わが青春の譜(7)(3/5)

山岡浩二郎

万全を期した機械設備

この工場建設の計画と準備のなかで、私かもっとも重視したのは機械設備のことであった。経営に、人、物、金の三要素が必須の条件であることは、いつの世でも変わりはない。ましてや工場をつくるうえで、機械設備が重要であることは言うまでもないことである。それをあえて重視したというのは、当時のブラジル国の実情は、なるほど人手はあったが、教育や技術の水準ということになると日本とは格段の差かおり、これをいかに克服するかが成功の鍵になると考えたことから、機械設備にはとくに万全を期したということである。

そのためヤンマーの生産技術陣に対しては、現地の技能レベルに即した、取り扱いの容易な機械設備を慎重に選択すること、同時に、細部にわたる治具・工具などの付属品、予備品、および各種の計測機械を整備調達して、ブラジルに送りこむことを命じた。

また、初代の工場長には、当時、ヤンマーの布施工場長をしていた窪田真吉君を任命した。窪田君は、ヤンマーディーゼルが山岡発動機工作所といっていた頃からの大阪製作所で、戦前から戦後を通じ、一貫して現場で鍛えあげた筋金入りの職長で、「大阪製作所の大政」といわれたほどの逸材であり、多くの困難がともなう初期生産立ち上がりの時期にはうってつけの人物であるとして、自羽の矢を立てたのである。

同君と私の関係は不思議なもので、初めて出会ったのは呉の海軍工廠時代で、私が造機部にいたときだった。たまたま海軍に徴兵され、輸送船の機関長をしていた窪田兵曹長が、自分の船の機関修理が艦艇のあと回しにされたのに困りはて、「山岡中尉に頼みこめば何とかしてくれる」と聞いて、訪ねてきたときであった。そのときは初対面であり、おたがいヤンマーに関わっていることなど知る由もなかったが、そのとき私が突貫で修理をするよう手配してやったことから、後日、この奇遇を知って、互いにびっくりし、かつ当時を懐かしく思い出したものであった。

ブラジルヤンマー工場開所式にご臨席の来賓と記念撮影
(ブラジルヤンマー初代社長鈴木仁氏(中央)、右から2人目〔山岡浩二郎〕)

私は品質管理の徹底を期するために、ヤンマーの工場から優秀なQCスタッフを選抜してブラジルに派遣するとともに、現地雇用者の早期育成という緊急の課題を解決するために、TWI(企業内監督者訓練)のトレーナー教育で再度特訓した社員を、現場の第一線監督者として派遣した。窪田工場長はこれらのスタッフを率いて苦労の末、みごとにこの大役を果たし、ブラジル工場の操業立ち上がりを成功に導いてくれた。

ブラジルヤンマー初代工場長窪田真吉氏(中央)

工場開設時の状況であるが、地元採用者十名、サンパウロ市内から通訳を兼ねて採用した日系ブラジル人十名、それに日本から生産指導で派遣した十名の総勢三十名が全勢力となり、翌年一九六一年の二月には、ブラジル産初のエンジンとして、横型水冷ディーゼルエンジンを完成させた。このエンジンはブラジルの頭文字Bをつけて、NT85B型と命名され、第一号機は記念として工場に陳列、第二号機はサンパウロ州カルバーリョーピント知事に贈呈された。

一年たった一九六二年には従業員も七十五名に増え、エンジンの機種も「NT70B型」「NT95B型」の二機種が加わり、生産も順調に軌道に乗ってきた。

鋳物専門会社フンジツーバ社の開業

最初に予測したとおり、この問、ブラジルの国内情勢は揺れに揺れた。一九六〇年にはクビチェック氏に代わってクワドロス氏が、ついでジャニオ氏が大統領に就任したが、わずか八ヵ月でグラール政権に交代、さらに一九六四年三月には軍部によるクーデターが勃発、いわゆるブラジル政治史上「三月革命」と呼ばれる政変によって、絶対的権限をもつ軍人大統領カステロ・ブランコ政権が誕生するといったように、めまぐるしいまでの政権交代が行なわれ、極度の政情不安のなかで、八○パーセントを超えるインフレが猛威をふるうという環境になった。

この政治情勢と経済不安のなか、それでもブラジルヤンフーは、毎年わずかながらも生産を仲長させてきたが、ただ困ったことに、現地外注工場の品質不良と納期遅延加後を絶たず、生産が計画どおりに行なえない状態が続いた。とくに鋳物部品に対する影響ははなはだしく、そこで鋳物部品の確保と安定供給をはかるため、急遽、内製化を計画せざるをえなくなった。そこでヤンマー本社の協力工場である大阪高級鋳造鉄工の駒村忠一社長に、みずからブラジルヘ飛んでもらうとともに、同社長の指揮下で、技術指導の行なえる鋳造技術者数名を日本から派遣、鋳造工場の建設を進めることにした。

駒村忠一氏(右)と

一九六四年四月、クーデター直後の不気味な政情下で、インダイアツーバに千六百平方メートルの工場建設を完了。高周波焼入装置など機械設備、新倉庫などを整えて、九月二十三日開所式、操業を開始した。これがのちの鋳物専門子会社フンジツーバ社である。

フンジツーバ社

一九六五年に入ると、政府はインフレ抑圧のための厳しいデフレ政策をとったため、インフレ率は一挙に三四・五八Iセントにまで下降したものの、今度は不況がドン底に陥り、企業の倒産破産などが相次いだ。

下期になって、ようやく景気は回復に向かったが、政府はこのインフレの原因を、クビチェック氏以来の急速な工業化にあったと分析、一転して、農業振興にも力を入れ、農畜産業者に対する生産機械購入の融資等の援助策なども積極的に取りはじめた。

このような優遇措置の恩恵等もあり、ブラジルヤンマーの生産、販売状況は、ますます順調に推移するようになり、現地生産を開始して五年目の一九六五年、ついに小形ディーゼルエンジンの生産台数一万台を突破、生産活動をいよいよ本格的なものにする礎を築き上げたのである。