凸版印刷とともに60年(6/15)

鈴木和夫

戦後の海外事業戦略に携わる

アジア

凸版印刷の海外事業の始まりは、昭和十四(一九三九)年、当時の満州国の新京に新大陸印刷を創立したことにさかのぼる。一方、南方では、オランダ領インドネシア政府の直轄であったジャカルタのコルフ工場の経営を、昭和十八(一九四三)年に日本軍から委嘱された。六十数名が日本から派れ、紙幣などの高級印刷に携わっていたが、それらのいずれも敗戦と共に消滅してしまった。

昭和三十五(一九六〇)年に初代の外国部長に任命された私は、海外戦略については、マニュアしのゼロからの出発であった。そんな状況の中で、わが社の海外事業開始の引き金になったのは、インドネシアのコーランの受注と、アジア十七カ国の新聞社の日曜版付録であるアジア・マガジン刊に協力したことであった。

初の海外出張の際、羽田に見送りに来てくれた家族。義父の三池法性も加わって

昭和三十七(一九六二)年に、現地を知るために仕事の打ち合わせを兼ねて、私は初の海外の旅った。香港、マニラ、シンガポール、ジャカルタ、クアラルンプールの各都市を訪問した。戦時中、海軍の練習機で千五百メートルくらい空を数回飛んだ経験しかなかった私にとって、六千〜七千メートル上空から見た地上庭のように美しく映った。

南のどの国も、輝く太陽、青い空、碧い温かく私を迎えてくれているようであった。経済的にはこれからの国々ではあるが、人々は明るく、そして指導的立場にある人の多くは、欧米で教育を受けていて国際感覚を備えていた。私は初めての東南アジア諸国の旅ですっかり南の国の虜になった。さらに東南アジア地域の経済発展に伴う市場の拡大に期待を寄せると共に、わが国からの技術移転を通して、その地域の人たちと「仲良し」になることの必要性を痛感したこで山田三郎太社長に進言して、香港に現地の大手新聞者のオーナーである胡仙女史との折半合弁の印刷工場を造ることになった。胡女史とはアジア・マガジンを通して親しくなった。昭和三十八(一九六三)年のことである。その後、凸版印刷の全額出資となり、香港島から新界の地区に移った。

今日では地元の香港はもちろん、豪州、欧米の出版市場に販路を持つ、世界的技術レベルの印刷に育ち、数百名の従業員が誇りを抱いて働いている。さらに、分工場の建設の必要に迫られ、平成五(一九九三)年に中国本土の深圳に新会社を設立、現在千名を超える人たちが元気良く働いている。

昭和四十二(一九六七)年の春、私は外国部長のまま取締役に選任された。その年の秋に山田社病没され、澤村嘉一社長になったが、海外戦略は前社長の遺志を踏襲して積極的に進めることとなった。そこで現地法人の印刷会社を、シンガポールで昭和四十三(一九六八)年から、ジャカルタでは昭和四十八(一九七三)年から稼働させて、それぞれ多数の技術研修員を受け入れた。また現地技術移転もスムーズに行われ、それぞれの地域の経済発展にいささか寄与していると自負している。

ジャカルタは、戦時中、多くの先輩が現地の人たちと仲良く仕事をした土地だ。懐かしい思い出を抱いている人が、凸版印刷にも現地ジャカルタにもたくさんいることを知っていた。また、コーランの仕事やスカルノ大統領の仕事を通して新しい友人もできたので、私はどうしてもジャカルタに、工場を造りたかった。

インドネシアの明るく人懐っこい人たちと、一億五千万人という人口。そして広大な土地と豊か然は、素晴らしい経済発展の可能性を秘めていると思った。

当時のジャカルタの印刷業界では、パッケージのための特殊印刷は、量的にも不足し、技術水準かった。そこでまず軟包装の製造を手がけることとした。外資は七十パーセント以下という規制が当時あり、現地の投資家探しから始まった。

政府の許可を取って工場建設にたどり着くのに一年以上の歳月を要した。

ニューヨークの思い出

昭和三十五(一九六〇)年に外国部長に任命された時から、香港凸版を始めとするアジア政策を進める一方で、私の頭の中には常に、アメリカの膨大なマーケットが映っていた。幾つかのアメリカの出版社とビジネスレターでのアプローチから、見積もりの提出、校正刷りによるサンプル提出、そして年に二、三回の出張訪問などを一人でコツコツと重ねていた。その間に、出版社の幹部に人脈もでき、出版社のクリスマス商戦に欠かせない、美術本や写真本の受注に成功した。

当社の技術は世界一流のレベルであったが、値段はCIF(運賃・保険料込み渡しCost, Insurance and Freight)でも三割は安かったようだ。問題は「時間」、すなわち納期であったこで、ある程度納期に余裕と幅のある美術本や写真集に狙いをつけたのが成功であった。それでも時間は非常に大切な要素で、一日でも縮めることが受注の成否を左右するものであった。

私は、アメリカの有力な出版社が数多くあるニューヨークに、営業所を開設することを決心した。山田社長の了承も得て、マンハッタン四十二番街のビルの一室に、アメリカにおける戦後初の事業活動の足場をつくった。昭和三十九(一九六四)年六月のことで、香港凸版設立より一年後のことである。

事務所開設準備のために、初代の所長予定者を伴って、約一カ月ニューヨークに滞在した。

この機会を利用して、自動車の運転免許を取得しようと思い立った。申し込み後二週間で、マニルを読み学科試験を受けた。幸い合格してその日から仮免許となった。隣に免許を持った指導員との同乗であれば、道路上を運転して構わないという。さすが車社会の国だと思った。

それから毎朝毎夕、マンハッタンを教習用の車で走って、帰国の前日にテストを受けた。実地試験の滑り出しは上々であった。途中で狭い路に入ってブレーキ・ターンをして折り返した。右側に車が一台止まっていた。その車を左に避け、そのまま真っ直ぐに走ってしまった。マンハッタンで「左側通行」をしてしまったわけである。

後日「重大過失」というコメントつきの不合格通知が送られてきた。以来、運転免許には挑戦していない。

営業所の開設準備は順調に進んだ。現地スタッフを一人雇い、電話機、見本棚、デスクなどそろえると、小さいながらオフィスらしくなった。

考えていた通り、得意先からは大変喜ばれた。今までの隔靴掻痒の感のある連絡に較べれば、電本ですぐに顔を合わせることができる。受注は急増した。製造工場は日本にあるのだから、納期が大幅に短縮するわけではないが、「呼べば応える」距離にいることの強さを実感した。

ここで今でも私の心の底にある、印象的な話題を一つ。営業所ができて間もない頃の話である。私はニューヨークに出張するたびに、大出版社の社長のアポイントを取っては、所長を連れて訪問していた。

ある時世界的に有名な出版社を訪れ、写真集のご注文をいただいた。その上その出版社の社長と人的にも親しいお付き合いをいただいた。ある日「週末にクインズにある私の家に、水泳パンツを持って遊びに来なさい。昼食をご馳走する」と誘われた。せっかくの話であり、その言葉に甘えてと二人で訪問した。

「食事の前にプールで泳ごう」と、奥様を交えて家庭プールで泳ぐという、日本では考えられないを受けた。

翌年再びニューヨークに出張した折、お礼を兼ねて同社を訪ねてみた。受付で社長名を言ったら、「彼はいない素っ気ない返事。いつならお会いできるかと聞いたら、「地中海のモナコに行ってもう戻らない」と言う。

天地が引っ繰り返るほど驚いたが、ストック・オプシなどという言葉を、まったく知らなかった私は、何かさを感じた。以来、その社長とは文通もしていない。

その思い出深い写真集とは『MEXICO A HISTORY IN ART 』で、アメリカの大出版社というのは「Harper & Row 」社である。

アメリカの出版社からの上製本注文のはしり

話は前後するが、来日した外国人と国内でやった様々刷・造本の仕事に触れてみる。

ある時山田社長から外国部長をしていた私に、「文藝春秋の池島社長から、印刷に詳しく英語のできる者を寄こしてもらいたいとの電話があったので、すぐに訪問するように」との命令があった。

早速、池島社長を訪ねた。そこで私は驚いた。そこにいた外国からの来客は、かの有名な映画「王様と私」のユル・ブリンナーにそっくりのボールド・ヘッド(禿頭)であった。そして池島社長も同じ、さらに山田社長も同じという三人のボールド・ヘッドの有名人に私は囲まれることになった。

外国からのお客様というのはブラッドレー・スミスといい、カメラマン兼編集者で、出版社ジェミナイの社長までを一人でこなす精力的人物であった。そこでの話し合いに従って、全智全霊を傾け成したのが、『美と日本人の歴史』である。

この本は、凸版印刷の感性豊かな多くの人たちの努力で、素晴しい書物となり、関係者はもちろ勢の方々から称賛を浴びた。題字に関しては、無報酬で書家の父、鈴木梅渓に書いてもらった。

それがきっかけとなって盟友となったブラッドレー・スミス氏からは、アメリカで出版する多く物の製版や印刷を、凸版印刷に振り向けてもらった。

他にも、美術本専門出版社社長ハリー・エーブラムス氏の知遇を得て、たくさんの美術本のご注文をいただいた。これらの豪華本の多くは、アメリカ社会では、クリスマスのプレゼントとして贈られる。

このような事情を経て、ニューヨーク事務所の開設、現地法人の営業会社設立、現地工場の建設確実に歩んでいった。

ジェミナイ社出版『美と日本人の歴史』。父鈴木薫(号梅渓)が題字と中扉を書いてくれた

シンガポール

アメリカで活動の場を求め、どうすれば市場を広げていけるのかと知恵を絞っていた頃の昭和四(一九六六)年に、シドニーの出版社から、絵本製造の引き合いが本社の外国部に届いた。ニューヨークでのわが社の活動を伝え知った、オーストラリアの有名出版社からであった。

見積書を提出したところ、早速絵本シリーズ四タイトルの大量注文があった。オーストラリアからの初めての仕事ということで、皆小躍りして喜んだ。

しかし、あらためてその見積書を詳細に点検したら、用紙代が半分しか見積もられていない。責任者の私は、どうしようかと一晩考えた。熟慮の結果、「私の過ち」として、相手出版社の社長に手紙を書くことにした。その内容は、間違いを率直に説明してお詫びをするとともに、今回のご注文はその値段で頂戴するが、次回からは、ぜひ訂正した値段でご注文をいただきたいというお願いであった。しかしその絵本の注文に対しては、用紙代は半額であったが手を抜かず、誠意を込めて製造し期通りに納入した。

早速相手出版社の社長から、製品と納期に満足した旨手紙が送られてきた。その上、値段は今回めて、これからの注文も訂正された見積もりの値段でよいと書いてあった。部員全員そろって万歳を唱えた。そして、何よりも「誠意」が通じたことがこの上もなくうれしかった。

その後、その絵本の仕事は継続し、年間に百万冊を見込む、期待以上の大量注文となった。そうなると今度は納期が気になりだし、その上訂正された値段であっても、必ずしもコストの点で満足するものではなかったので、特別に現地により近いところに専門製造部門を創るなどの何か工夫をする必要を感じた。当時のオーストラリアは、人口は二千万人程度であったが、子供に与える絵本は、一年に四、五冊と、絵本王国であることが分かった。

その頃シンガポールでは、旧宗主国であるイギリスの出版社からの注文も、ぼつぼつ増えてきていた。さらに当時の政府が軽工業の工進出を歓迎し、優遇措置を採っていたので、シンガポールに思い切って工場を造ることを決断した。現地の開発局の応援も得ることがて、昭和四十三(一九六八)年にジュロン工場地帯に新会社を設立、工場を完成することができた。次いで昭和四十五(一九七〇)は、シドニーに営業所を設けることとなった。これでオーストラリアの仕事を、東京まで持ってくる必要がなくなったのである積もりの間違いから端を発し、工場建設やら営業事務所の開設うことになった不思議といえば不思議なストーリーである。

完成したシンガポール工場

その後、シンガポール工場の得意先は、オーストラリアはもちろんのこと、ロンドンの大出版社めヨーロッパ各地に広がり、アメリカの市場にも名前が売れるようになった。しかし二十世紀も終わりになると、主にオーストラリアや東ヨーロッパなどの印刷会社が、技術的にも、価格的にも競争力を持つようになった。そのことが原因で、シンガポール工場といえども「距離」すなわち「スピ」のハンディが、再び大きくクローズアップされてきたのである。

ちょうどそれに拍車をかけるようなことが起こった。われわれの工場のあるジュロン地区が大再を行うために、シンガポール政府の要請で、立ち退きを求められたのである。時代の大きな変化を考慮すると、この際、デジタル情報事業への転換をすべしとの判断から、昭和四十三(一九六八)年から長年現地のスタッフと仲良く働いてきた印刷工場を、平成十一(一九九九)年三月に閉鎖した。

閉鎖後の、もぬけの殻になったジュロン工場を見た時、生みの親であり育ての親であった私としては、一抹の寂しさを感じなかったと言えば嘘である。

その時に思ったことは、三十年の長きにわたるシンガポール工場の貴重な歴史を、次世代の発展のために、どのように生かしていくのかを、真剣に考えねばならないということであった。