凸版印刷45年を振り返って(4/8)PDF

河野通

2 工場長として

2-1 人手不足と生産方式の転換

工場長になる1年前の昭和46年(1971年)5月、アメリカのシカゴで、’71 AMA National Packaging Exposition(全米包装展)が開催され、これを視察するツアーに参加しないかと誘われた。工場の業績も安定してきて少しは余裕も出てきたので、世界の新しい動向を見ると同時に、ミード社のアトランタエ場でアメリカのマルチパックのことも勉強したいと、お願いしてツアーに参加した。このときカナダ、アメリカ、メキシコを回り、Crown Zellerbach、Stone Containerなど大会社の工場から中小の紙器工場、パルプ、製紙工場と9所をまわり、大変勉強になった。

それまでアメリカの印刷は日本のように細かい欠点は問題にせず、少々の印刷不良などみんな納めているとか、発注の単位が大きく印刷のスケジュールなどは安定しているとか、いろいろ言われていた。ところがそのようなところもあるけれど、日本以上に品質がうるさくきっちり検査して仕上げている会社とか、小ロットでスケジュールを頻繁に変更している会社もあり、我々の会社と大同小異だと判った。

「アメリカ人は働かない、日本人は勤勉だ」というのも嘘だと思った。機械のオペレーターは昼休みでもパンをかじりながら機械を動かしていて、ともかく機械を止めない。女性も夜勤に従事している。日本より機械の定員がうんと少ない。など全く今まで考えていたアメリカの印象と反対であった。

特にミードで詳しく教えてもらった見積方法、生産実績から工数の計算方法、設備や仕様などが変わったときの変更方法など、生産管理、原価管理、工数管理、見積標準などの実際と運用は驚きであった。印刷会社では原価計算は不可能と聞かされていたけれど、それは間違であると思い知らされた。また予想と実績(estimate&performance)を対比し、差異分析するのは、当たり前のことであるが、それをコンピューターを利用して毎月行い、それで部門ごとの業績を判断し評価していたのにも驚かされた。何もかも驚きの連続であった。同じことは、後年、特印の提携先であったミルプリント社でも経験した。

こうした経験と知識が、後に関西支社がTIGERSというEDPSのシステムで標準原価を組み立てるときに非常に役に立った。生産コストは時間の関数であって、間接時間は生産品種の点数に比例し、直接時間は生産数量に比例する。この間接時間と直接時間の組み合わせによって全体の時間が決まってくる。この単純なことが、実はごく最近まで我が社では共通して認識されてはいなかったのである。

余談だが、この時、カナダでの工場見学を案内してくれたのは、元JALのパーサーで脱サラしてバンクーバーに住み、旅行エージェントをやっていた荒井さんという人だった。彼と一緒に旅をして、私はホテルのチェックインの仕方から朝食のオーダーの仕方まで、いろいろな海外旅行のノウハウを学んだ。卵の目玉焼を″sunnysideup″と言うことも知った。そんなことが以後の海外出張の際には大変役に立った。

1971年のアメリカはベトナム戦争後の停滞期で、街にはヒッピーが溢れ、何となく暗い感じの時期だった。しかし、それでもアメリカの大きさと明るさとダイナニズム、合理性と新しいものに対する挑戦の意欲を実感した。

ミード社でのシャンボンのオフセット輪転機(オフ輪)、B-11というラップラウンド式の打抜き方法の開発、カルフオルニアのFiberboad社のStocktonn工場でのレーザーによる抜き型の加工法の開発など、今でも多くのことが印象に残っている。またCrestbrook Forest Industry社では4直3交代制―――これだと1ヶ月に1回は必ず日曜日を挟んだ休みが回ってくるようになり、当時、我が社で行っていた3直2交代制では、「日曜日に休めないので子供と一緒に過ごす時間が取れない」というのが最大の不満点になっていたもので、大いに興味を惹かれた。

昭和40年代後半の日本は、千里万博などで高度成長がさらに加速し、人手不足は慢性化し、企業は争って人手確保のため地方に進出したり、パートタイマーを活用したり、人員不足が業績の足を引っぱるのを防ぐのに躍起になった時代であった。

このアメリカツアーでの見聞を通じて、私は、我々の生産も人手集約型から省力型への転換が必要であり、それは可能であると確信することができた。以後、我が社では、単に生産量を確保するだけではなく、利益を確保するためにも省力化が工場での大きなテーマになった。これは今でも同じである。

しかし、機械化、自動化によって省力化を進めると、人は減らせてもスペースはむしろより多く必要になることが多く、既存の工場では、なかなか対応が難しいという問題が起きた。事実、伊丹工場は今でも、それで苦労している。そんなことから新しい土地を求め、10年、20年先まで対応できる工場を作らなければならないという気運が高まることにもなった。

2-2 新工場紙カップ事業への再参入

昭和47年(1972年)頃、ロッテにアイスクリーム分野に参入する計画があり、それも東京、大阪、九州の3地区で同時に進めたいということであった。

当時、紙カップは東缶興業(東洋製缶の子会社)と大日本印刷の2社の寡占状況にあり、事実上は東缶興業の一人舞台であった。昭和33年(1958年)頃までは、凸版印刷も製造していたが、季節需要の変動が激しく、不良在庫の山に悩まされ、採算がとれなくなり、撤退した後、大日本印刷がドイツのリッセンの成形機を導入して新規参入したために出来上がった業界勢力図であった。

それに対して当時の愛知専務がロッテに働きかけ、凸版印刷は紙カップへの再参入を計画した。ロッテの要求に応えるため、東京の相模原工場と九州の佐賀工場に設備を入れることになったが、関西の伊丹工場には設備を入れる余地がなかった。しかし、たまたまロッテの関西工場の完成が1年遅れることになり、その間に工場用地を手当てすれば、なんとか対応できそうだということになった。

以前から大阪工場の特印部門が順調に伸びていたものの拡張の余地がないこと、そして昭和45年(1970年)に滋賀県八日市に関西支社として3番目の工場(精密部品工場)が完成したこともあって、近隣の県を中心に次の工場用地を探していたところ、兵庫県福埼の工業団地の話が飛び込んできた。愛知専務が気に入られ、最初は紙カップの工場としては広すぎるということだったが、特印も一緒にやれ、さらに伊丹のチューブもプラスチックの工場も移転拡張しようと福崎新工場の話はどんどん大きなものとなった。そんなことで思いもかけなかった兵庫県福崎に新工場が建設されることとなった。

しかし、今振り返ると、この福崎新工場の建設を決定した当時の田中関西支社長の決断が、その後、関西支社が液体容器などをはじめてとして大きく躍進する原動力になったと感謝にたえない。

なお、私もその後、滝野の土地を取得し、当時としては世界で最初の液体容器のFA化された工場を建設し、福崎工場の隣接地を共同開発して特印部門の拡張のスペースを作り、平成9年(1997年)には、そこに立派な特印の第二工場が完成された。

ともかく、私は本社に赴任してからも目先のみでなく10年先の土地対策の重要性を力説した。それもあって土地の手当はかなり行われた。但し、土地はただ買えば良いというものでなく、用途と立地は密接に関連しているので、選定には十分に注意を払う必要がある。まず交通、需要地までの物理的距離ではなくて時間距離が大事である。高速道路のインターから5km以内ぐらいが望ましい。それも高速道路に面していた方が良い。さらに何にもまして、自前で造成するより工業団地として開発されたところが望ましい。道路とか下水、上水、電気などのインフラ、近隣との権利をめぐるトラブルからの解放など工場建設の現場を担当した者にしか判らない悩みやトラブルから解放されて仕事に打ち込める利点は計り知れぬものがある。

2-3 福崎工場の建設オイルショックのはざまで福崎5人衆

昭和48年(1973年)春、まず紙カップ工場建設のため丸紅が開発分譲を始めた福崎工業団地の10号地、約6,000㎡を収得し、基本設計を日本総合建築事務所に依頼した。しかし、日本総合設計事務所も印刷工場に関する経験は少なく、まして紙カップの工場などに関する知識は持っていない。我々も設計事務所を使うのは初めてであり、先発の相模原、佐賀の両工場の関係者の話を聞きながら、一緒になって手探りでレイアウトをまとめた。

建築費用も決まり工事が始まった矢先、突然、あのオイルショックに襲われた。10月17日のことである。機械は既に先行発注されており、昭和49年(1974年)4月に入荷することが決まっている。機械の納入は先発の相模原、佐賀の両工場の後、最後に遅らせてもらっても、建物はどうしても4月には完成させねばならない。セメントが手にはいらない、やれ何がない、納期を延ばして欲しい、価格を上げて欲しいなど工事を請け負った安藤建設は必死に訴えてきたが、こちらも利益責任があるので、やすやすと承知しましたとは言えない。おまけに昭和49年3月20日には安藤建設の飯場から火災が発生するハップニングまで起こり、完成まで薄氷を踏む思いが続いた。

昭和51年(1976年)頃の福崎工場全景

余談だが、丁度、1年後の同じ日にも、完成したカップ工場のコンプレッサー室からボヤが出た。それで改めて隣にあるお地蔵さんを祭りし、無事を祈願したところ、それ以後は火災の騒ぎは収まった。

悪戦苦闘の連続だったが、何とか建物は間に合って完成し、昭和49年(1974年)4月には機械が搬入され、5月には伊丹工場の福崎分工場として牧野隆男君を課長にし、課員15名程でPMCの成型機2台で第二紙器課がスタートした。

金型や機械のメンテナンスなどの技術上の問題を抱えながらも受注を確保し、機械を動かし、良品を作り、そして稼働率を上げなければならない。まさに四面埜歌の状況の中で、営業面は今村常泰君、技術面は、本社の鈴木部長などの協力を受けながら牧野隆男君の努力によって3年後の昭和53年(1978年)上期には黒字に転換できた。自慢ではないが、これ以降20年以上、関西のカップは安定して利益を計上しており、トータルの損益で管理する仕組にしたことと、良き人の組み合わせが、その成功の要因と思っている。

ところで私自身は、昭和49年(1974年)5月、福崎の紙カップ工場が動き出し、一安心したところ、突然、田中関西支社長(当時常務)から呼ばれ、福崎工場建設委員長を命ぜられた。昭和48年(1973年)暮れのことだと思うが、愛知専務の指示で紙カップ工場の隣接の9号地、約32,000㎡を特印部門の工場の拡張と更新のために購入し、そして井爪工場長がリーダーとなって、紙カップ工場の基本設計を手掛けた日本総合設計事務所と設計を詰めており、すでに工場のレイアウトから機械の選定、人員の選定など既に計画がかなり進んでいる中での発令であった。伊丹工場は真多博志君が私の後任の工場長になり、私は福崎の特印工場の建設と立ち上げに専念することになった。

特印に関わるのは、昭和34年(1959年)に大淀工場に行って離れて以来15年振りのことである。発令は昭和49年5月14日のことであった。そして5月17日には起工式が行われた。

私は辞令を受けるのに田中支社長に一つだけお願いをした。それは新工場の管理者のことである。私は管理とか、設備とか、技術とか大抵のことは人に負けずにやる自信はあるが、現場の作業員の扱は苦手である。15年のあいだに現場の人の構成もすっかり変わっている。沢山の人を大阪から福崎へ転勤させねばならない。新工場のプロジェクトの成否の半分は労務問題を円滑に解決できるかどうかに掛かっている。この労務面の右腕になる人として当時グラビヤ印刷課長の坂井田正二さんを工場次長に、さらに総務課長に原田正一君、現場課長に勝利康成君、作業課長(生産管理課長)に小西宏明君の4名をスタッフとしてつけてくれるようにお願いした。私を含め福崎5入衆の誕生である。このメンバーは実に強力で工場建設から設備の今でいう垂直立ち上げ、要員の訓練、教育、新技術の開発・導入から従業員の家族の面倒、持ち家の世話、地域社会との折衝、役所との交渉など、あらゆることを皆でこなした。

私は福崎工場の成功の要因はなかでも阪井田さんの起用にあったと思うので、ここで彼のことについて少し触れさせていただきたい。

彼とは、私が昭和28年(1953年)、当時の凸版の大阪支社大阪工場に入社して最初の工場実習で平版印刷の現場に行った時に出あったのが最初である。彼は当時オフセットの2色機のオペレーターで、4入のクルーの機長であった。もともと板橋工場にいた人で、レッドパージの煽りで大阪に転勤(?)になり機長をしていた。戦時中は海軍の潜水艦乗りだったと言っていた。一週間、私は彼の機械で実習した。

彼は、その後、特印ができ、新聞用のグラビヤ印刷が設置された時に、オフセットからグラビヤの世界に移っていた。労働組合のボスでもあった。以後、彼は伊丹工場長、福崎工場長、凸版大宝紙器の専務などを歴任した。

そして私が包村事業部長や関西支社長になった時にも大変に支えてくれた。ともかく業績を上げ、ハッピー・リタイヤーをし、そしてゆっくり酒を飲み交そうなどと彼と約束し、それを励みに苦しい時を乗り切ってくることができたのだが、残念なことに昭和63年(1988年)に若くして帰らぬ人となってしまった。明るく、頭の回転が早く、行動的で、誰彼なく人に愛される性格は今でも懐かしむ人が多い。心からご冥福をお祈りする。

話を特印の福崎工場に戻すと、この工場建設を開始した昭和49年(1974年)5月は、まさにオイルショックに直撃された時期だったが、大幅な価格の引き上げも認めてもらえたため、結果的にはパッケージなどの特印部門は大きな利益を上げることができた時期でもあった。しかし、新工場が稼働を開始した昭和50年(1975年)2月時には、想定していた印刷単価が半分ぐらいにも下がっていた。

昭和49年(1974年)12月1日付けで正式に関西支社福崎工場が発足し、私は初代の工場長を拝命し、12月7日には内輪で工場完成式を行い、機械の据え付けを始めた。翌昭和50年(1975年)年2月17日、沢村社長を迎えての竣工式を行い、印刷機2台、エクスルーダー2台、ラミネーター2台、スリッター数台で新工場はスタートしたが、それは本当に悪環境下でのスタートで、一同、「石の上にも3年、3年以内に黒字転換を果たそう」と励まし、誓ってのスタートであった。

カップ工場を含めると総投資額は50億円を超える規模で、当時の凸版印刷関西支社では文字通り社運を掛けた事業であった。投下資金は限られている中で、工場建屋と機械設備と並んで、従業員の転勤などを円滑に進めるために無理をして、当時としては、ひときわ目立つ立派な社員食堂と社員寮を作った。そして事務所は食堂の一隅の仮住まいという状況で新工場は動き出した。

新鋭設備もさることながら、従業員の転勤が円滑に進んだこと、そして良好な作業環境で従業員のモティベーションが高まったこともあって、操業開始後、わずか1ヶ月後には、想定して以上に、歩留まりの向上などもあって、1人当り生産性が上がったことが判明し、これには関係者一同大いに喜んだ。

そして私自身も、それ以降は、技術面だけではなく、「仕組み」を変えたときの予期せぬ効果(善悪どちらも起こりうる)に注目し、出来る限り良い効果が出るようにするためには、どうしたら良いのかということに思いをめぐらせるようになった。

もちろん、技術面でも新工場の発足で大きくな収穫があった。その一つはシリンダーの耐刷力が3倍以上も良くなったことである。全工場に空調を完備したところ、それまではあまり気にしていなかった埃などの影響が少なくなったためで、そのメリットは空調のためのコストを上回るという結果が得られた。

このように無事に工揚も動き始めたため、沢村社長や田中専務の発案で、工場完成の御披露目を大々的にやろうということになった。丁度、創立75周年の年だから、記念工場、しかも当時ようやく関心が高くなってきた公害対応、職場環境に配慮した、緑の中の工場をキヤッチフレーズに、昭和50年(1975年)7月14日パリ祭の日に、東京からも得意先をお招きして盛大にやることに決まった。

隣接する8号地も購入し、伊丹にあったアルミチューブの設備を拡大するための工場の建設工事を、その年の2月から初めており、この建屋が完成し、機械設備などが入る前に、そのスペースを利川して会場を設営できるだろうということもあって、最終的に日程が決まったと記憶している。

当日は梅雨の終で朝から激しい雨で大変に心配した。しかし、式の始まる昼頃にはすっかり晴れ上がり、400名を超す得意先の方々、社内を含めると500名を超す方々にご参加して、ご祝福していただきき、大変に感激し、期待に答えなければと従業員一同心に誓ったことを今でも鮮明に記憶している。

2-4 建物と設計事務所ならびに工場緑化

工場や事務所の建設に際し、設計事務所に設計、施工管理を依頼することの効用がいろいろ論議されているが、その参考になると思うので、実際に設計事務所とつきあい、什事をした経験を少し書いておきたい。

確かに長年の付き合いのあるゼネコンに任せると、細かい指示をしなくても、使い勝手の良い、後から追加とか、手直しとか、変更とか少なくて済むような工場や事務所を設計してくれるが、その分だけ費用が上乗せされていると考えておくべきである。一方、上手に設計事務所を使えば、もっと安く出来るが、その分、我々が仕様をきっちり作成しなければならなくなる。そのためゼネコンに丸投げするという楽な選択をしがちであるが、それが本当に良いかどうかは定かではない。いずれにしてもトップが不退転の決意で臨まないと、その是非をきちんと自分で検討する前に、人は安易な選択に向かいがちだと戒めるようになっている。

もっとも設計事務所を利用するメリットには、デザイン面と長期的な視点からの発想にがあると思うのだが、我が社の場合は、私は長期計画が100%変わったことをかなり経験してきているので、むしろ臨機応変に対処することに重点を置いた方が現実的なのかもしれないとも思う。しかし、それでも今度の小石川ビルは丸投げしていたのではありきたりの箱になっていたように思うし、設計事務所を活用して良い結果を残せた例だと思う。また中部事業部の松阪工場とか、西日本事業部の福岡第二工場なども設計事務所を上手に使い、安くて立派な工場が出来た好例だと思う。

さらに、ここで工場の緑化ということについても少し触れておきたい。

福崎工揚は建設時に工場立地法により敷地面積の20%以上を緑化することが義務づけられた。幸い傾斜面が沢山あったので、ここを利用して対応したが、5,000坪近い面積に本を植えなければならず、予算の少ない中で大変に苦労した。木の種類は規定されているが、サイズは決められていないので、入口付近にのみ成木を植え、残りは5年先に形が整えば良いと割り切り、3~5年生の苗木で済ませた。それが20年経った今では鬱蒼たる森になり、素晴しい環境を創り出している。

県の緑化の表彰もいただいた。兵庫県の自然植生にあった樹種を植えたのが成功の一因である。楠、くるがねもちは県木、町木であり、沢山植えた。木の実を付けて鳥を集めた。ツツジや山桜、木犀、山茶花など四季折々に花の見れる本も沢山植えて従業員の気分転換になるようにした。また操業開始から3年ぐらいの間、従業員に苗を斡旋し、自分の本を植えさせたのも、緑化の推進の手助けになったと思う。県知事からも表彰をいただいた。

2-5 アルミチューブ部門の構築と撤退ラミチューブヘの転換

アルミチューブ製造は先に述べた通り、昭和44年(1969年)から伊丹工場で始まった。ライオン歯磨の歯磨チューブに続いて、ハウス食品が香辛料を発売することになり、その容器としてアルミチューブの採用が決まった。昭和48年(1973年)のことだったと思う。ヘルラン社の全自動機1台で歯磨チューブを生産し、2号機で、わさびや辛子の香辛料のチューブを生産した。しかし、香辛料が大ヒットし、生産が間に合わなくなってきた。急速増設することになり、調査を兼ねて西ドイツ、カールスルーエにあるヘルラン社を訪問し、さらに海外のチューブ工場の様子も調べることにした。

このときの出張は大変に欲張った内容であった。列挙すると、①ヘルラン社で仕様の打ち合わせと調査、②紙カップのPMC社視察、③特印のミルプリント社視察、④伊丹工場に入るジーランドグラビヤ印刷打抜きインライン機打ち合わせ⑤シャンボン社のオフリンの実働工場の視察、⑥シアトルのWyerhauser社での紙カップ原紙の調達、

⑦その間をぬってロンドンとパリのパッケージのEXPO見学を愛知専務とする、といったことで24日間に及ぶ世界一周の旅だった。

この時、欧米ではヘルラン社の機械1台を女性3名で扱い、我が社の30本/分に対して60本/分を生産し、生産性は4倍であり、新工場を作っても十分にペイするということが判った。もっとも日本では女性の夜勤は許されない。労基法の制約である。それでもペイすることが判り、新工場を作り受注量の増加に対応することを決めた。

事実、その後、福崎工場に移転されたチューブ部門は優等生で、大いに売上げと利益に貢献してくれた。それは単にチューブを作るだけでなく、付属のキャッブ、中栓のインジェクション成形までの機械定員の枠内でこなし、間接人員0の生産体制を作りあげることが出来たからである。藪根良法君他の功績である。

しかし、残念なことに歯磨きチューブは新製品毎にラミネートチューブに転換し、特許の関係で大日本印刷に行き、香辛料向けアルミチューブも昭和59年(1984年)以降は東洋製罐のラミチューブに代わり、凸版はアルミチューブから撤退することになった。但し、設備はすべて竹内プレスに譲渡し、損失は一切出さずに幕を引けた。

ハウス食品の香辛料のチューブでは、東洋製罐のラミコン特許のものと、凸版が提案したアルミチューブでバリアー性の良いものとのコンペになったが、コストと肩部分のバリアー性の点で東洋製罐に負けた。しかし、ハウス食品の藤田専務様のはからいで特別に我が社が東洋製罐の特許の使用許諾を得ることができるようになり、それに基づいたラミネートチューブをハウス食品に東洋製罐と凸版が半分ずつ提供するということになった。売上は半分になったものの仕事はつながり、それが今でも利益面で大きな頁献をしている。

ハウス食品の藤田専務様はわざわざ田中専務と私を連れて東京内幸町の東洋製罐本社に当時副社長の寺内氏を訪ね、特許の許諾を懇請していただいた。藤田専務様の好意は未だに忘れられない。後に東洋製罐の関係者から聴いた話では、この技術は絶対に外部に出さない、子会社にも出さないということになっていたそうで、事実、その後の条件の詰めは難航に難航を重ねた。

ところが、苦労の末にまとめた使用許諾の条件について、今度は我が社の役員に反対されて私は苦境に立たされた。理由は我が社がチューブを新規受注する際に支障になるということだった。私は、もし、東洋製罐との特許の使用許諾条件が理由で凸版が受注できずに困るようなことが起こった時には、自分が東洋製緞と交渉して善処すると説明し、最終的には承認をもらった。しかも、その後、この使用許諾契約が支障になって受注できないなどの話は一切持ち上がらなかった。「囲い込み」にこだわり過ぎることの悪弊の好事例だと思う。

もし、この時、東洋製罐との特許の使用許諾契約を諦めていたら、累計すると大変な利益を失っていたことは間違いない。しかも、利益だけの問題ではない。これによって自社技術を持たないことの侮しさを思い知らされたる一方で、プラスチックのロータリーブローの技術を習得したし、東洋製罐の特許の取得の仕方の巧妙さについても勉強した。その後、研究所を担当することになった時に、特許戦略を強化する必要の事例として、よくこの話した。

2-6 プラスチックビジネスについて多層ラミとPETボトル

昭和40年(1965年)、昭和容器を凸版プラスチックと改名し、東京では包材の一分野としてブロー成形によるボトル製造を開始した。当時、安藤一夫という小石川の作業課長をしていた人物が西ドイツのベクム社のブロー成型機が世界一だと言って、これを担いで、その製造部門を仕切っていた。英語ができ、弁が立つ人物だったので、当時、誰も彼に太刀打ち出来なかったように思う。

私は昭和36年(1961年)に明治製菓のマーブルチョコレートの円筒型容器の発売時に生産立ち上げを一緒にやったことがあったので彼の人となりなどについては判っていた。ところが、その彼を上司が買いかぶっていたのか、あるいは彼に上司が騙されていたのか、ともかくこの部門の情報を独り占めにし、好きなようにやっていた。

結果として、すっかり立ち後れてしまった。ベクム社のブロー成型機は少量生産向きのレシプロ方式であり、これにこだわったためロータリー化に遅れ、受注面でも生産面でもコスト面でも同業他社に負けてしまった。凸版の大手得意先からの受注は少なくても何万本、多ければ何十万本、何百万本にもなる。1日に何万本も生産して納めなければならない。トップメーカーはそれに答えられなければならない。そのような要求を1日に数千本しか作れない機械に頼っていてはこなせるはずがない。

そんなこともあって彼は会社を辞めていった。トップには良い意味で人を信用することを求められるが、同時に人の言うことをチェックできる能力を絶えず持ち続けなければならない。自分で海外に出かけ、世界の技術の趨勢を見聞し、同業他社のことを調査するなどの努力を怠らなかったらば、この場合もチェックできて、基本戦略を間違うことはなかったはずである。転ばぬ先の杖という言葉があるが、深みにはまりこんでからの脱出には大変な労力と費用がかかる。この戦略の間違いのツケをいまだに埋め切れず、苦しみ喘いでいる。

当時、私は、その状況を横から眺めているだけの立場で、状況も詳しくは判らなかったが、ともかく仕事のやり方については問題がありそうで、それは、もって「他山の石」としなければいけないと肝に銘じた。

一方、関西では昭和44年(1969年)から和歌山工場で花王向けのPVC(ポリ塩化ビニル)のボトル、伊丹工場で一般向けのPVCボトルの生産を行っていたが、昭和48年(1973年)頃からPVCの残留モノマーの毒性問題とか廃棄処理問題などからボトルの脱塩化ビニルの動きが加速してきた。特に食品用ボトルで顕著で、その対応として多層プラスチックボトルが提案された。

凸版の技術研究所が開発した、内面と外面はPP(ポリプロピレン)、中間はナイロンで、PPとナイロンの間に接着層を入れる5層構成を基本とするプラスチックを使ってボトルを成型するという技術である。

量産技術的には、樹脂を均一に層状に押し出す仕掛けが技術のポイントなのだが、研究所側は試作が上手く行ったら後は工場の仕事だと言う。それでともかく量産を開始したところ、樹脂の流れがなかなか均一にならず大量の不良品が出てしまう。醤油とか油などのボトルとして次々と注文は入るが、採算は合わない。そんな状況の中で悪戦苦闘しているうちに食品用ボトルとしても廃棄物処理でも問題のない新材料を使ったPET(ポリエチレン・テレフタレート)ボトルが出現し、多層プラスチックボトルの意義がなくなり、両工場とも結局、プラスチックからの撤退に追い込まれてしまった。

余談だが、後年、技術研究所の担当になった時に、CAD/CAEを使ってプラスチックの流れの解析を行い、設計を直させたところ、多層プラスチックでも、きちんと良品ができることが判った。そして量産試作という手順を欠いたままで量産に取り組むことの恐ろしさと命じられて頑張るだけの現場の悲哀とを改めて実感させられた。また、ここに書いた凸版がプラスチックで苦しむことになる元凶を作ってしまった一連の出来事に関することも、私自身がプラスチックボトルに関する知見も経験も乏しい上に、大きな夢を抱いて福崎工場の建設と立ち上げに取り組んでいた真っ最中に起こったことであり、基本的には、後年、いろいろ事情が判る立場になって、その当時に感じたことを含めてまとめたものであることを誤解のないように付け加えさせていただきたい。

私が福崎工場長として夢中でやっていたところ、チューブに続いてプラスチックボトルも福崎工場でやれということになり、昭和51年(1976年)2月に工場建設が始まり5月には第一期工事が完成し、そこに、先に私が問題であったと指摘したベクム社のブロー成形機なども導入された。

しかし、振り返ると、私は運が良かったと思う。と言うのは、プラスチックボトル事業の開始に際して、ベクム社のブロー成型機だけではなく同時に射出成型機も導入したからである。これは先に触れたが、チューブ事業に伴ってキャップの仕事があったもので、それを含めてプラスチックボトルのキャップもすべて内作することにしようという発想からだったが、これが後に液体容器の事業を始めた時に大きな武器の一つになった。損益改善に大きく寄与したのみならず、新製品開発の技術レベルの大幅な向上にもつながり、それらが相まって他社の追随を許さない競争力の源の一つになった。

つまり複合技術を誕生させることになったのである。今流に言うと業際型製品を創造できる基礎ができることになったのである。凸版の関西支社の包材部門で他社をリードすることができる基礎になったのである。

紙器と特印とカップとプラスチックという包材などまったく異なるものを扱う生産設備と生産技術が同一敷地内に存在し、それが組織的にも一元的に運営されている例は他にはないと思う。少なくとも私の知る限りでは世界中にない。これは故沢村社長の理想だったと思う。まさに凸版の総合力が福崎工場という場所で結集されることになったと思う。私は、その工場の建設、立ち上げ、そして発展という過程に身を置いて働けたことを一番の誇りに思っている。また、福崎工場の中でも課題山積だったプラスチッ部門を支えて伸ばしてくれたことについては、何にも増して細包暁君の努力が大きかったということ付記したい。