わが青春の譜(9)(1/5)

山岡浩二郎

1970年欧米諸国見聞記

工作機械屋の眼差しで

私は昭和四十五年(一九七〇)五月、神崎高級工機製作所の社長と兼務で、㈱昌運工作所の社長に就任した。

すでに述べてきたように、私は戦後、ヤンマーディーゼルの復興期に、初代孫吉社長から工作機械の勉強を勧められ、大塚石松氏の指導も受けながら懸命になって勉強をし、海外の工場も視察してまわったが、昌運工作所の社長就任を機に、工作機械メーカー社長の立場で、今一度世界を眺めてみようと、この年の八月三十日から約四十日にわたって欧米諸国視察の旅に出た。そこで得たもののいくつかをここに書きとめておきたい。

何といってももっとも大きな成果は、訪問した先々で古い友情を温め、また新しい友情を育てることができ、友情というものがいかに偉大なものであり、これは今後とも大切にしなければならないということを改めて痛感したことであろう。

英国においてはアルフレッド・ハーバートグループやパーキンス社、フランスではカズヌーブ社、またアメリカでも、いたるところで会社のトップグループの方々にひじょうに親切にしていただいた。なかでも、O・M・C社副社長のロバート・H・スコット氏にはそのご好意に甘え、お宅に泊まらせていただいて、家族ぐるみの心温まるもてなしを受けるなど、数々の思いがけぬことが、私の計圃をより以上に充実したものにさせ、かつまた楽しいものとした。天候も味方して、唯一雨になったのは、ウォークシャー・モーター社を訪れ九日だけで、雨の中をシカゴからミルウォーキーヘ、同社出迎えの飛行機で飛んだのがまた思い出のひとつになった。

私はそのときまで海外を二十回近くまわっていたが、いつも何とかエンジンをうまくつくってやろうという、いうなあらばエンジンづくりという固定した考え方のもとでの旅だった。だが今回はすこし違っていた。脱エンジン、つまりエンジンではなく、ものをつくるために行くんだ。そのついでにエンジンのことも見てこようという、従来とは異なった新しい意識が強かったから、自分自身を実にさわやかな気持ちにし、広い視野と自由な立場からの行動を容易にした。たとえば英国ではロンドンに着くなり、予定には入っていなかったパーキンス社にもどうしても行きたくなった。そこで先方に突然連絡をとって訪ねることにした。こんなことはしばしばあったが、幸いぜんぶうまくいった。

これは別の見方をすればこんなようにも説明できるだろう。この脱エンジン意識のおかげで、従来ならばヤンマーの山岡として、エンジンの立場に拘束されて訪問先の工場の写真もうっかり撮れず、よそ見もできず、ただまっすぐに歩かねばならなかったところが、今回は無想念になり、自分は工作機械では誰にも知られていないし、エンジンも知らないぞという顔をして、どちらに対しても無遠慮無手勝流で見聞して来られたということだ。そんなわけで、撮してきた写真も三千枚を数えることになった。カタログも私が工作機械業界で知られていないことから、気楽にもらうことができ、七十七キグラムにも達するカタログを持ち帰ることができた。

視察旅行から帰って、改めて自分の行動距離を計算してみたところ、飛行機で約四万キロ飛び、自動車で約四千キロ走っていた。工場見学では工作機械関係九、油圧二、エンジン五、クラッチ三、それに加えてIBM、NASAの計二十一ヵ所をまわっていた。