凸版印刷45年を振り返って(8/8)PDF

河野通

4 本社役員として

4-1 研究所のリストラ

藤田社長から言われたことは二つ、「研究所について生産技術に対する寄与の仕方が見えない。技術行政がないに等しい。一元的に水平展開できる仕組みを構築して欲しい」であった。

一方、ずっとラインにいた立場から研究所を見ると、1何をしているのか見えない、2トンチンカンなことをしている、3テーマは良くても取り組むのも結果を出すのも遅い、4やっていることのレベルが二流である、といったことを感じていた。

そこで実際に研究所のテーマヒヤリングをしたところ、問題が浮かんできた。まずテーマの選択が研究員まかせで、研究所はやりたいことをやるのだという意識でいることが判った。企業の研究所は企業活動に貢献する技術と、そのための基礎研究をするところで、個人の趣味の研究が許されるところではないと言うのが私の信念である。すぐ凸版の現在、未来にわたり関連がありそうもないテーマの研究は止めさせた。

たとえば、おもちやの飛行船の研究をしていた人がいて、そんな研究は止めろと言ってもしがみついて止めようとしない。そんな類の話がいろいろ出てきて、極端な場合には、それなら会社を辞めろとまで言ったこともあった。

優秀な人間は、企業の研究所という枠の中で、自分の専門を生かしながら、きちんとした目標を見つけ、立派な成果を上げてくれている。たとえば、今、凸版の大きな力になっているコンピューター・シュミレーションやウルトラクリンテクノロジーなどは、そうして育ってきたものである。

それと研究の目標は世界一、日本一あるいは世界初、日本初を目指すべきで、その際に、何が世界一、日本一あるいは世界初、日本初なのかをハッキリと他人にも判るようにしろとしつこくいった。そして、それが企業の研究所の目的に沿っており、きちんと筋が通っていれば、私は、研究を推進することに躊躇しなかった。

そんな研究の中には、今でも一般の人から見れば、なぜ企業の研究所なのに、研究を続けているのだろうかという疑問が出てきそうなテーマもある。たとえば三次元ホログラムに関する研究である。

しかし、私は、そもそも人間の視覚は三次元であり、今は二次元の平面でしか画像は表現できないが、人間にとって一番自然な画像表現は三次元であり、その画像処理の研究は凸版の基本領域であり、だから三次元ホログラムに関する研究は続けるべきだと判断した。

そしてMITのBenton博士との交流も援助し、推進させた。NHK技研との立体視の研究も推進させた。これはNIIKスタジオパークの立体映像として平成7年(1995年)のリニューアルのとき採用された。この技術は、今後は多分、現在のレンチキュラー・レンズ・シート(右目用と左目用の画像を交互に並べ、それぞれの目に別々の像が見えるようにして擬似的に三次元画像とするために画像表面に貼るかまぼこ型のレンズを敷き詰めたシート)を使う方式からCG(コンピュータ・グラフィックス)で立体画像を作る方向になり、21世紀には三次元映像が当たり前になると思う。その時、凸版が、それまでの研究の蓄積を基に、三次元映像ビジネスに貢献できるようになっていて欲しいと思っている。

一方、こうした基礎研究とは別に、凸版グループとして、現実の生産技術開発のあり方、それに対する研究所の取り組み方などにも問題があることも判った。

たとえば、昭和63年(1988年)、まさにバブル時代に立ち上がった川口工場では、中綴じ製本工程のうちの鞍かけの省力化は行なわず、そこはアルバイトに依存する形になっていた。そのため人手が足りなくなり、研究所の人間までもが応援に行く状況になり、これを契機に、研究所において、その工程の省力化のため自動紙供給装置開発プロジェクトが進められていた。

すでに関西支社関係では東京書籍印刷が間発した安価な紙供給装置を使って、大幅な省力化を図っていた。この事実は知られていたにもかかわらず、東京の板橋工場関係者は子会社の開発したものなどを使うのはプライドが許さない、その成果は認められないという姿勢で、それは朝霞工場関係者も同じという状況から、研究所において進められることになったプロジェクトであった。

大量の紙を、それも高速で取り扱ったことなどの経験のない、まったくの素人集団が、そもそも紙の取り扱いには相当の熟練と経験に裏打ちされたノウハウが必要とされるにもかかわらず、自動紙供給装置にチヤレンジしていた。しかし、上手くできるわけはない。開発を始めてから4年経っても、お化けのように大きくて、操作に何人もの人が張り付かなければならないし、それでも絶えず故障して動かなくなるというものしかできていなかった。このプロジェクトは、川口工場の理解も得られて、時間を区切り完成しなければ止めるということを明確にすることにして処理した。狙いを明確にしないまま情緒的に仕事を進め続けている悪い例の一つであった。

さらに世の中ではキャノンやエプソンなどのレーザープリンター、インクジェットプリンターなどが開花期を迎え、長らく研究開発をしてきたものの凸版は明らかに引き離され、すでにキャッチアップする見込みないにもかかわらず、研究所にはプリンターにしがみついて人たちがいた。そこで内容を小型プリンターに絞り、それを顔写真の色調の良さを売り物にすると同時に、コパルなど専業メーカーへのOEM生産により1ドル=80円でも耐えられるコスト競争力も付けつけながら、生き残りを図った。画像処理の技術と昇華転写リボン技術の組み合わせにより、顔写真入りカードとった領域では競争することができると判断したからである。

凸版の事業領域に沿っているものなのかどうか、基本技術がよく分かっている領域のものなのか、凸版の販売チヤンネルを生かせるものなのかどうか、何か他社と較べて優位性がある商品ができるのかどうか―――こんな基本的なことが検討されないままに凸版の研究所での研究開発は行われていた。

もう一つ気が付いた凸版の大きな弱みは化学合成技術の貧困ということであった。40年前に大学で化学を専攻した陳腐化した化学屋の私でさえも、何でと疑問に思われることがまかり通っていた。材料はすべて外部からの購入したものをそのまま使っているだけで、それだけではなかなか独自性のあるものを生みにくい状況にあった。

その中で、只一人、化学合成に注目していた人がいた。沢田豊君である。彼の化学合成に関する能力は先天性のものであると直ちに感じた。そもそも化学合成は経験や知識も必要だが、天性のひらめきがないと飛び抜けたものを作ることができないというものだが、彼にはその天性のひらめきがあった。

丁度、滋賀工場でCF(カラーフィルター)事業が時期であった。レジストの改良、新規開発が急務で東洋インキにだけ頼っていては間に合わず、彼が中心になってレジストの開発を推進し、成果が上がってきていた。彼は大変責任感の強い男で、病を押し無理に無理を重ねてやっていた。そして、とうとう志し半ばで亡くなってしまった。大変残念だった。ところが彼の能力を高く評価する人が社内には少ない。私には理由が分からない、まさか途中入社であるといったことではないことを信じたい。

もっとも悪いことばかりではない。凸版の強みをさらに強化して成功した例もある。まず文字、画像処理の自動化、品質向上、得意先とのリンク化技術などである。たとえば、九州のFコープ向けに開発して成功したデザインシステムは、その後、DIMPS、PEACEとバージョンアップされ、岡山生協など生協系のチラシ関連のビジネスの囲い込みにつながった。我が社の強みを生かし、次々に新しい技術を取り入れてバアージョンアップを行うことによって得意先の信頼の輪が広まることになった。MACによるDTP(Desk Top Publishing:パソコンを用いて、原稿の作成、レイアウト、版下作成などの一連の作業を行うこと)の自動処理ソフトのFLINTも、初期のDTPの推進では、ライバルに先行し、大きな貢献を果たした。特に商印の大野本部長の援助もあり、北海道をはじめ地方事業部のプリプレスのデジタル化と拡販に貢献した。

こうしたソフトだけではない。蒸着などの表面改質技術も健闘している。CF事業を手掛けることが一つの契機になって力が入れられるようになった研究開発分野で、CF用フィルムから始まって、酸化マグネシウム(Mg O)など無機材料を蒸着することによって新機能性フィルムが開発され、それらがすでにエレクトロニクス関連の新製品の開発に貢献するようになっており、今後が楽しみである。

さらに沢田豊君が切り開いたCF用レジストなどの化学合成による材料開発でも、他社にない特に色再現性に優れた物が開発され、事業に大きく貢献するようになっている。文字と色は我が社の基礎である。決してここから離れてはいけない。ここにこだわって、きっちりと研究開発を続ければ、その努力は必ず報われると私は確信している。

その他、筑波研のやっている大型の反射型スクリーンも連続生産方法の開発に成功すれば面白いと思う。価格競争力とレンズ設計技術の複合で、競争力のある商品が作れると思う。

ともかく一番問題だったのは事業部のニーズと研究所の研究テーマとの摺り合わせが、それまでは担当レベルのヒヤリングでお茶を濁されていたことで、私は、そこにメスを入れ、研究テーマの選定と研究開発の進め方などについて、事業部長など経営幹部が関与し、それらの意見を採り入れる仕組みを作ることに腐心した。さらに社長を含めた検討会などの仕組みも作った。しかし、残念ながらなかなか事業部長クラスの理解は得られにくかった。やり方を変えて何度も、そうした場を設けたが、私の非力なこともあって、技術のことは判らないから任すと言った雰囲気を払拭するができなかった。こうした風潮が今でも強いように思う。それだけに私としては、研究開発に携わる人たちにはプレゼンテーションを工夫すると同時に、事業につながる成果を上げるように頑張って欲しいし、一方、経営幹部の方々には、もっともっと研究開発や技術に対する関心を深めて欲しいと思う。

なお、私は退任に際して、これから凸版の研究所としては、計測と分析、それとCAE(Computer Aided Engineering)を含めコンピューターによるシミュレーション技術が一つの鍵となるので、それらに関わる研究開発を計測し、それらを蓄積してヴァーチャルラボラトリーを構築することを目指して欲しいと挨拶し、頼んだ。

4-2 本社技術開発本部のリストラ

平成4年(1992年)3月期の売上高8953億円、利益646億円をピークに、バブル崩壊とともに、いずれもが落ち込むことになった。売上増以上に償却費や人件費の負担が増加し、売上高原価率はライバル企業より2ポイントぐらい引き離された。そして同年5月には、経費の前年並み抑制、設備投資の原則1年間の凍結、採用人員の半減などの緊縮策が打ち出されることになった。

それまでフリーパスであった各事業部からの設備投資の稟議についても、技術、購買、経営企画の各部門で構成される設備検討会議の場で検討されることになった。ところが驚いたことに、本社には各事業部から上がってくる専門性の高い稟議の是非を判断し、それに意見をするなりアドバイスをしたりすることができる人がほとんどいなかった。そんな状況の中で、私は、稟議にかかった設備投資の狙い、それによってどれだけ生産性が向上するのか、どれだけ省力化できるのか、どれだけ品質が向上し競争力が高まるのかなど設備投資のコストパフォーマンスに重点を置いて検討し、それに対する明快な説明をするように何度も稟議を差し戻すという役割を負うことになった。さらに経営方針としての検討を要する重要な案件については、改めて経営会議などの場で説明し、その上で決済を受けるようにした。

こうしたやり方は本社のスタフの教育にもなったと思う。それと同時に各事業部から上がってくる稟議に、計画性がなく、思い付きのようなものが多いことにも驚かされた。私自身は、それまで、これと思った設備投資については情熱を傾け、何年も前から調査・検討し、その上で確信を持って本社に稟議を出すということをやり続けていたのだが、全社的な視点から見たら、ほとんどのことがただ事務的に消化されているような雰囲気を肌で感じた。

それで「三現主義」を掲げ、各事業部の方針、活動の進捗状況を把握するため、あらかじめ登録されたテーマについて現地ヒヤリングを行うことにした。毎週どこかに出かけないと間に合わないので私にとても大変だったが、意志の疎通と各事業部の実状の把握には大変に役立ったと思う。また、それまで各工場長が本社に集まる機会としては、年2回の技術部会しかなかった。それが各工場長などへの方針の徹底が徹底しない要因の一つであり、ともかくラインの長に直接呼びかけないと業務は進まないと考えて、かつてあった工場長会議も復活させた。

こうした一連の場には外部から講師も頼んで話もしていただいた。キヤノンの山路会長のコンセプト・エンジニアリング、花王の平坂重役の情報システム改革によるヴァーチヤルファクトリー、松下電工の酒巻さんのカタログのデジタル化による海外展開の話などを、丁度、1ドル=80円になり印刷物までも海外展開の中で国際競争力が問われるようになった時代でもあり、少し刺激的な内容でお話しいただいた。

しかし、今振り返ると、その程度の先鋭的な話でも凸版の技術部長や経営幹部なら判るだろうと思っていたが、必ずしも理解されなかったように思う。もっともっとかみ砕いて話してもらわなければならないのか。見識、知識、勉強不足なのかどうか、それはともかく、改めて世の中の動きに疎い人がいかに多いかというということを私は感じることになったという想いが残っている。

平成5年(1993年)には「人は8時間、機械は24時間」をキヤッチフレーズに、設備稼働効率の一層の向上を狙った。これは時短により労働生産性が2%も落ちていたので、それを無人運転や省力化で回復するためのものだった。それに沿って研究開発のテーマの絞り込みとスピードアップを掲げ、研究所のリストラをさらに進めた。

平成6年(1994年)には、さらにブロジェクトの整理と絞り込み、デジタル化と検査機、色管理、高精細印刷など品質のレベルアップに重点を置いた。IS09000シリーズの認定収得も加海市信君に当たらせた。エレの各工場を初め、金融証券のカード部門、建材、CDプレス、松阪、福崎、滝野の液体工場と逐次広がりを見せた。

クレームを減少させることにより営業からも、その意義について理解してもらえるようにしたい。さらに「しばらくすると、決めたことが放置されてしまい、決められたことが守られない」という我が社の弱点が是正し、体質改善を図りたいというのが狙いにあったが、TQCの前例もあるので、より慎重に進めた。

一方、本社技術本部の人員を30%減らし経費も大幅にカットした。さらにしがらみをバッサリ回り捨てたので先輩方にもいろいろご迷惑をかけしたこともあった。改めてお詫び申し上げる次第である。

そして平成7年(1995年)は、このした準備を踏んだ上で、以下の4つのスローガンを掲げた。

  1. 原価率の2%削減 6%の労働生産性ギャップの解消
  2. デジタル化によるコストダウン(ライトテーブルレス、フィルムレス、プレートレス)
    レスがキーワード Abitweightlessthanasheetofpaper.
  3. R&Dの効率化 4倍速
    2倍は寝食を忘れてやれば出来る。4倍にしようとすれば頭も使えの意味
  4. Wカラーの生産性の向上業務改革補助管理部門費の削減
    バーチヤルカンパニーの実現を目指して
    Thechangefromatomstobitsisirrevocableandunstoppable.(ネグロポンテ)

4-3 工場用地の件

また我が社には、ライバルと比べて首都圏での工場用地の拡大が遅れているという問題があると思った。板橋、朝霞、相模原、群馬あたりまでは我が社が先んじていた。しかし、その後、中心は地方に移り、北から南までたくさんの用地を購入したものの、一番需要の多い首都圏ではライバルに遅れをとることになった。ライバルが上福岡、鶴瀬、久喜、狭山、白岡など50km圏から始まり、続いて大利根、宇都宮、泉崎、牛久といった100km圏へと広げているのとは対照的であった。

どうしてそうなったかは定かではない。首都圏には川口工場を新設したところで、後はそれで十分に対応できると考えていたのだろうか。しかし、いずれにしても我が社の主力工場の板橋、朝霞の両工場とも狭くなって困っているというのが実態だった。

工場幹部や本社の関連の人たちを懸命に説得し、ようやく首都圏で上地を探そうとなった。私は経験上、工場や研究所は、車社会での物流を考えると、高速道路のICから5km以内に立地すべきで、土地の広さとしては最低2万坪必要だと思っている。この経験に従って、土地探しが行われた。たとえば、杉戸、幸手や筑波のように高速道路のICから時には30分もかかるような所よりは、それより10kmや20km遠くても高速道路のICに近い場所の方が時間距離でははるかに近い。こうして嵐山、坂戸、川本の土地を購入することになった。用地の手当は10年先を見て行う必要があり、それは本社がやっておかなければならない大切な仕事の一つだと私は確信している。

4-4 MITメディアラボTVOTプロジェクトそしてマルチメディアヘ

私が本社に来たのは平成4年(1992年)4月のことだが、その前年の平成3年(1991年)にMITメディアラボのTVOTという研究プロジェエクトに協賛し、毎年30万ドルを支援する契約が締結されていた。しかも、その契約によれば、TVOTプロジェクトのスポンサーになると、それ以外のMITメディアラボのどんな研究に関する情報も自由に入手しるし、どんな研究にも自由に参加し、その成果を手にすることも可能ということだった。

しかし、現地駐在員以外に誰も訪問しておらず、ましてMITメディアラボで行われている研究の中に我が社で使えるものないかどうかなどの調査もされていなかったことが判明した。そこで壇上君に我が社の参加しているTVOTプロジェクトを含め、MITメディアラボで行われている全部の研究テーマを調べさせた。平成5年(1993年)のことである。

ネグロポンテ教授は、コンピューターは人のために便利さ、快適さ、楽しさなどを与えてくれる道具であり、どう使えるかを研究するのが任務だという考えであった。

  • 未来のテレビとして、人はどんなことを望むのだろうか、そして、それはどうやったら実現できるだろうか。
  • どうやって物体の表面の模様や質感を表現すテクスチャー画像を判断し、それによって画像を検索することができるだろうか。
  • 新聞のような文字情報を画面で見る場合には、どのように編集すると、見やすく読みやすくなるのだろうか。
  • 人の目は立体的に物を見ているが、それと同じような感覚が平面のディスプレイから得られるようにするためには、どう表現すれば良いのだろうか。
  • 紙のように薄くて持ち運べる電子ペーパーは、どうやったら実現できるだろうか。

調べてみると面白いテーマがたくさんあった。それ以外にも動画像から高解像度の静止画像を抽出する「Salient Stills」とか無数の小さな画像を並べて一つの大きな画像を表現する「フオトモザイック」など実用に近い技術もあった。

しかし、我が社には、すぐそのまま使えないと駄目だと判断し、その将来性や可能性を評価しない傾向がはびこっている。そのためなかなか独自性のあるものを生み出すことができず、言われたことしかしないという受注産業の悪い体質がある。

そのため経費削減のやり玉としてTVOTブロジェクトの打ち切りが上がった。しかし、私はMITメディアラボで研究されていることを調査させて、我が社の将来に役立つものが少なくないと判った直後だったこともあり、直ちに藤田社長に話して継続することを決めてもらった。しかし、費用は下げるように交渉させた。MITメディアラボの方も、お金を出しながらも凸版の人間が見にこないため不思議がっていたところであり、1年更新の契約で、金額を1/3にすることを了解してくれた。

平成6年(1994年)5月、ネグロポンテ教授が来日し、そこで藤田社長との間で、MITメディアラボと凸版との新しい契約が調印された。これを契機に私は社内で積極的にMITメディアラボの宣伝に努めた。これ以降、多くの役員や関係者がMITメディアラボを訪問するようになり、平成8年(1996年)にはグループ総研のフオーラムでネグロポンテ教授に「デジタルが社会を変える」との演題で講演をしてもらうくらい関係が深まるようになった。

その年、PAPRO94を見に出かけたついでに、私はボストンのMITメディアラボを視察に行った。そして画像認識技術やビデオ編集技術をはじめソフト技術の格差に驚かされた。

MITメディアラボでは毎年スポンサーの持ち回りでアニュアルミーチィングを開催していたが、平成7年(1995年)は凸版で開きたいという申し入れがあった。小石川ビルにオープンしたばかりの施設とインターネット回線を利用し、平成7年(1995年)3月15日と16日の2日間開催した。ネグロポンテ教授以下MITメディアラボのメンバーとBertelsmann、Deutche Telekom、Kodak、Philips、ソニー、シャープなど多くのスポンサーが世界中から集まった。

会議は成功で凸版のPRの良い機会になった。凸版からは、立ち上がる前のCPJ(Cyber Publishing Japan)など世界の先端を行くプレゼンテーションを行った。

終了後、椿山荘でレセプションを行った。新潟から取り寄せた吟醸酒が人気ですぐ売り切れた。なお、TVOTは役割が終わり、平成8年(1996年)には、「Digital Life」に改変された。TVOTが情報処理系の未来に関する研究だとすると、これは生活系の未来に関する研究である。衣食住にどのようにパソコンなどが関わってくるのか、あるいは関わらせるのかなどの研究が進められている。生活系事業部の幹部の関心を促したい。マルチメディア

平成3年(1991年)頃から印刷産業は21世紀にはどのようになるのかという議論が米国を中心に盛んになってきた。電子メディアの発達によって、印刷産業の領域が浸食され、紙媒体は消滅するのではないかという危惧が叫ばれたからである。

PIA著の「Printing2000」もその一つで、当時の鈴木社長は大きな危機感を持っておられたので、これを翻訳させグループの幹部を集めたパネルディスカッションで披露された。そこでは、ペーパーレス社会が出現することはないが、多種類の電子メディアが印刷物に取って代わると予測されていた。そして、こうした変化は印刷業者に危機と同時に新しい機会をも与えるものだとされていた。

しかし、多くの識者は紙の印刷物がなくなるという強迫観念にとりつかれていた。こんな中で、インターネットのプラウサーのモザイックが発表された。壇上君がこれはすごく世の中を変えると言ってきた。画像研の西岡君もこれを使ってビジネスができるから、それを自分がやってみたいと言ってきた。平成6年(1994年)のことである。

彼はインターネットとフォトCDのコストに注目し、W杯サッカーの映像をインターネット経由での伝送を初めて成功(文春のNumber誌)させたりした。そして電子メディアはCD-ROMなどのパッケージ系技術とインターネットなどの通信系技術とが融合するようになる世界の中で、凸版としては、中身の表現方法、色や調子の見栄え、読みやすさなど印刷が500年にわたり培った技術を生かすことができるし、文字や画像のデーターベースも我々の領域であり、それについては豊富な経験と技術があり、しっかり先行できると言ってCPJを立ち上げた。

そして藤田社長の判断で将来の柱として位置付けられてマルチメディア事業部が発足した。世界的に見ても凸版は、この分野で先端を走っている。このリードをいつまでも維持して欲しい。

4-5 DRUPPAについて

DRUPPAが「国際印刷機材展」と呼ばれる印刷に関する世界最大の展示会であることは前から知っていたが、パッケージに長らく携わっていたので、見る機会はなかった。昭和59年(1984年)に関西支社次長になり商印も受け持つようになって以来、一度は自分の目で見て世界の潮流を勉強したいと念願していた。

そこで昭和61年(1986年)5月2目からドイツDusseldorfで開催されるDRUPPAに合わせて欧州出張を計画した。このDRUPPAには、我が社の開発営業部隊が初めてヨーロッパの販売代理店chromos社のブースの一部を間借りし、イメージコンダクターとかアートコンなど当社の開発機器を出展することになったこともあった。

ところが4月26日、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故が起こって、放射能汚染で欧州中が大騒ぎになった。責任者がみんな怖がって出かけなくなってしまった。その中にあって私が出張を取り止めずに行くことを畠山部長が聞きつけて、是非とも関係者にお礼の挨拶だけでいいから言って欲しいと頼んできた。そして、これが私とDRUPPAとの関わりの始まりとなった。

DRUPPAに出展するということは世界に向かって提示し、そこでの評価を仰ぐということであり、そこで一定の評価を受けるためには大変な努力が求められるが、その効果も継続して出展しないことは半減し、継続して出展するためには、もっと大変な努力が求められるということを実感した。さらにもう一つ出展することには、ただ訪問者として見学していたのでは判らない仲間内の最新情報を交換する機会に恵まれるという目に見えないメリットがあることも実感した。

そして帰国してから、畠山君には、次のDRUPPAにも出展するつもりなのならば、4年先は技術がどうなっているか見極め、これを出すと決めて、開発に当たらないと評価される物は間に合わないから、注意しなさいと言っておいた。

事実、昭和61年(1986年)のDRUPPAでは、まだカラースキャナーが全盛であり、サイテックス社がレイアウトスキャナーを発表していたが、それほど大きな注目は浴びていなかった。しかし、それから4年後の平成2年(1990年)に開催された次のDRUPPAでは、DTPの世界になりハードは姿を消しつつあった。サイテックス社が最大の関心を集めており、アラブ過激派のテロ予防対策のため、別に設けられた臨時ホールで展示を行っていたのが印象に残っている。そして平成7年(1995年)のDRUPPAには、オンデマンド印刷、CTPの一色になった。凸版もパーソナル・カタログ・システムやカードプリンターなどソフト色の強いものを中心に展示した。印刷機もギャップレスオフ輪やA6借判のゲラ輪。フィルムレスの時代になった。振り返ると、DRUPPAはまさにデジタル化へまっしぐらの10年であった。

しかし、DRUPPAには我が社からもたくさんの技術者が見学に行っているのだが、その中からDRUPPAに現れてくる、象徴的なこうした技術の流れを先取し、それによってライバルを凌駕しようとするような動きが鈍かったのが残念である。それは設備の更新や増設の姿勢にあっては後から追従しようという二番手意識が強いという形で現れおり、関西では情報出版や商印などで佐川印刷に先鞭をつけられてしまった。

なお、DRUPPAについては、平成7年(1995年)の開会式に招待され、畠山君と出席したことが想い出に残っている。5月5日11時からベートーベンのフェデリオ序曲の演奏で始まり、市長や商工大匝など来賓の講演の後、ベートーベン交響曲第8番の演奏で締めくられた印象に残る式典であった。翌5月12日には、凸版印刷として初めて、藤田社長夫妻に出席していただいて、デュセルドルフのブライデンバッハホテルでレセプションを開催した。これまで凸版では、こうしたレセプションには主に現地の得意先を主に招待していたようだったが、私は、むしろ機械、材料メーカーなど取引先の幹部に絞るように招待者リストを変更させた。それによってレセプションは、ハイデルベルグ社のマウアー社長はじめヘル社、サイテックス社、アルバート社、コルブス社など製版、印刷、加工機の内外大手メーカーの幹部や業界の代表者に参加していただき、凸版印刷の存在感をアッピールする絶好の場になったと自負している。

こうした形でレセプションを開催するということは、実は海外メーカーとの取り引きの中で学んだことだった。以前、愛知専務とご一緒した時、RISSSEN社がライン川の船上で催したレセプションに招かれたことがあり、以来、凸版でも一度、世界の名士を集めたパーテーを開いてみたいと思い続けていた。その願いが、ようやくかなったという感慨が一塩であった。凸版としては、これからもっと世界に向かって地歩を固める機会を増やすことが必要であろう。

それともう一つDRUPPAでは、古いビアホールSCHUMACHが忘れられない。昭和61年(1986年)のDRUPPAに凸版が初めて出展した際に、それで大変に苦労した畠山君や吉野君など出展関係メンバーと一緒に、SCHUMACHでソーセージなどを肴に飲んだ黒ビールは最高だった。それ以来、行く度に通っている。

4-6 阪神大震災と危機管理(藤田社長の対応)

平成7年(1995年)1月17目未明に起こった阪神大震災でも貴重な経験をした。朝6時のラジオのニュースを聴いていたら、神戸で地震があり、震度6で、彦根でも6あった、さらにその後、神戸の街の方向から煙が5つ6つ上がっていると報じられた。これはただ事ではないと、すぐ起きて、まず伊丹工場に電話した。

詳細は判らないが、ともかく停電し、工場のダクトも落ちているというのが警備の話だった。これを聞いて、関西地区の各工場にはかなりの被害が出ているのではないかと予想され、なかでもカラーフィルター(CF)を生産している滋賀工場の状況が真っ先に心配になった。当時、カラーフィルターは滋賀工場でしか生産しておらず、この滋賀工場が止まれば世界中の液晶パネルの生産が止まってしまうと言っても過言ではない状況であった。すぐ滋賀工場に電話した。警備の話では、少しの間、停電したがすぐ復旧し、工場は平常通り稼働しているとのことであった。

これで少し気が楽になった。次に大阪工場に電話をかけたところ、なかなか繋がらずイライラさせられ、ようやく連絡のついた警備の話も、事務所のガラスがみんな割れた、それ以外のこと判らないというものだった。

そこまでの確認をとったところで、直ちに本社に駆けつけた。8時前だった。そして、すでに出社していた社員に指示し、手分けして、まだ連絡が取れなかった福崎工場、滝野工場やファミリー会社の安否などを含め、詳細な情報の入手を行わせた。さらにもっとも震源地に近く大きな被害が予想される伊丹工場には、相模原工場から被害調査と復旧対策のために応援要員を出すように要請した。これは仙台地震で得た教訓からである。

藤田社長には、ともかく滋賀工場のカラーフィルター生産には影響はないが、その他の工場については、状況が判明次第、必要に応じて他工場の応援によって得意先には迷惑掛けないようにしたいと報告した。

従業員や家族などにも多くの被害が出た。災害見舞金のほか家屋の復旧に特別貸付を行うようにと社長から指示が出た。初めの案は最高300万円だったと記憶している。社長から経営会議の席で、そんな金額では家は建たない、もっと増やせと指示され、2000万円を無利子無担保で貸し付けることが決まった。藤田社長は、常々、人間尊重、従業員が基本だと言われていたが、この時ほど、藤田社長の基本生成を実感し、感謝したことはなかった。そのお陰で、私も半壊した家をすぐ復旧する決心がついた。

4-7 振り返って

技術者を志しながら管理屋になってしまったが、退任してから1年半ほどの間、藤田社長に言われて、ようやく技術者としてエレクトロニクス事業の滋賀工場のカラーフィルター(CF)やシャドーマスク(SM)の新技術の立ち上げを手伝った。理屈と現実の間を行きつ戻りつ、真実を見つけ、一歩一歩問題を解決しながら前進する。遅いと叱られながらも確かな手応えを感じては、その成功の喜びをみんなで分かち合う。これは本当に楽しい時期だった。

少なくともカラーフィルター(CF)の顔料レジストの顔料解離の原因と対第は見出すことができた。またシャドーマスク(SM)でも慢性不良の原因の一つが水に原因するものであったことが判った。いずれも他に応用できる知見である。水と空気と静電気をキーワードにして、さらに研究が進める必要があろう。若い諸君の今後の一層の努力と成果を期待する次第である。

ここで自分の信条としてきたことを述べておきたい。

1.Hicksonの詩Alps登攀記(Scramblesamongest The Alps.E.Whymper)

2.水五訓

3.Feedforward

以上の3つである。

1.学生時代から山登りに興味を持っていた。好きだった本にスイスアルプスの難嶺として有名なマッターホルンの初登頂に成功したウインパーのアルプス登攀記がある。その中にこの詩がある。浦松佐美太郎の訳とともに書いておく。

Tisalessonyoushouldheed,繰り返し、繰り返し、繰り返し試みよ。

Try,try,tryagain,これこそは、汝の守るべき教訓なり。

lfatfirstyoudon'tsucceed,初めに成功することなくとも、

Try,try,tryagain.繰り返し、繰り返し、繰り返し試みよ。

Thenyourcourageshouldappear,されば、勇気も湧き起こるべし、

Forifyouwillconquer,neverfear.祷まず屈せず、止むことなくば、

Try,try,tryagain.遂に勝利をうべし。恐るるなかれ、

繰り返し、繰り返し、繰り返し試みよ。

2.「水五訓」は昭和30年(1955年)代の「小石川ニュース」の中で見つけたもので原典は知らない。ご存じの方があれば教えて欲しい。

自ら活動して他を動かしめるは水なり

常に己の進路を求めて止まらざるは水なり

障害に逢いて激しくその勢力を倍加するは水なり

自ら潔くして他の汚濁を洗い

清濁合わせ入る推量あるは水なり"

人に言われてではなく、自分が主体性を持って行動する。一番好きである。

3.Feedforwardは、Feedbackに対する言葉である。事が起こってから動くのでなく、起こることを予測し、先回りして事に備えるのがFeedforwardである。

最近は竹村健一氏がよく言っている。千里眼でもないのに、どうして先のことが判るのかと言われるだろうが、難しいことではない。危機管理にも通じるが、常に良い方と悪い方の二つのケースを想定し、それに対しての対策を考えておくことである。考えるのには時間はいらない。

得意先への提案でも言われたことだけでなく、もう一つ違う案を用意する。余計なことに思われるが、案外新鮮と受け取られて採用されたことが多い。また経営計画でも一つの目標で進んでも計画通り行くとは限らない。良い方に転べばよいが、逆になったときの対応を早くから考えておく。人より少しは早く行動に移れる。平家物語の義経の逆櫓の話を思い出す。これも新製品の開発の時大変時間を短縮するのに効果があった。他で2年かかったのを6ヶ月で完成させてこともあった。

それと捨て目、捨て耳を働かせろと昔、先輩からよく教えられた。新聞を読んでも、道を歩いていて物事を見ても普段と変わったこと、違うことに注意するように心懸けた。この訓練は有効である。すべてのことを覚えるのは天才でなければ出来ないが、差を見るだけなら凡人の私たちでも可能である。中学生のころプロ野球の選手の話から気がつき実行してきた。従って、新しい物好き、野次馬根性、好奇心が旺盛である。

とのかく全速力で走り抜けた45年であった。これからも新しい物事に興味を持って凸版の未来を見守りたい。最後に改めて諸先

輩、同僚、後輩の方々と家族に感謝したい。