凸版印刷45年を振り返って(2/8)PDF

河野通

1 かけだし時代

1-1 お年玉つき年賀葉書

私は昭和28年(1953年)に凸版印刷に入社した。当時大阪支社と呼ばれていた昭和19年に合併した精版印刷会社の工場、事務所を引き継いだ会社である。建物は大正年代に建設されたものである。会社の前には野田阪神から天六までの阪神電鉄の北大阪線の軌道電車が走っており、会社は野田から二つめの上海老江停留所の前にあった。

配属された作業課(現在の生産管理部)での最初の仕事は、証券の製版進行の助手だった。入社2ヶ月目の5月に「今年のお年玉つき年賀葉書の進行業務をやれ」との指示が作業課長の故中井正太郎さんからあった。お年玉つき年賀葉書を当社が受注生産を始めて2年目のことである。この仕事は私にとって大変良い勉強になった。郵政省へ本社営業の渥美さん(当時担当か課長か記憶に無い)と行き、原稿の受領から一面校正、分版校正、刷り出し校正をはじめ印刷、ナンバリング、仕上げ包装、納入まで全工程を一人で担当しなければならない。そのため直ぐに写真製版を含め製本以外の様々な工程について学ぶことが出来た。

このお年玉付き年賀葉書の仕事で大きくは4つのことを学んだ。第一は品質の見方である。郵政省は今でもそうであるが、品質には非常に厳しい。色の見方、寸法精度、脱刷、誤刷などのばらつきによる不良などなどで、しかも納入を完了して翌年の1月15日のお年玉の抽選会が終わってからクレームが出ることもあった。今のナンバリングの構造からは考えられないが、当時は一つ一つの番号機が独立で動いていたので、時としてダブリ番号が出て、また正常に戻ってしまうようなことが起こることもあった。一等賞が2人出るといった事態も心配になるわけである。

第二はいかに計画通りに仕事を進めるか、仕事の遅れ進みをどう調整するか、作業進行のポイントを勉強した。葉書の仕事は4ヶ月にまたがる長い工程であり、一日一日が少しぐらい遅れても取り戻せるだろうという安心感みたいなものが現場にはあった。そのため、とかく作業が遅れがちで、これの調整に苦労した。当時現場課長はたたき上げの職人育ちで、遅れを取り戻すのにどれだけ人を増やさなければならないか? 或いは何時間残業をしなければならないか?など説得するのに苦労した。

第三は数量管理、棚卸について実務として覚えた。当時郵政省からは製造の全期間中、担当官が大阪に出張して管理官として駐在し、毎週用紙の受け払いから工程ごとの生産高、製品仕上げ高、納入数量、損紙の数まで書類で報告していた。当然毎日工程ごとの受け払いを記録し帳尻を合わしておかないと、土曜日になり慌てても間に合わない。こうした数量管理、棚卸に対する姿勢がその後の仕事の基本になった。

そして第四は得意先との接し方を垣間見たことである。管理官は4週間交代で来ており、日曜日は退屈している。人によっては一人で京都、奈良などを見物する人もいたが、たいていの人はどこかに連れていく必要があった。営業の業務係の人間と交代で、よく京都や奈良の見物、時には映画を見にも行った。マリリン・モンロー出演の「帰らざる河」を見たのを今でも覚えている。

特に入社一年目の新人に大事な年賀葉書の仕事を任せた当時の幹部の部下の育て方に敬意を表したい。また現場の検査部門の監督者にベテランの女性がいて、その仕事の正確かつ速いことにも驚いた。オフ検の寺田、番号検の桑原、西村、小切り検の堤さんなど今でも脳裏に焼き付いている。現場の人々との人間関係の作り方も勉強した。

1-2 株券印刷のダンピング

大日本印刷が証券分野に参入しようと猛烈なダンピング攻勢に出てきたのは多分昭和29年頃と記憶しているが、この時の思いが今でも私の中に新規事業参入に対する戦略の基本にある。当時有価証券の印刷は当社の独壇場で、高い利益を出していた事業であった。戦後の復興ブームで増資や公債、社債の発行が急増し、大日本印刷は、それに目を付けて参入してきた。そして徹底的なダンピングで我が社より安く、またあらゆるコネを使い指名でなく入札に持ち込んでは低単価で受注して行った(この行動パターンは今でも本質的に変わっていないように思うのだが………)。

当時凹版の摸刻は高度な技術を必要とする大変難しいことだった。我々も後に逆に大日本印刷の物を摸刻することをやって大変に苦労した。そこから何事も一番手をとる、トップ・シェアを握るものが市場を支配できるという資本主義社会ではごくあたりまえのことを体で覚えた。大日本印刷のダンピング攻勢の結果、1枚10円以上だった株券がピーク時には50銭にも下がってしまった。中国電力の増資の時の有価証券のビジネスは、紙代にもならなかった。

このような大日本印刷の戦法で、我が社は次々と大手上場会社とのビジネスを失ってしまった。新規参入者は芽を出さないうちに叩きつぶさないとシェアを分けることになるし、一時の利益でなく長い目で見ても利益を失うということ実感した。同時に新規市場に参入する場合には、同じような戦略でやれば良いだろうということを学んだ。この経験は、後年、液体容器の売り込みに際して役だった。同じような戦略を瓶業界およびライバルに対して展開し、それが功を奏した。

いずれにしても、この大日本印刷のダンピング攻勢による戦いに負けてから我が社は株券では二度とシェアを回復することもなかったし、利益を元に戻すこともなかった。今同じことが出版グラビヤで起こらなければよいがと心配である。

1-3 高度成長と株券ラシュ

この有価証券ビジネスでのダンピング競争は、昭和30年代通じて増資ラッシュの度に何度も繰り返された。

その中で、さらに株券の印刷加工は外注できない、そして外注に頼らずに限られた能力で大幅に変動する需要にどう対応するのかという課題に取り組んだ。これは素晴しいわくわくするようなゲームだといったら少し不謹慎かもしれないが、今でも我が社の課題で、今でもコンピューターでも解決できない、人間だけが近い解を見つけられる課題である。その後も幾つかこのような課題に取り組んだが、それは私にとっては限りなく楽しいことだった。

ネック工程を探す。ウェイト付けをする。解決する方法を考える。この時はあらゆる可能性を先入観無く取り上げ、チェックする。いかに最小の費用と、設備、人員とで得意先の要望を満たしながら最大の利益を上げるか。上手くいったときのこの喜びを、今の生産管理に当たる人達に覚えてほしいと思う次第です。

当時凹版はパワープレスしかなく版が4面つく。凹版の実用版は一番高価である。数量が少なければ一面しか作らないし、うんと多ければA-5であれば4面つきを4版、さらに機械台数分作ればもっと生産量は増やせる。納期とコストのバランス、他との重複などを考慮しなければならない。さらに当時は券面の種類が多かった。1、5、10、50、100、500、1000株の株券があり、それぞれの要求枚数が株主の持ち株分布により会社ごとに異なる。それらの券種を氏名刷りとのタイミングで揃えなければならない。日時の制約もある。さながらクイズみたいなものである。オペレーションズ・リサーチでも勉強していれば計算で近似値ぐらい計算できたのかもしれないが、誰もそんなこと考える者はいなかった。今でもいない。数学者を入れて工程解析を行うべきで、CIMに取り組みを始めた時、それを行う良いチャンスだと思ったのだが、充分に周りの意見を集約せずスタートしたため、失敗してしまったのは残念であった。

この時期は自分としては月に250時間も残業するなど苦労もしたが、印刷局に凹版の実用版を頼みに行ったり、出来た版を担いで夜行列車で東京から帰ったり、当時本社の業務部として杉浦前グループ総研社長や月見里前副社長にお世話になったし、高橋前専務にも凹版とか凸版の実用版の制作や作業の工場間委託でお世話になった。その後、証券、商印の事業が朝霞に移転してからも、そこで得られたいろいろな人とのつながりが残り、大変役にたった。ローテーションとか人の仕事を通じての交流が個々の人の能力の拡大・開発に大変有効であるとの認識をそのとき以来持ち続けている。

1-4 コーランの印刷

昭和29年だと記憶しているが、戦前精版印別会社がインドネシアのコーランを印刷し、その原版(勿論ガラス湿版一卵白版である)が大阪工場に残っていたため、30万部のコーランを印刷するという注文が決まった。

1950年当時の大阪工場。1920年に市田幸四郎が大阪・海老江に建てた近代的工場で、精版印刷会社から凸版印刷へと受け継がれ、1965年に建て替えるまで使用された。

営業が誰だったか記憶にない。当時私は証券の進行を担当していた。インドネシアから坊さんが校正に来て、朝から晩まで毎日々アラビヤ文字の校正をしている。誰もそんな文字など読めるのはいないから訂正箇所は、山本さんという校正係が1人でガラス原版を校正室に持ち込んで訂正している。数年以上も保存してした湿版のため、膜がぼろぼろになり、すぐはげ落ちる。大まかな修正は勿論レタッチをして校正刷りを出すのだが、アラビヤ文字はご存じの通り髭とか点があり文字か汚れか判りにくい。だから予定が遅れに遅れて、翌年2月末の L/Cの期限に間に合いそうにない。そんな情景を横目で見ながら大変だなと思っていた。

10月の始めに課長に呼ばれてすぐコーランの進行を担当せよといわれた。当時大阪工場はオフセット印刷機は B全判2色機が7台、単色機が9台、菊全判が8台だったが、コーランはB-5判544P表裏1/1だったので、その生産機としては B全の単色機が主力だった。普通で考えると表裏32ページの版が揃わないと印刷できない。原版は2ページ掛けで先はどの話の通り、いつ揃うか見込みが立たない状況である。また単色機は今と違い、あとで話す“ひかりのくに”という定期の絵本、週刊朝日、サンデー毎日の表2、表4を印刷しており、ほぼ満杯の状況であった。また操業体制は今と違い昼勤だけで、おまけに残業も1日1時間とかせいぜい2時間までという状況だった。

製本は大紙産業という古くからの年史などの上製本や手帳を頼んでいた外注先でやることになっていたが、そこからは B-5、3倍判の表紙の箔押がネックで間に合わないと言ってきていた。

そこで先ず下版を急いで印刷できるようにするため、析台ごとの製版の進捗一覧作りから始めた。下版を優先する進行に切り替えて、折台ごとの出校日を厳しく管理し、次に当時の印刷課長 K氏と座り込みで残業延長の交渉を行った。彼は部下にそのような過酷な残業をさせると体を壊し、休んでしまうから駄目だ、となかなか言うことを聞いてくれない。1週間ぐらい粘ってやっと交渉が成立した。絶対に機械を版待ちさせないことという条件をとりつけた。しかし、いくら急いでも、イスラムの坊さんと言う壁があるので気が気ではなかったが、ともかくやるより仕方なかった。

次は紙の問題である。ザラ紙という下級紙を使っていたので紙のいたるところに穴がある。その穴に文字にかかれば駄目である。点一つ欠けても意味が違う、と言うので検査でどんどんはねてしまう。それで落丁になってしまう。

そこで16ページ単位で検査を行い、印刷完了の翌日には不足数が判明するような検査体制を組んだ。多いものは全判で、少ないものは半裁で即座に補刷していった。そして納期までの日にちがないから、今で言うリアルタイムに情報が手元に集まる仕組を構築した。工程ごとに作業が完了すると書類で報告が来る。累計も入れてあるので時時刻々の進捗状況がつかめた。おかげで1台なら延べ6ヶ月かかる印刷を3台使い、2月と少しでかたづけ、製本に全力を上げた。

L/Cの期限は2月末といっても月末に具合の良い船があるわけでない。2月10日を目標に作業を進めながら少しでも遅い船を探した。おかげで輸出のことも勉強した。無事に大役を果たし、特に製本が大変よくできたと製本所の社長の梅本豊吉氏に、インドネシアから監督にきていたアブダミ・サリム氏から、製本日本一の感謝状を貰ったのが嬉しかった。

鈴木前会長が賠償物件としてコーランを受注されたのは、それからしばらくしてからのことである。

1-5 ”ひかりのくに”の編成ミス

戦前から幼稚園児向けの絵本としては凸版の関係会社になっているフレーベル館のキンダーブックに定評があったが、戦後、大阪で“ひかりのくに”の岡本社長が幼児絵本「ひかりのくに」を発刊され、当社がその印刷製本を受注した。

たしか16ページの絵本だったと記憶している。表裏4色4色のオフセット印刷で、両面マニラに近いカード紙で、表紙も本文も同じ用紙だった。3丁がけ、中綴、クロス巻仕上げの製本で、始めは社内生産していたが、その後、アウトソーシングで外部生産に移行した。原稿はたいてい水彩画で、それとは別にページレイアウトがくる。絵本は物語性がないものが多いからどれをどこに入れるかは、レイアウトだけが頼りだ。当時は作業課で品質設計までやっていた。製版への台割れも当然作業課でやっていた。事故はこうして起こった。

表2、1ページに入る絵を表3に、当然、そして表3の絵が表2、1ページに印刷されることになってしまった。この指示ミスが校正でも誰も気がつかないまま校了になり、印刷されて見本が出来て気がついた。やり直すとしても時間と費用は大変なものである。20万部位毎月印刷し、2色機1台と単色機2台が専用で動いていたのだから。

幸い「ひかりのくに」の岡本社長のご配慮で、そのまま発行させていただいたが、以降表裏関係、台割れについては通し番号を打つとか、天地関係も目で見て判る様にするとか、いろいろ工夫をするようになっている。しかし、いまだにこの手のミスはなくならない。

最近はこのようなヒューマンエラーは全く別のアプローチが必要でないかと考えるようになった。例えば、航空機の操縦ミスとか原子力発電所の運転事故防止法とかには、科学的に研究され成果を上げている方法があると聞いている。誰かこの問題に取り組んでくれる人が出て、成果が上がれば、あえてここで自分の恥を書いた意味が生きることになると思う次第です。

尚、私はこの件で辞表を提出し、やめるつもりでいたが、無事楽着し慰留され今日に到った。その後も2-3年の間はいつも辞表をポケットに入れていた記憶がある。

1-6 大阪工場での特印の開業

昭和30年頃、軟包材の需要が急速に拡大し関西にも生産拠点を作ろうということになり、昭和31年1月18目から製版設備、セルマー印刷機が導入され稼働した。

現総研顧問の百瀬さんが板橋工場から最初の印刷課長として赴任された。営業は海外が長かったので知らない人も多いと思うが、北野利春氏が元関西商印の事業部長をしていた佐々木毅君と先年定年退職した三木義也君の3人で始めた。

作業課は私と松打清明君で板橋工場へ教えてもらいに何度もいった。元専務の愛知さんがまだ特印の作業課長をされていた頃である。仕事はサロンパスの袋、牛乳石鹸のシャンプーの袋、森永製菓のキャラメルの包装紙、グンゼのストッキングの袋などなど、いくらでもあり、てんてこ舞いの毎日であった。

ブロッキング、デラミ、アルミの腐食などクレームに対する対策も技術係がいるわけで無いので、自分で考える。

ハウス食品から始めて特印の仕事として「チャーハンの素」の袋を受注した。初めての4層構成でデラミ不良に悩まされた、が、どんどん売れて納期に追い回された。営業は新進気鋭の今の藤井昌博副社長であった。

この時期の包材に対する経営方針について私なりに意見をまとめて見たい。これは今でもその傾向が残っていると感じるからである。即ち我々は印刷業から包材に進出したので、どうしても印刷本位に考えがちだが、そもそも包材は包装機能とか包装適正とかの機能など性能が主で表面のお化粧は従である。ということは設備にしろ、技術にしろ、材料、加工がメインでなければならない。ところが長年にわたり、ここのところが軽視されていた。今でもレトルトなど一次容器に弱いのはその後遺症である。これが改善されてきたのは、私の考えでは液体容器に進出し、特にアルコール飲料で苦労してからである。レトルト、水もの、ボイル物、味噌、練物など一次容器で藤森工業、東洋製缶などの後塵を残念ながら今でも拝している。これらは材料設計技術とともに品質保証、特に ppm単位に不良を抑える生産技術が必要である.

ISO9000シリーズの導入などに私も努力したが、まだまだ会社全体では不十分である。今後の関係者の一層の努力を期待したい。

特印はコーチング、ラミネート、ヒートシールという基本プロセスに、いろいろな素材をどう組みあわせるかが基本であり、最近では、これに加えて蒸着やスパッターなどの表面改質技術が重要性を増している。研究開発の本道を今後とも誤らないよう期待したい。

1-7 大淀工場活版部門の再建

昭和34年の春、突然当時の幾島支社長から、大淀工場の作業課へ転勤を言われた。

当時大淀工場は活版部門とオフセット部門と紙器部門があった。そのうち活版部門が不振で赤字であった。理由は、本来、紙器用の凸版印刷を主体に文字物の活版は補助的に生産していたのだが、紙器の仕事はオフセットに版式が変わってゆき、その穴を営業が埋め切れてなかったことだった。構造的な問題であった。

さらに工程管理が全くでたらめで、納期など成り行きまかせでやってきていたという問題もあった。古手の職人気質の機長が何人もいて、言うことを聞かない。特に版の準備時間が成り行き任せだった。もう知っている人は少なくなったが、活字は字画により、印圧が変わるのでムラ取りが必要である。特に罫線のある表組みものは大変で、それに写真版が入ると、何時になったら機械が動き始めるのか判らない。

そこで克明に組み付け、ムラ取り、解版など要素ごと作業時間の実績を取り、目安のテーブルを作り、これを職人連中に見せて、この仕事はこれくらいで出来るだろう。これはこの位と目標を作り、努力する約束を取り付けてスケジュールを安定させた。

一種の目標管理であり標準化である。これにより営業は納期が判り、また出校中のゲラの返却を何時までにしなければならないかが判って仕事がやりやすくなった。しかし、そこに到るには毎晩機長連中と酒屋で冷や酒の立ち呑みをし、気心が判ってくれるまでの半年近い時間が必要であった。その後は、活版部門は縮小の方向をたどり、当時、現れてきたフォーム印刷を導入し新分野に転換をはかったが、フォーム部門は凸版ムーアの設立とともに分離され、紙器部門は伊丹に新工場を建設した時に規模を縮小して大阪工場に移設し、廃止の方向をたどることになる。昭和37年のことである。

私は1年で活版が黒字になったので少し楽できると思っていたら、隣の紙器部門が昭和34年秋のサントリーの贈答箱の生産で納期の大クレームを起こしたので、紙器の担当をするよう橋口工場長から命ぜられた。

ここから私の20年にわたるパッケージの生活が始まった。