幕末維新に生まれた金属活字(3/8)

河野通

二  初期金属製漢字活字開発者の群像

先人各氏の研究からこの時期の漢字活字の開発者は凡そ次の各氏があげられる。完成時期の早い方から述べると、大鳥圭介、木村嘉平、本木昌造、島霞谷(しま かこく)であろう。簡単にこの四氏の経歴と活字の特徴を述べる。
大鳥圭介は一八三二年(天保三年)播州赤穂郡の医師の家に生まれ、岡山の閑谷校、大阪、緒方洪庵の適塾に学び、後江戸に出た。江川塾から塾頭に招かれ、安政四年(一八五七年)軍事教練から火薬銃砲の製造法まで教え、教科書として『砲軍操法』、『歩兵制律』、『築城典刑』などを翻訳、出版した。

「このときに多くの人に読ませるには一々写本では不便である、去りとて木版にすると言うことは中々容易の事でない、其処で大鳥男が非常の苦心で、活字を拵えて印刷に附したのです」と当時江川塾主の江川太郎左衛門の子息江川英武氏が、山崎有信著『大鳥圭介伝』の中で述べている。13

またこの事実を大鳥圭介自身が語ったことが同書に出ている。「西洋の活字の法がある、どうする、それは亜鉛と錫とを入れて鋳物にして、それを植えてやるのだ、(中略)それから飾屋へ往って職人を雇ってやった」14云々と述べている。こうして活字を使って印刷された『築城典刑』が一八六〇年(万延元年)縄武館から出版された。

その後大鳥圭介が軍事奉行になると、幕府の陸軍士官養成所である陸軍所からも活字による出版が幕府崩壊まで行われた。大鳥活字は、銅に文字を直接彫刻して母型とし銃の弾丸鋳造機を用いて活字を作ったようである。書体は三号大の楷書体の漢字と仮名である。その後の大鳥活字の行方は詳らかでない。

次に木村嘉平は、鹿児島尚古集成館15の田村省三氏によれば、一八二三年(文政六年)江戸神田小柳町に生まれ、十八才の時、三代目木村嘉平を継いだ。薩摩藩島津家の出入の印版師として、薩摩府学蔵版の出版印刻にあたっていた。

彼は島津斉彬により、一八五三年(安政五年)リンドレー・マレーの英文典の翻訳本を出版するため、和欧文活字の作成を命ぜられた。最初は、種字を母型材に打ち込むパンチ方式で母型を作ることを試みたがうまく行かず、オランダ人から種字から蠟によって凹型を取り、その表面を黒鉛で覆い、それに電胎(メッキ)するという電鋳(電胎)方式で母型を作ることを学び、自家に秘密の部屋まで設けて開発に没頭した。途中、斉彬の死に遭遇し、後ろ楯を失ったにもかかわらず研究を続け、一八六四年(元治元年)活字を完成させた。16 蝋石製の父型と電鋳(電胎)母型と、二号と三号の中間の大きさの楷書漢字二一七八本(半製品を含む)が現存している。

木村喜平の活字・印刷器一式 (尚古集成館蔵)

木村嘉平活字印影(田村省三『木村嘉平の活字及び諸道具一式』より)