幕末維新に生まれた金属活字(5/8)
河野通
写字生は大学の教授の手助けをして教材等を準備する役目で、現在でも東大や京大等に技官として残っている。一八七〇年(明治三年)五月には活版を発明した功績によると推測されるが、大写字生に任命された。23 十月には最初の印刷物、石黒忠悳(ただのり)編訳『化学訓蒙』を完成させたが、十一月一日急死した。
島家に残された資料や石黒の記事などから、島の活字製作は一八七〇年(明治三年)四月から十月の僅か半年であったことが窺える。石黒は『況翁叢話』の中で「況んや一週間の内に公報を渡すのは活版でなければならぬ」24と述べている。また『懐旧九十年』の中では「講義案を印刷して学生に頒ったりするだけでも、随分忙しいのでしたが」25 云々と記している。
島はツゲの角材に文字を彫って父型とし、これをネコヤナギの横に切った切断面、木口に打ち込んで母型とした。これを鋳型に取り付け、鉛七〇%アンチモニー三〇%の合金で活字を鋳込んだ。最後にバリなどを補刻修正して仕上げた。
これらの詳細については、山鹿英介・新井昭男著「島家所蔵資料について」(『群馬県立歴史博物館調査報告書打五号』一九八九年)や凸版印刷総合研究所 百瀬宏・村上孝・川俣正一著「近代初期の和文活字鋳造」(日本印刷学会誌第二十九巻三号・四号 一九九二年)を参照されたい。
島活字