わが青春の譜(9)(4/5)

山岡浩二郎

アメリカの工作機械

シカゴではシカゴ・ショーの見学や、日本工作機械工業会の代表団に合流して、現地での懇親ゴルフ会、日米工作機械会議、米国工作機械工業会主催のレセプション等に出席した他、今までも数度訪問歴のある新潟コンバーターの親会社のツウィン・ディスクや、商品名エビンルード・ジョンソンで世界一の船外機ボートメーカーのO・M・C社を訪問し二工場やロータリーエンジンの研究所を見せてもらった。

このとき、アメリカの工作機械を見て私がいちばんに感じたことは、まず機械全体のつくりがひじょうに頑丈で、重切削が可能な耐久性があることだった。したがってこれから先、日本の工作機械がアメリカに出ていくためには、この点を十分考えねばなるまいと思った。

当時アメリカの工作機械業界は相当深刻な不況のなかにあったが、この点でも日頃から資本の蓄積に心がけていて頑強で、企業の体質強化を配慮する堅実さが備わっており、不況のなかにあっても将来の市場開拓につとめ、また受注残が少ないにもかかわらず、新技術の研究開発にも取り組んでいた。

シカゴ・ショーを見ても、業界全体が懸命に頑張っている姿勢がうかがえ、手応えは十分たった。

IBMのポーケプシー工場には、昭和三十九年(一九六四)ジョージア工科大学にIE研修団団長として訪れたときに工場の品質管理やプロダクション・コントロールの勉強の場として一日訪問したことがあった。このときは日本工作機械工業会の理事の方々とわずか二時間足らずの訪問であったが、IBM370/155型という、当時もっともよくつかわれた360型の三倍もの能力がある新製品の、生産状況、性能、その他技術的な問題について見聞してたいへん参考になった。

それから、OMCのロバート・H・スコット氏のぜひにとの勧めで、デトロイトで行なわれていたマリンーショーを見学した。このショーはディーラー専門のショー(アメリカには他にユーザー専門のショーが一月と三月にある)で、年に一度開かれる大規模なものであるが、不況下にあって売れゆきがわるいレジャーボートを何とかして売りたいという意気込みで、世界中のディーラーが商戦を繰り広げていた。

O・M・C社にて
右からO・M・Cのウイリアム・C・スコット社長、カンディ氏(ロータリエンジン研究員)、〔山岡浩二郎〕、モール氏(研究所所長)、ロバート・H・スコット副社長

千台のボートを六百の出品会社が必死に売り込んでおり、市内各ホテルには十分ごとに無料バスが巡回してお客を運んでいた。会場は出品場、無料試乗場、セミナー会場の三つに分かれ、セミナーでは「いかに一九七一年を売りまくるか」「販売店の金融について」の二つをテーマに、有名講師による勉強会が開かれていた。私はボート本体、エンジン、クラッチ、推進機はいうにおよばず、簡単なレーダー、水深測定、自動操縦装置、船内のソファー、ベット、水洗便所から金具、ペイント、アクアランブ、食器、桟橋トレーラーにいたるまで、資料集めに足を棒にして歩きまわりながら、これからはレジャーボートにも力を入れないといけないなと感じていた。

テレビでお馴染みの「こちらヒューストン」のNASA(米国宇宙局)にも行ったが、ここはまったく原野の真ん中にあり、五百二十八万平方メートル(一六〇万坪)もの敷地があって、シミュレーションを徹底的にやっているのには驚いた。

NASAの全景

月面を走るためのジープや二十倍もの重力を出すことのできる回転球や耐圧訓練用の真空室、宇宙食の研究など、ぜんぶシミュレートした装置(本物に似せてつくったもの)があって、なるにほどこれであとは訓練さえ積めばよいんだなと思った。

ニッサンやトヨタの車がたいへんに人気があり、いたるところで見受けられたのも印象的だった。テキサス州のこんな地方での日本製品の活躍に「よし、私たちも何かやらねば」と胸がふくらむ思いになった。