幕末維新に生まれた金属活字(2/8)
河野通
一 時代背景
十九世紀に入りオランダ、スペインの勢力が衰え、イギリス、フランス、ロシヤ、アメリカなどの新興の欧米列強がこぞって中国やアジアへの進出を強めた。
特にアヘン戦争後の南京条約(一八四二年)により中国への足がかりを得てからは、日本近海に諸外国の船が来航し開港をせまるにいたった。一八四五年には長崎に英船、浦賀に米船、そして一八五三年には下田に米船、長崎に露船が来航した。
このため幕府は国防上の理由から欧米の進んだ軍事、航海術など新しい技術知識の早急な導入とその教育に迫られた。
またこれら外国船との接触により、国内にコレラなどの伝染病が流行した。そのため西洋医学の研究熱の増大は緒方洪庵1の適塾など蘭学の隆盛を招き、多くの人材を輩出し、書物の需要も増やした。
しかし幕府は洋籍の輸入を厳しく制限していたので、たとえ手に入っても著しく高価であった。そのため学生は、原書を書写して勉強するしかなかった。明治に入って軍医制度を確立し、日本赤十字社社長などもつとめた石黒
また日本の鋳造活字・活字印刷の始祖と言われる本木昌造6が活字を作るにいたった動機として、印刷研究家・島屋政一は、木版本に比し活字本は舶来の洋書のように紙の表裏に印刷して近代活字をもちいれば、印刷用紙も十分の一ほどで足りそうだった7、としている。さらに印刷研究家の三谷幸吉8によれば、平野富二が埼玉県令野村宗七に「布告官令の類を活版にて印刷せば、大いに冗員紙筆の費を減じて、迅速、確實、減費の三得あることを辯じ、其の使用方を出願せしかば、金額二百圓許りの買上げありたり」9としたとある。
大鳥圭介は、山崎有信著『補遺大鳥圭介自伝大鳥圭介氏直話』の中で、木版に彫り付けて置くと、「それ一つしか用を為さぬ、活字にして置くと新規の本を拵へるに便利だ」と言っている。
また石黒
また三越の前身の越後屋が天保十一年に出した引札の費用を見れば、木版一面彫るのに半紙版一枚で銀十五〜二十匁に対し、刷り賃は半紙千枚で銀二匁〜三匁とされていた。12 従って部数の少ない印刷は整版方式では費用がかかった。
このように幕末にいたって各方面で、金属活字による欧米式の印刷が試みられるようになった。