凸版印刷とともに60年(14/15)

鈴木和夫

印刷関連の国際会議で印刷の将来像を模索

世界の印刷界には、印刷業者が中心となって定期的に開催している国際会議が二つある。その一COMPRINT(Communication and Print)で、もう一つはWPC(World Printing Congress 世界印刷会議)という。

昭和四十六(一九七一)年のある日、わが社に一通の案内状が舞い込んだ。カラーテレビなどのニューメディアの出現に直面して、世界中の印刷業界は、将来に向けて大きな危機感を抱いていた頃である。そこで欧米諸国の印刷、報道関係者が一堂に会して、話し合う企画が持ち上がった。それが第一回のCOMPRINTで、ジュネーブで催された。講師として演壇に立ったわが社の仲間と私は、一聴衆として参加した。

会議では、印刷業の抱くニューメディアに対する危機感と、印刷業自身の将来像について活発なが行われた。

新しい電子メディアの出現は、技術の革新による情報社会の到来としてとらえ、むしろ情報関連マーケットが拡大され、工夫次第では印刷物が色々なメディア・ミックスの中で十分に共存し得る、という結論でめでたく閉会した。

そして四年に一回、会議を開催しようと決議されて今日に及んる。第一回の会議にアジア地区から出席したのは、日本からの参加者、すなわち聴衆の私と仲間の講師の、わが凸版印刷からのわずかに二名だけであった。

会議場は「カンヌの映画祭」が行われる会場で、入り口には赤い絨毯が敷かれていた

昭和六十二(一九八七)年ウィーンで開催された、第五回の会議では、私がキーノート・スピーカーを務めた。そこで「時代の変生かす経営と日本の対応」と題して講演した。日本の印刷界がデジタル技術をただの製造ツールとして取り入れるだけでなく、新しい電子メディアを従来の印刷物とメディア・ミックスすることにこそ将来があると考えて努力していると話し、「プリントロニクPRINTRONIX)」という造語を紹介した。

さらに、平成六(一九九四)年カンヌで開催された第七回会議では、共同議長を務め「感性産業としての印刷業」というテーマでを行った。日本から八十名という大デレゲーションが参加した。第一回の参加者二名とのあまりにも大きな格差に、われながら感無量であった。

デカルトの「精神と物質」の徹底した二元論と、機械論的自然観が底流に強く流れているヨーロッパ合理主義を信奉する人たちは、急激で広範囲なデジタル革命による社会構造の変化の中で、あるでの行き詰まりを感じていた矢先のことであったらしく、驚いたことに、私の講演が終わった時に、大勢の人が演台に上がってきて握手を求めた。その中の一人の紳士から、この秋にボストンでAGFAが国際会議を予定しており、ぜひ、今日の話の趣旨で講演をしてもらいたいと申し入れがあった。

そこでそのご依頼に応えて、私はアグファ・テクノエキスポ・ボストンで「技術の素人化と専門役割」と題して話した。

熟練職人の持つ固有で芸術性の高い、感性豊かなアナログ技術が、最後の決め手になるというこ中心に話をして、驚くほどの喝采を受けた。後ほど送られてきた報告書に「KANSEI│感性」と日本語そのままで記されていたのには、また驚いた。

アグファ・テクノエキスポ・ボストンの記録報告パンフレットの表紙

一方のWPCは、アジアの開発途上国から声が上がり、昭和五十三(一九七八)年にシンガポールで第一回の会議を開いた。こちらも四年ごとに集まることになっていた。

この会議は、当初技術問題に重点が置かれていたが、この頃範囲も広がり、討論内容もCOMPRINTとあまり違いがなくなってきた。平成元(一九)年に、第四回WPCがリオデジャネイロで開催されて、七百余名が集まった。私はその時、共同議長として「印刷業界の団体としての責任」と題して講演をした々の印刷企業では難しい技術の標準化、インキや機械の標準化が討議の中心となった。今日の地球規模のコミュニケーション、グローバル化、インターネット時代などをあたかも予想していたかのような、熱の込もった会議であった。この会議はその後、平成十七(二〇〇五一月の南アフリカ共和国での開催時からCOMPRTを統合し、現在に至っている。

日本の印刷界は、日本語という言語が世界に通用しという先入観から、国内に閉じ込もっている傾向があったが、多くの国際会議を経験することで、世界に目を開くようになったことは喜ばしい。

第四回WPXリオデジャネイロ大会。日本からは八十名という大勢の参加を得る事ができて、面目を施し開催国ブラジルから、大変に感謝された