幕末維新に生まれた金属活字(4/8)

河野通

しかしこの活字で出版されたものは発見されてはいない。活字の一部と鋳造器具及び経過を記録した文書が、鹿児島尚古集成館に保存されている。なお、この活字に使用した材料は鉛製と言われているが、科学的調査が待たれる。

次に本木昌造であるが、彼の経歴業績については、印刷博物館開館三周年記念企画『活字文明開化 — 本木昌造が築いた近代』17の主題として詳細に報告されているので割愛するが、只一点、彼の活字を作る目的が、和文活字により欧米の知識を出版し、わが国に普及、教育することと、活字とその印刷物の受託販売により失業した士族の殖産を計る、という起業家としての視点を持っていたことを強調しておきたい。18 彼の活字はW・ガンブルから最初の父型と電鋳法の技術を得た。このことは本と活字の歴史辞典に小宮山博史氏が「明朝体、日本への伝播と改刻」として詳細に検証している。参照されたい。

本木は上海美華書館が使用していた明朝体の活字をそのまま蠟型の種字とし、電胎法で母型を作り活字を鋳造した。このことは本木の書いた技術書からの引用が『大阪印刷界本木号』(一九一二年)に「蠟型を取る文字の製法」として掲載されている。その後、本木の事業を受け継いだ平野富二は、優れた彫刻師を集め書体の改刻に努めた。柘植製父型が長崎諏訪神社に現存する。

本木種字(長崎諏訪神社)

本木は一八七二年(明治五年)二月に崎陽新塾製造活字目録に初号から一、二、三、四、五号までの明朝体漢字と仮名、欧文活字、三号の楷書体と七号の振仮名の七サイズを揃えて発表し、発売している。これは一八六九年(明治二年)秋にガンブルに教えを受けてから僅か二年あまり、驚くべきスピードと言わざるをえない。活字の号数制は、彼により創出された。19

崎陽新塾製造活字目録
「新聞雑誌」第66号付録明治5年10月

これも三谷が述べる通り、平野富二の卓越した経営力によるものと言えるだろうが、その中にあって本木が長崎製鉄所頭取としての公的立場で、当時長崎に来ていた宣教師フルベッキにW・ガンブルによる活字鋳造技術の指導を要請し、その技術移転を成功させたということを忘れてはならない。

最後に島霞谷(しまかこく)にふれたい。

島霞谷(しまかこく)は一八二七年(文政十年)下野国栃木町に生まれた。幼少の頃より画才に優れ、一八六七年(慶応三年)幕府の教育機関である開成所の絵図調査役に任ぜられた。一八六九年(明治二年)東京大学医学部の前身、大学東校の中写字生、地図御用掛に任命され20、大学東校では教官の島村鼎甫(ていほ)21小博士22、石黒忠悳(ただのり)少助教の下で働いた。この頃、宮内省へ西洋画法の絵を献上している。

島霞谷(1827〜1870)