凸版印刷とともに60年(8/15)

鈴木和夫

昭凸版印刷社長就任

昭和五十六(一九八一)年前任の澤村社長の急逝に伴う、私の凸版印刷の社長就任に際して、マミの人たちに、「向こう六カ月間、インタビューや原稿依頼などの取材は一切ご勘弁を」とお願いした。

実は、その三年前に東京書籍の社長のままで、凸版印刷の副社長兼務の命を受けた時は、私の性格に向いている「補佐役」に徹しようと心に決めていた。まさか自分自身が社長になるなど夢にも考えていなかった。それだけに心の整理には、半年は必要であろうと思ったからである。マスコミの人たちはしっかりとそれを守ってくれた。今でもそれには感謝をしている。約束の半年が終了した日にマスコミの方々が取材に来たのは驚いたが丁寧に対応した。

三十五、六年間も印刷とその関連産業で働いてきたのに、正直言って「印刷産業とは何をするために、この世に存在しているのか」という問題を、それまで本気で考えたことがなかった。なんたることかと、お叱りを受けるのは当然かもしれない。

先輩の教えるままに、真面目に、一生懸命与えられた仕事を続けてきただけではないかという「反省」と、社長職として自らの仕事の本質を知らなくて務まるはずはないという「思い」から、この疑問がわいてきたのである。もちろん、東京書籍の社長を拝命した時も、「出版とは何ぞや」という自答を経験したが、このたびは規模と幅の点で当時とは桁が違っていた。

少し横道にそれるが、専務、副社長時代に、私が社長に言った言葉をその時思い出していた。「と他の重役とでは、雲泥の差がありますね。株主総会でも社長の一人舞台で、副社長、専務といっても並び大名に過ぎません。社長に直言してくれる人は少ないだろうし、孤独で大変でしょうね」と。無礼なことを申し上げたものだ。ところが自分が社長になった途端に、そのことを痛感したのである。

一般に社長の心がけとして言われていることは、人事は公平に、下位上達意見にスピーディーで果敢な対応を、公私混同の排除、発想の転換による確たる企業理念の確立を……と枚挙にいとまがない。しかし、自分の仕事の本質をわきまえないで「企業理念」など有り得ないと痛感したのである。

私はその時、齢六十であった。健康に留意して、三期六年くらいで、次に譲りたいものとひそかに決めた。社長として第一に手がけたのは、社内に出没している、私が「インヴィジブル・ゴースト」と呼んでいる「伝統固執」、「組織疲労と硬直化」の排除であった。そのために、得意先回りの合間を見ては、北は北海道から南は沖縄までの全国の事業所を隈なく訪れて、課長クラスの人を中心に膝を交えて懇談した。

企業の日常活動の成果は、課長クラスの双肩にかかっている。そのためには、課長クラスの考え硬直化をまず柔らげる必要があると思った。次いで工場に行って各部署を回り、働いている従業員の顔付きを見た。

その時に私は「印刷とは何ぞや」という話をした。課長たちは今更何事かといった表情をする。私はあらためて凸版印刷の事業内容は、「発信された情報を、文字や画像などの記号を使って、一版に固定』し、それと同じものを大量に複製する技術により、情報伝達のメディアを製造し、提供する事業」であり、事業理念としては「文化に根ざした情報・生活産業」であると説明をした。

ドイツのグーテンベルクが、五百五十年前に活版印刷術を発明するまでは、情報の伝達は口頭か筆写によるしかなく、不正確で伝達の範囲も狭く限定されていた。従って情報や知識、宗教や文化といったものが少数の選ばれた人たちの独占するところであった。

しかし印刷術の発明により、情報は堰を切った水のように大衆の中に流れ込んだ。そういう話をえながら「皆さんは、印刷という現代文化・文明を支える大きな仕事をしているのだから、自分の仕事に誇りと自信を持ちなさい」と説いて回った。課長たちの目の色が変わっていくのが私には肌で感じられた。