本部主催の中南米経済視察団で、ブラジルヘもともにご一緒することとなり、現地法人設立以来二十五年から二十七年を経過したそれぞれの工場を視察して、創業時の苦労話など語らいながら、両社の繁栄をともに喜び合ったものであった。

次の忘れ難いことがらに、すでにブラジルヘ進出しつつあった欧米の企業を見学していて、ペンツの自動卓工場を訪れたときのことがある。

それは機械設備を設置中のエンジンボディの機械加工ラインでラジアルルボール盤に多軸ヘッドを取り付け、汎用機を専用機化するという、当時私たちが想像もしなかった創意工夫が、採り入れられているのを見たときであった。

これはブラジルヤンマーのみならず、のちにはヤンマーの長浜工場でも、専用機化した工作機械を駆使して、高能率の機械加エラインを構築するうえで大いに役立つこととなった。

このベンツの社長(この方はアルゼンチンに巨大な自動車工場をつくったが、のちこの国に起きた政変によって追放されることになってしまった)は、昭和三十二年(一九五七)二月、孫吉社長がドイツのアウグスブルグ市に寄贈した「ディーゼル石庭苑」のことを知っていて、「ヤンマーディーゼルならよく知っている。敷石の白いあの日本式庭園を贈ってくれた会社じゃないか。ブラジルに工場をつくるなら大いに協力しよう」と、みずから言って、外注の鋳物工場ソフンジ社や、ピストン、メタルなど、ドイツその他の国からも進出しつつあった優秀なメーカーを紹介、併せて、種々の問題点についても親しくサポートしてくれたものだった。

この「ディーゼル石庭苑」とは、ディーゼルエンジンの発明者であるルドルフ・ディーゼル博士の偉業に、終生感謝の念を抱きつづけた孫吉社長が、昭和二十八年(一九五三)ドイツを訪問した際、ディーゼル博士の墓参をしようと思ったが、肝心のお墓がなかったことから思い立たれたものであった。

ディーゼル記念石庭園

博士は、第一次世界大戦勃発直前の一九二一年、アントワープからドーバー海峡を渡って英国に向かう途中、船中で自殺、他殺いずれともわからないまま、突然姿を消され、遺体が見つからなかったため、宗教上の理由でお墓が建立されないまま今日にいたっていたのである。

これを悲しんだ孫吉社長は、博士の偉業を顕彰するため、博士の故郷であるドイツ、アウグスブルブ市のウィッテルバッハ公園内に、日本式の石庭を造営、「ディーゼル記念石庭苑」と名付けて寄贈した。庭苑中央の巨石にはディーゼル博士のレリーフを彫刻し、その下には「ディーゼル博士、あなたは今もなお日本の隅々いたるところに生きておられます」 (UNSTERBLICHLEBTDEINGEISTWEITINDENLANDENJAPANS)と刻み、孫吉社長の深い感謝の気持ちを伝えている。

この志を、ペンツの社長は、わがことのように喜んでくれたのである。もともと何かを期待して寄贈した庭園ではなかっただけに、それを知って協力を申し出られたときには、たまたま外注工場を求めて苦労していたときだっただけに本当に嬉しかった。

世の中というものは、何ごとであれ、心底から誠意を尽くしてやることだな、と、あらためて孫吉社長の偉大さを痛感したものであった。