凸版印刷45年を振り返って(5/8)PDF

河野通

2-7 一次容器への参入(EPパックの開発)と沢村社長の想いで

昭和52年(1977年)暮れ、組織改革が行われ、特印、伊丹、容器の3事業部が合併して関西包材事業部になった。目置さんが事業部長になり、私は福崎工場長のままで事業部次長を兼任することになり、大阪と福崎工場を往復する日々を過ごすことになった。

先に伊丹工場で紙製ミルク容器を生産し紙容器に参入したものの失敗して撤退したことを述べたが、その後も伊丹事業部の開発部では新製品の模索が続けられていた。そして、丁度、紙を打ち抜き、耐水性に問題のある紙の端面を折り曲げ、それで箱形にするという箱形形状の紙製液体容器、EPパックが開発され、採用され始めた時期だった。

EPパックは昭和51年(1976年)に開発されたもので、翌年には酒造メーカー数社で採用され、ようやくその生産を伊丹工場で開始したところだった。

当時、伊丹工場では、ボブストチャプレン機で生産していた主力商品の花王の洗剤カートンの生産が九州の門司工場に移管された上に、オイルショック以降、過剰包装の見直しで贈答箱の需要も減少していたため、新製品の開発と拡販は至上命令であった。担当は梅田開発部長であり、指揮は日置事業部長と伊藤役員(後に支社長)であった。

そして昭和54年(1979年)、ついに「白雪」で知られる灘伏見の大手酒造メーカー、小西酒造での採用が決まった。伊藤、日置、梅田、それと竹村営業課長ラインの輝かしい勝利であった。他の酒造メーカーと異なり、それまでまったく取引がなく難攻不落と言われていたのが小西酒造であった。関係者一同祝杯をあげたものである。

しかし、その当時は酒造メーカー間の微妙な関係を知らなかった。小西酒造から仕事を得た代償として、トップ酒造メーカー、月桂冠の仕事は大日本印刷に奪われてしまうことになった。これを回復するには、それから実に20年の歳月を要した。月桂冠の仕事を奪われたことを一つのバネとし、諦めずに月桂冠から受注を得るべく努力を継続して続け、それが最後には大日本印刷との激しい受注競争での勝利につながったと思う。

ところでEPパックの生産工程は、簡単に言うと、多層ラミネートの原紙に印刷し、それを型で打抜き、さらにその紙の端面を液体に直接触れないように折曲げ、それをガスの炎(フレーム)で加熱溶着してシールし、その折りたたまれた状況で納入先に納品し、それを現場で箱の形にして底をフレームで加熱溶着してシールし、それから液体を充填し、最後に上部を加熱溶着してシールして商品にするというものである。

ところが、これらは研究所で開発された技術であって、量産試作までは行われていなかった。先に述べたことだが、量産試作で確認されていない技術で実際に量産を行うと多くの問題に遭遇する。今回も量産を開始したら酒が漏れてクレームの山となった。伊丹工場では、毎日、小西酒造に人を派遣し、検査し、漏れたものは開梱してやり直すという作業を行った。唯一の救いは、酒は冷入といって詰め替えが可能だったことである。

技術そのものが量産試作を行って確認をしていなかったために遭遇した問題への対応と解決に現場が忙殺されている中で、凸版の社内組織上の問題も浮き彫りにされてきた。EPパックの生産の鍵を握る多層ラミネート紙を折り込み加熱溶着してシールするフレームシーラーは社内には相模原工場にしかなく、それに関連することは、すべて相模工場に頼んでやってもらうという形になっていたのである。

そんな体制ではお得意様にご迷惑をかけるだけで駄目だと沢村社長に叱られた。そして、急遽、関西に一貫生産体制を作れ、それは福崎工場でやれということになった。昭和54年(1979年)4月11日のことである。

福崎工場では、その前年の昭和53年(1978年)から特印工場の増築工事が進められており、丁度、それが完成した時期である。そこで、とりあえず完成したばかりの工場の一隅にフレームシーラーを設置し、そこで伊丹工場で生産されていたEPパックの納品前の最終加工を行うことにした。そして福崎工場から相模原工場に技術移転の実習のため人を派遣した。しかし、技術移転は容易ではなかった。沢村社長は2週間もあれば十分に技術移転ができると考えられていたようで、社内の1つの工場で確立された技術を同じ社内の別の工場に迅速に移管できないとは何事だと大変に叱責された。まさにその通りであるが、いまだに私には十分とは思えない。その意味では、叱られ通しである。

その後、私がISO9000の導入の旗振りになったのは、その時の教訓があったからである。ちなみに、私の日記を見たら、昭和53年(1978年)から昭和54年(1979年)の夏にかけて、沢村社長は福崎工場を4回も視察にこられていた。

故沢村嘉一 凸版印刷社長(1916〜1981)

こんな経緯を経て福崎工場に紙製液体容器の生産工場が作られ、以後、受注の拡大と共に設備も急速に増強されることになった。最後の増設は、現在の特印工場の一番南側の部分である。この増設の際には、一連の設備増強と同時に、原紙生産も内製化することに決め、厚紙用のタンデム型PEエクストルーダーを導入し、さらに凸版では初めて自動倉庫も設置することにした。当時としては最高レベルの自動化、省力化に挑戦した。同時に、それまで食堂に仮住まいしていた福崎工場の事務所の建物も作ることにした。

こうした計画が承認され、昭和55年(1980年)5月8日、沢村社長に出席していただき、起工式を行った。沢村社長は完成を楽しみにされていたが、完成直前の昭和56年(1981年)2月20日、突然に他界された。本当に残念でならなかった。

沢村社長は厳しい人だったが、本当に技術が好きで、時には自分でペンを取って図面を書き、こうした方が良いのではないかというくらい親身になって現場のことについても考えてくれた。しかし、少しでも変だと思われた時には、逆に私は徹底的に詰められ、諭された。たとえば、ある工場の増築の検討時のことである。

私は、少しでも設備投資額を減らそうと考えて、建物の大きさも、度入予定の機械の寸法に合わせた計画を提出したところ、ひどく叱られた。機械は10年、20年で更新されるが、建物は50年ぐらいは使える。だから、少なくとも、どのような技術進歩があっても、それに対応できるようにという考えに基づいて建物は作っておくべきだと諭された。

ところで本題に戻って、私が福崎工場長兼関西包材事業部次長として、工場拡張と新規設備導入を推進した当時の状況だが、ちなみに私の日記を見たら、苦しくて大変だということしか書かれていない。

EPパック関連の設備はどんどん増強したものの受注は思ったように伸びない。その設備の稼働率を上げなければ赤字が増える。そんな状況の中で、拡販をしなければ利益は確保できないけれど、拡販しようとすると新製品開発のコストもかかるといったジレンマが繰り返し言かれていた。伊藤取締役が関西副支社長として切り込み隊のリーダーとなり、日置関西包材事業部長、梅田開発部長、竹村営業課長が実働部隊となり、昭和55年(1980年)下期で230万パック/月の受注計画を組んでいたが、受注実績は11月の最盛月でも65万/月にとどまった。昭和56年(1981年)上期の予想数字も、社内の工場間受注を含めても150万パックにしか達していない。私は福崎工場長として、どうするのか―――工場の設備投資を延期しようか、投資額を減らそうかなど、誰にも相談できず1人で悩んでいた。

2-8 Jカップの開発と品質保証小西酒造の花崎氏のこと

思い出すとキリはないけれど、紙製液体容器に限っても、当時の福崎工場長としての私の悩みの種は、実は箱形形状のEPパックだけではなかった。もう一つ文字通りカップ形状のJカップというものがあった。最初はLカップといっていたが、途中でJカップと改名したものである。三谷正明君が担当の開発部長であった。EPパックと併せて売り込みをかけており、伊藤重役が沢村社長を連れて小西酒造を訪問し、それで昭和54年(1979年)11月15日に正式に受注が決定したものである。そして、それに伴い新規設備の導入と建物増築が決まった。

この話は、その年の初めから出ていたもので、福崎工場の技術部隊ではどうやって酒を入れても漏らないカップを作ることができるかの検討を繰り返していた。持っていた2機種の紙カップ成型機に対する評価は、一方は生産性は良いがシールの安定性は劣る(PMC社製)、もう一方は、構造がきゃしゃでheavydutyの原紙に絶えられるかどうか懸念されるが、すでに凸版グループの東京包材が使ってサンプルを作っているのだから、生産性では劣るが、多分、シールは確実なのだろう(RISSEN社製)というのがだいたいの評価だった。

他方、小西酒造からの受注が確定するまでの過程では、東京と関西のどちらで生産するかといった議論があった。そして最終的は価格をいろいろな事情から、東京は新たな設備を導入してまで生産で協力することはできないということであり、関西に新たに機械を導入することが決まった。

一方、そんな議論が行われている中で、包材の恩田武男さん(当時技術部長か、事業部次長だったと思うが?)経由でHERAUF社のカップ成型機が紹介され、そのシール機構が大変にしっかりしたので、いろいろテストを行い、もし酒カップをするならこれだと決めていた。この選択が正しかったことは結果が証明した。しかし、初めて入れる機械であり、一式の設備が完成するまでは心配の連続だった。それが無事に動きだしたのは牧野隆男君と包材の鈴木誠君の技術力に負うところ大である。

翌昭和55年(1980年)5月1日、福崎工場にHERAUF機が導入され、思考錯誤を繰り返しながらも7月下旬には10万ヶの量産試作を終えた(ちなみにこの機械は今でも稼働し、Jカップの生産で活躍している)。一方、東京の相模原工場ではRISSEN機によるカップ生産は実生産に入っていた。すべてが順調に進んでいるようであった。

400万ヶの充填が終り、一斉出荷にむけて製品は在庫されていた。しかし、突然夏休み前に大問題が発生した。その中に酒の漏れるものがある、酒が腐りカビが発生している、すぐに責任者が出てこいという連絡を受けた。そして小西酒造の花崎(当時工事次長)さんに初めてお会いすることになった。8月13日、盆休みに入る前日のことだったと記憶している。私は1人で2時間ほど、いったいどうするのかと詰めよられたが、即答する材料は何も持ち合わせていない。数%が漏れており、漏れは底と蓋のシール部分に多そうだという。そう言われても、そもそも厳重な漏れ検査をしているつもりだったので私は非常に困った。そして、ともかく400万ヶの充填済の製品を全部開梱して検査し良品のみを出荷し、さらに保証できる製品を直ちに供給するという結論になった。

直ちに技術陣が原因究明に乗り出した。同時に9月4日から開梱検査を関西支社すべての人の協力を得て毎日200名を動員し、倉庫と工場の一部を借りて行った。検査と同時に生産日、ロット毎に不良率、不良の状況を克明に記録し、原因の究明の参考にした。その結果、HERAUF機は2%、RISSEN機は5%で、RISSEN機で作られた製品の方が不良率が高いことも判った。当時の相模原工場の工場長は佐藤実君を呼んで聞いてけれど要領を得ない。そでで、最終的にRISSEN機での生産は中止することになった。

原因究明も進み、漏れるのはアルミにピンホールが生じるからだということが判った。アルコールの場合には、わずか2~3ミクロンのピンホールでも通過して漏れ、そのピンホールは成形時と充填しシールする際に加わる圧力で起こるなどが判った。しかし、原因が判っただけでは解決にならなかった。原子力発電所の蒸気パイプのピンホールの検査方法に習ったピンホールの検査方法の確立や、型の修正と圧力とか時間などの加工条件を繰り返してピンホールができにくい最適加工条件を見出すのは大変な作業であった。一連の問題を解決し、生産が軌道に乗ったのは10月のことであった。

我々は、この時、初めて一次容器の品質の厳しさを体験した。それまでも特印の商品は一次容器でクレームを良く経験していたが、本当の意味は理解できていなかった。暖かい得意先をクッションにしてしか理解していなかった、水ものやレトルトなどを扱う容器で凸版が遅れたのはそのためであったと大いに反省させられた。

この一次容器の本当の厳しさを教えてくれたのは小西酒造の花崎さんでした。花崎さんの良いものしか保証されたものしか出荷しない、絶対に不良は出さないという教えは、我が社のEPパックの成功の大恩人として決して忘れてならない人の1人です。

以後私の判断基準はすべて品質第一となった。液体容器では、その後も充填機の不備とかアセプチックシステムの不良とかで何度もクレームも経験し、その度にかなりの損失も出したが、すべて品質優先で処理することによって特意先の信頼を勝ち取り、それがEPパックの普及につながり、大日本印刷との競争で勝つことにもつながったと思う。損して元とれとは良くいったものである。

なお、EPパックとJカップの品質が本当に安定したのは、紙とアルミとポリエチレンだけでは、いくら厚くしてもシール時のピンホールは防げず、原紙をアルミとポリエチレンの間にPETフィルムをラミネートした6層構造にしてかあらである。そこに辿り着くまでに多大な労力、時間、費用を費やしたにもかかわらず、それを特許として権利化するここができなかった。機能で権利化するべきところを方法で権利化しようとした我が社の特許部隊のまとめ方の失敗であり、それには開発部隊にも責任がある。東洋製缶のラミチューブの特許を思い出し、歯ぎしりしたものである。しかも、こうした弱点を凸版はいまだに克服できていないように思う。いろいろ努力するが、どうも経験的発想からのアプローチばかりであって科学的ではないように思う。それが恐ろしいことに伝統のようになっていて、変えるのは容易なことではあるまい。

さらにもう1つEPパックで得た教訓に充填機のメンテナンスのことがある。小西酒造の「白雪」をはじめ数社でEPパックの採用が決まり、営業の気勢は上がっていたが、その一方で漏れによるクレームが多発し、その対応だけで現場は悪戦苦闘を続けていた。そんな時に、いくら包材の品質管理を厳しく行っても、充填機のシールが悪いと酒は漏れる。これがEPパックの拡販上の最大のウイークポイントであり、充填機の改良と保全が、包材の品質管理以上に大切であるということを、私の大学時代の先輩で、伏見の酒造会社、招徳の木村社長から、このことを教えていただいた。昭和50年(1980年)10月末、日置さんと2人で木村さんを訪ねた際のことである。

それで、「白雪」に次いで紙パックを採用していただいたものの、当時、一番漏れに苦しんでいた多聞酒造の「多聞」の充填機のシール機構を凸版の費用負担で改良修理することにした。充填機は明治機械(現在の厚木エンジニアリング社)で作られていたが、機械の剛度不足のため紙を綺麗に、かつ完全にシールできない上に、すぐ摩耗してガタができて圧が均等に加わらないなどの問題があった。それが漏れの一つの原因になっていたことは現場ではだいたい判っていたものの、改造費用の分担の問題で折り合いがつかず、修理が遅れていた。

私は、伏見の酒造会社、招徳の木村社長の言葉を思い出し、直ちに、これは凸版がシステムとして売り込んだのだから完全なものにするまで我々が責任を持つべきだと思った。そして凸版が費用を持って修理することに決めた。同時に得意先に入れた充填機の設置だけはなく、その後のメンテナンスも凸版が責任を持って定期的に行うようにした。特にシール部分の機構の摩耗とガタに注意し、問題が起きないように早めに交換するようにした。こうした対策を講じたところ、これ以降は、原紙の6層化と相まって、漏れのクレーム、なかでも市場からのクレームは激減した。メンテナンスに従事した野村、谷川両君の働きも大きかった。

一方、得意先からのクレーム対応に追われている中で、私は、市場クレームというものは、10万本に1本以上の不良が出ると大騒ぎになるが、100万本に1本ぐらいになると「すみませんでした。今後気をつけます。」といった対応でなんとか得意先には理解していただけるということに気がついた。そして欠陥品を完全にゼロにするということは不可能なのだから、品質保証の目標値として不良混入率1ppm以下を設定した。これは後年、エレクトロニクスの世界でも、基本的には同じであることを経験した。

2-9 TraceabilityとRepeatability

技術的問題が克服され、クレームが激減し、安定して液体容器事業が発展し始める一方、特印事業もラーメン包材などの受注が順調に拡大し、それに伴い液体容器事業で最も苦労させられた、どんな内容物であっても絶対に漏れないようにしなければならないという一次容器の品質保証が最も大切な全体の共通項目であるということが認識され、クローズアップされてきた。これも福崎工場に、顧客はもちろんのこと、そのためにまったく異なる内容物や素材を取り扱わなければならない製造部門が物理的に集約されると同時に一元的に統括管理されているということによって生まれた相乗効果の一つであると思う。

安定的に一定の品質の製品を製造することに加えて、トラブルが起った場合には、どこがどうなっているのか、どの製品までは大丈夫で、どこから選別や回収などの処置が必要なのかなどが直ちに判るように記録管理されていることが必須条件で、それができているかどうかが、これからは企業の力を表す一つの大きなバロメータになるということを、現場にいて、私はさらに強く実感するようになった。

これか別の言葉に直すと、技術的にいつ、どこで、誰が作っても、会社としては同じ品質の製品を製造できる力がないとことには安定して製品を供給することができない。また同じ社内であっても他工場への技術移転が難しいことになる。原材料の受け入れからはじまって全工程の変動を把握・記録し、工程を整然と流さなければ実現は不可能である。製品の履歴が判るということは、製造工程をトレースできるということであり、同じものを繰り返して作れるということは、バラツキなくリピートする力がなくてはできないことである。

簡単に言うとTraceabilityとRepeatabilityということであり、私はこの技術を確立しようと社内整備に努めた。その結果、ハウス食品からのクレームへの対応は良くなったし、グリコのカプリソーネの事故でも原材料から製品までの全行程でのロットが層別されていたために僅かな損失で納めることができた。この時の原材料のロット区分からはじまる生産管理・品質管理・品質保証の方法は、滝野工場建設に際して自動化・コンピューター化されてCIM(Computer Integrated Manufacturing:コンピューター統合生産システム)構築に結実してEPパックの品質保証に貢献し、さらに関西支社のSOSシステムなどにも反映されている。後で考えると、これはISO9000シリーズの概念そのものであった。

2-10 Know、Can、Will教育と訓練、知識と技能、能力と意欲

私が福崎工場長の時代に、人の力とはいったい何なのだろうか、どうすれば人の力を引き出し、強化できるのだろうか、あるいはどういったことは人に求めても無理なのだろうかなど、人についていろいろ思い考えたことを少し述べたい。

九九を知らない人に掛け算をさせても上手くできない。英語を知らない人に英語で話しても通じない。自動車の運転を習ってない人に車の運転をしろといってもできない。泳ぎを習っていない人に泳げというのは無理である。お腹のすいていない人に飯を食えといっても、あるいは喉の渇いていない馬をいくら水辺に連れていっても水を飲ますことはできない。これらはできないという点では同じであるが、その中味は違う。我々は、ともすれば、これらをごっちゃにしてはいないだろうか。

おまえはやる気がない。どうしてこんな簡単なことができないのか。おまえの教へ方が悪いからだなどという台詞が横行しているのが良い例だろう。

そういう発言をする前に、きっちり知識が与えられているかどうか、そして知っていることとできることとは違うということを考慮しているかどうかなどをまず自分自身に問いかける必要があると思った。どうやって自分が自動車の運転を覚えたかを思い出せば判りやすいだろう。自動車教習所では、まず座学をやってから実地訓練が行われる。しかsも、その手順はきちんと整備されており、次のステップに移るためには試験をパスしなければならないなど絶えずやる気を出させるような動機付けが行われている。こうした自動車教習所の仕組みには、考えさせられることが多かった。

ともかく新しい機械や装置を導入した時に大事なことは訓練であり、作業者の技能の養成である。車の運転も、免許取り立ての時は怖々運転しているが、しばらく運転していると見違えるほど上手くなるのと同じで、新しい機械や装置を使いこなす技能を習得するのには時間がかかる。もちろん器用な人と不器用な人では、同じぐらいの機械や装置に関する知識を持っていても、実際に操作すると技能の差が出てくる。さらに技能だけではどうしようもない領域が山ほど存在し、それらの解決にはまた別の能力が求められる。いずれにしても人の持っている能力は多種多様で、昇給とか賞与の査定は、こうしたことが考慮されたものでなければならず、もう少し工夫する必要があると思った。

2-11 QC(Quality Control:品質管理)と市川先生

これまで述べてきたことから判ると思うが、私が工場長を務めた福崎工場で生産していたものは、EPパックはもちろんのこと、チュー-ブもプラスチックボトルも、ほとんどいわゆる一次容器であった。それだけに品質保証・品質管理の問題は重要で、その水準をどうすればレベルアップできるかを考えた結果、最後は、やはりWillのみでは駄目で、KnowとCanを磨かなければ駄目だという結論に私は達した。

しかも福崎工場には、私をはじめ、細包君、今村常泰君、勝利康成君などQCには積極的な人が多かった。そして福崎工業団地の第二次造成のためのアセストメントを行うことになり、兵庫県が評価委員会を作り、団地協議会の会長会社だった凸版が企業側の委員になった。

その評価委員会で、私は学識経験者として委員の1人になられた市川邦介大阪大学発酵工学部教授と再会した。先生は私が京都大学で学んでいた時の食品講座の肋手であり、体育の先生でもあり、一緒に野球やテニスをやったことをよく覚えていた。

そして市川先生から、ところでおまえ今なにしているのだと聞かれ、凸版の福崎工場の工場長をやっていますと答えたところ、一度工場を見たいと言うので、直ちに機会を作ってご案内した。チューブ生産に興味を示され、歩留まりはいくらかと質問された。丁度、伊丹工場から事業を移設し、新鋭設備も入って、歩留まりも上がっていたので、そうした事情を説明した上で、私は胸を張って92~93%ぐらいになっていると申し上げた。すると、「凸版は良い会社だな-!そんなにお金を捨てていても儲かっているのだから」と言われた。先生は、その前にビールの缶化に絡み、ビール会社と缶メーカーを指導されていたので、アルミ缶の歩留まりについて良く知っておられ、それとの比較でのコメントであった。この市川先生のコメントを契機に、私は不良品に対する見方を変え、そして歩留まりの目標を100%に設定するようなった。

そして、この福崎工場見学が縁になって、工場内の勉強会で先生に話しをしていただいたり、先生のご紹介で私たちはトヨタ車体の工場見学をさせていただいたりした。そして先生が大阪大学を退官された時、本社にお願いして凸版の顧問になっていただいた。先生は、お金はどうでもよい、健康保険だけ使えるようにして欲しいと言われたのを覚えている。

そんな経緯があって、昭和52年(1982年)、鈴木社長がTQCを始められた時には、先生に主査をお願いした。先生は凸版の体質を見抜いておられ、この体質はそう簡単に直らないので時間をかけ、出来るところから順次やるようにという姿勢で取り組まれた。東洋インキで朝香先生が採用されたような急進的方法は選ばなかった。しかし、それでも各部門の反発は強く、結局、周知の通り、エレクトロニクス部門以外ではTQCは根付かなかった。

先生はその後、肺癌に冒され、亡くなられた。亡くなられる直前の昭和63年(1988年)8月、先生の指導会があった。会が終わって食事も済ませた後、カラオケとなり、そこで琵琶湖周航の歌を一緒に歌えと言われて歌ったのが最後になった。その後、先生は入院され、9月19日に亡くなられた。先生の専門は醸造で酒造メーカーには沢山の弟子を送り込む一方で、TQCでは日本の官能検査の草分けにもなった人だった。水質公害問題、水銀やカドミウム汚染問題の権威でもあった。先生には、もっともっと、いろいろご指導していただきたかった。亡くなられたのは残念でならない。改めてお礼申し上げると同時に、ご冥福をお祈りする次第である。

2-12 工場長の任務

ここで振り返って昭和47年(1972年)伊丹工場長に任命されてから、昭和57年(1982年)に包材事業部長となって福崎工場を離れるまでの10年間、工場長とは何なのだろうと考えながら心掛けたことを整理する。

先ず工場長の任務は我が社では利益確保の向上が第一と考えられている。これは会社の機能が、組織的に財務、営業、人事、製造の4に分けら中で、人、物、金を効率良く使って最大の効果を発揮することにある以上、製造部門の長である工場長にとって利益確保の向上が一番大事な仕事になるのは当然である。

しかし、それを達成するにはいろいろな仕掛けが必要になる。それを私は次のように考えて実践した。先ず我が社は受注産業である。これは絶対である。丁度、電鉄会社の従業員がお正月でも電車を止めて休めないのと同じように、お客の要求に答えられねば仕事は獲得できない。従って、どんなことがあっても得意先の希望を最大限に満足させるのが第一の仕事だと割り切った。

長い作業課の経験から自然にこういう結論が導かれた。しかし、若い時はずいぶん営業の人人と喧嘩もしたし、迷惑もかけた。

「一升桝には一升しか入らない、それを二升入れるのが作業課の仕事だ!」

「そうは言っても、人らないものは入らない!」

毎年繁忙期になると繰り返された言葉である。

今流に言うと、スケジューリングでの仕事の山崩しの問題である。この問題は本当に難しい。今でもない知恵をしぼって考えているが、100%の解決策は思いつかない。コンピューターの力を借りても、限られた能力に対して、その数倍にも需要は変動するし、しかも時時刻々飛び込んでくる注文を先方の指定する納期通りに満たす絶対の解はないだろう、近似値は見つかるだろうが。

従って納期を満足させながら故大の利益を上げる。この回答を見つけるのが工場長の仕事である。そこで私が掲げた原則は次の3つであった。

1.Safetyfirst2.Qualitysecond3.Quantitythird

1の安全については、私は昭和38年(1963年)の大阪工場特印の火災、昭和43年(1968年)の伊丹工場ボブストチヤンプレン1号機の火災、昭和49年(1974年)の福崎工場建設中の安藤建設飯場の火災などを経験した。そして生産に一番支障をきたすのは、火災や人身事故により長期にわたり機械が止まったり、作業員が休業したりしなければならなくなる災害である実感した。

機械が止まれば納期もなにも御破算である。また人身事故は怪我をした当人はもちろんのこと周りの多くの人々に影響を与える。その影響が一生にわたることもある。什事中に怪我をして傷害を受けた人を見るにつけ、会社として絶対に従業員をこのような目に遭わせてはいけない、少なくとも自分の工場からはそのような人は出すまいと心に決め、ことある毎に安全を強調した。通勤に伴う事故も同じで、交通安全対策もやかましく指導した。そのお陰もあって、他工場では死亡事故が何件か起ったが、福崎工場では無事故であった。

2の品質については、すでに何度も品質を最優先することの重要性について触れた。ともかく、営業の人にもいくら急いで間に合わせて納品しても、それがクレームを起して返品になれば、結局、納期遅れになってしまうと説明し、品質に影響するような無茶な要求は受け入れられないと説得した。営業の人だけではなく、特意先にも同様の説明を行い、結果で納得していただいた。

そして最後が3の生産高である。我が社では売価還元方式による生産利益管理を行っている。この方式では、生産高が増えれば利益も増える仕組になる。従って、工場長の仕事はいかに機械をより多く回して生産を増やすかが日常の仕事となる。そして一枚でも多くの紙を通し、1メーターでも多くのフィルムを印刷するなどProduction Firstが至上命令になる。

しかし、そうした仕方では本当の利益は増えない。生産することばかりに目を奪われていると在庫が増え、それで利益が圧迫されることもあるし、まして不良品を作ればクレーム返品の山に悩ませられる上に、だんだん仕事をライバルに奪われ、売上減の原因にもなってしまう。実に簡単なことなのだが、これがなかなか判ってもらえない。「理屈はそうかもしれない。建て前はそうかもしれない、でも本音は違う。」と多くの反対に出会い、ついついQuantity First Qualitysecondになりがちである。

しかしQuality Firstが本当に実現できた時には、自然に生産も上がり、利益もどんどん不思議なぐらい良くなった。どんな手法を使おうと目指すところは、良いものを作る力をつけることが、生産を安定させて生産量を増やし、コストを下げ、利益を増やすことになる。良いものを作る力とは、繰り返しになるが、バラツキの少ない品物を作る力、他よりレベルの高い品物を作る力、繰り返して同じレベルの品物が作る力、そして他より早く安く作る力のすべてを含むと定義し、それを目標にして行動した。

特に人の生産性を一番重要な管理項目とした。それで従業員には各々の職場で凸版一、日本一、世界一を目指すように指導した。そのために品質、能率、生産量、定員など、その機械、品物について自分なりの目標を設定し、それにチャレンジするように課長をはじめ従業員に呼びかけた。目標値の設定については、1台当たりとか1人当りとか具体的なものとし、特に作業員1人当りの生産性と単位当たりのコストに注意を払うようにした。営業の受注価格により利益率とか利益の額は変わるが、コストの絶対値は変わらない。このような当たり前のことに関する認識がごく最近まで本社でも薄かったことは驚きである。

さらに人については、2つめとして多能工化を進めた。1種類の仕事しかこなせない場合は、その仕事の繁閑で人が余ることが起る。こうした事態に陥るのを少しでも防ぐために、各人が2ないし3種類の仕事をこなせるようになるように努めた。同時に、人手が足りないからと言って簡単に社内の他工程に従事している人の力を借りることも極力避けさせた。一度やると麻薬のようなもの、ちょっと人が足りない直ぐに頼むようになる。今では、これに外人労働者や派遣社員も加わってくる。ついには、それが日常化し、その費用が固定化してくる。工場長の決断が要求されるところである。こうしたことに十分に注意することが、今後ますます増えてくる小ロット生産に対応するには大事なことだと思う。

なお、福崎工場では、伊丹工場、大阪工場、ファミリー会社、現地採用の人などが同じ職場内で働いていた。同じ会社ですら伝統や歴史の違いで気風や行動様式が微妙に違い、この混成部隊を一体化するのにも随分と神経を使った。高卒の新入生などが朝会った時に「おはようございます」と言うようになるまでに、3月間、毎日、朝の出社時に、こちらから声をかけたこともあった。しかし、いったん習慣ができてしまうと後は楽で、その後の新入生は自然に「おはようございます」と言ってくれるようになった。

人件費と並んで材料費がコストの中で大きなウエイトを占めている。特に包材部門では材料費の比重が高く、この管理が利益を大きく左右する。原紙、レジン、インク、接着剤などを合わせると、コストの60%以上を占めることも希ではない。ここでも使用する絶対値もさることながら原単位それと他工場や他社との相対比較を大事にし、それが前年、前期などと比較してどれだけ改善されたかを評価しながら、どこよりも優れたものになることを目標にした。さらに受注価格が安いものについては、その原材料価格を特別に下げてもらうよう交渉してもらった。それで原材料メーカーの方には随分と嫌がられたが、これも忘れてはならない対策だと思う。

設備投資に際しては、次の5つのことに注意した。

まず第一は、一流品を購入することである。設備償却費も大型機械を導入するとコストで大きな比重を占めてくる。特に我が社は定率償却法を採用し、3年で50%近く償却するために初めの3年が勝負になってくる。この期間に利益を出せれば、その後はあまり大きな問題にはならないが、高額でしかも新分野の機械設備を導入した場合には、当初は受注不足などで苦労させられることが多い。そのため、ついつい安い物で間に合わせようとしたくなる。しかし、やはり一流品を買うことが大切である。高いように見えても一流品は結局は安くつくことが多い。

その良い例として、私がいつもも引き合いに出すのは、福崎工場に最初に設置した印刷機である。イタリアのロトメック杜の1m幅の7色機と中島精機製の80cm幅7色印刷機が同時に福崎工場に設置されたが、23年間使ったところ価格が2倍もした機械がはるかに安いものになっている。

初期投資費用とランニングコストを総合して有利なほうを選択する。こうした欧米では当たり前のことが我が社ではまだ十分に理解されていない。前にここから買ったからとか、たまたま自分が知っていたといった理由で選択されることが多いように思う。原単位当たりの動力費、修理費、歩留まり、操作性の善し悪し、さらに将来の省力化の可能性などが検討され、それを選定理由とするような稟議が上がってきたのを聞いたことも見たこともない。本社役員として随分と声を枯らして各事業部に言ったつもりだが、その成果が実っているようには思えない。その意味で社内には頑固者が揃っている。

そもそも機械設備が高いか安いかということは、その金額の絶対値でなく、コストに占める比率の大小で判断するべきものである。このことを私はアメリカのEB(Electron Beam:電子線)照射機のメーカーを訪問した時にしっかりと叩き込まれた。以来、絶対値が少々高くてもコストパフォーマンスの良いものを選択するようになった。しかし、大半の人は今でも金額の安い方が良いような錯覚を持っている。我が社は、それほどお金に不自由しているわけではないのだから、もっと大胆にお金を使うべきである。

第二には、機械設備は安く買っても安物の機械設備は買うなということである。安く買えと言うと、すぐ仕様を落として値段を合わせる傾向が強いが、これは絶対に止めるべきである。安く買うには知恵を働かせることが必要である。技術屋の常として、仕様はとかく贅沢になりがちで必要もないのに余計な機能を欲しがる傾向がある。その背景には、何でもできるが売言葉で、できないと言うことを許さない営業の体質がある。その体質を知っているものだから技術屋はオーバースペックの機械を選びがちである。そうした要求を断固切り捨て、要求仕様を絞り込み、きちんとした無駄のない機械を選定させるようにすることも工場長の大事な仕事である。

第三には、機械設備を導入する際には、その必要性などをとことん調べてから購入しなければならないということである。思い付きで機械設備を購入するとしか思えない例に、私は本社に来てからも随分と遭遇した。突然、得意先から言われたので導入することにしたといった例もあったが、大半は、ぼちぼち能力が不足してきたからとか、需要が見込めるからとか、設備が老朽化してきているからといった理由によるものである。突然、降って湧いたような話ではなく、次に導入する機械設備についてじっくりと調査・研究する時間と余裕があったはずである。それが行われていないのは、日常、その気がなかっただけのことに過ぎない。そもそも新事業と簡単に一言で言うが、それとても決して突然、降って湧くものではない。必ず前兆はあるもので、それを見逃し、準備を怠るようなことはあってはならない。

第四には、どこまで担当者が真剣で熱心であるかということである。本当に必要なら何回でも稟議が通るまで粘る熱心さがなければならない。最後には申請者の目つきを見て決断することだってあるのである。

そして第五には、地域社会とのより良い関係を構築する上でも資するかという視点である。福崎工場の工場長時代には、地域社会や周囲の会社と良い関係を作り、それを維持するために随分と気を使った。工業団地の協議会を作り、行政と連絡しながら、公害対策を含め地域社会と企業の利害調整を行った。そこで様々な経験を積み、様々なことを学んだ。地域社会との関係も目立たないが工場長の大事な仕事の一つであった。