凸版印刷とともに60年(4/15)

鈴木和夫

朝鮮戦争終結で商業用(ポスター、パンフレットなど)印刷物に営業課長として進出

ドッジ・ライン(アメリカの銀行家ドッジが日本経済再建について出した指示)の強行で、さし戦後のインフレが終焉に向かったことと、千円札の発行との相乗効果で、日銀券の発券枚数が激減した。その結果、紙幣の印刷が内閣印刷局だけで間に合うようになり、民間印刷会社への発注がなくなった。

凸版印刷は、売上高の三十八パーセントを占めていた紙幣印刷受注がなくなり、大きな打撃を被った。しかし、ちょうどその年の昭和二十五(一九五〇)年に、朝鮮戦争が勃発した。国連軍から、当時の金で六百億円以上の戦費が、実需である物資調達の対価として、日本の産業界に支払われた。不況に苦しんでいた日本経済は、急に活況を呈してきた。印刷物の需要も急上昇し、凸版印刷も間もなく、紙幣受注の売上高減少を補うことができた。

GHQからは、おびただしい数量の朝鮮半島の軍用地図の注文があり、窓口の私の仕事も忙しくなった。

朝鮮戦争が終結したのは、昭和二十八(一九五三)年七月。その時私はすでに、GHQの担当、 News Week 誌その他の、外国の民間関連の受け持ちになっていた。

当時の様子を思い出してみよう。アメリカから空輸されたNews Week 誌のネガフィルムが羽田に到着すると、日本支社の原稿運搬係から、板橋工場で待機している私の所に電話がかかってくる。毎週のことであるが、飛行機の到着時間が大変不安定であり、しかも必ず夜八時過ぎになるので、作業員には自宅で待機してもらっていた。当時は工員の自宅には電話などなかったので、羽田到着の知らせを受けとると直ちに、私を含めて二、三人が、自転車で各家庭を回って「原稿到着」を知らせるある。

原稿が工場に到着するや否や、工場は戦場のように忙しくなり、機械は唸り出し、人はあちこち走り回り、配送用トラックが走り回る。

冬は大変だった。暖房もままならない広い工場内で、フィルム到着を待つ時には、紙の断截屑の山の中で仮眠をとった。羽毛蒲団の原理と同じで、柔らかくて暖かい。……ともあれ、これが現在の週刊誌製造システムのはしりである。

朝鮮戦争終結の煽りを受け、やや経済が低迷したが、間もなく勢いを盛り返し、官民協力して復興に頑張った。「日本株式会社」と悪口を言われ、「エコノミック・アニマル」と悪評を被りながらも、とにかく日本国民、政・官・民総出で経済の復興に頑張ったのだ。今でこそ、その姿勢について鉄の三角同盟」といった批判があるにしても、当時、世界はまだそれほど厳しい眼で、日本を睨んではいなかった商業印刷」という名の印刷物が、われわれの前に出現したのは、ちょうど朝鮮戦争の終わった直後の、昭和二十八(一九五三)年から三十(一九五五)年前後のことである。カタログ、チラシ、パレット、ポスター、カレンダーといった企業の宣伝活動を中心とするものである。

それまでの凸版印刷は証券、出版、包装という三本柱で会社の大鉄傘を支えていた。そこへ山田の「商業印刷をやれ!」の鶴の一声で、当時板橋工場の営業内勤業務の副課長をしていた私に、白羽の矢が立った。間もなく、本社工場の営業課長として商業印刷を担当することとなった。昭和三十(一九五五)年の一月のことである。

商業印刷の滑り出しは素晴らしかった。当時の凸版印刷の技術力をフルに活用するような営業活えすれば、受注はどんどん拡大した。「今日は何かご注文はありませんか?」という御用聞きスタイルではなく、サンプルをかき集め、手造りの見本を持ち、相手の好みを調べ、持てるノウハウを引っ提げて面談に臨み、仕事の売り込みをするのである。

この時の思想が「受身型から提案型へ」という現在の企業姿勢の発端であり、その五、六年後に、グラフィック・デザインを中心とする川上型営業展開のための、トッパンアイディアセンターを、銀座三原橋という都心に設ける契機となった。