技に夢を求めて(13/13)PDF

和田龍児

再びオープン化の重要性を祈える

例外なしの大競争時代

長い間、低迷を続けた工作機械業界も 97年、ようやく6年ぶりに受注額が1兆円を超えて、世間水準から言えば好況業種の仲間に入りそうだ。産業全体で言えば、全般的には一段と厳しい経営環境に置かれているが、業界の状況は好・不況のまだら模様となっている。

例えば、自動車産業に関連して言うと、21世紀に向けて炭酸ガス排出規制などの地球温暖化防止や石油資源等の地球資源保護の観点から、さらなる省エネの要請と相まって、新たなパワープラント開発の世界的な競争が始まっている。

もちろん、その視野には高性能燃料電池搭載の純電気自動車や、有害な廃棄ガス成分の少ない革新的な人工合成燃料を想定した次世代新パワー・トレイン等も含まれてこよう。そのような背景から、工作機械や FA業界の関心の的は、今後数年にわたり予想される世界の自動車会社が抱えるであろう膨大な生産設備の廃棄・改造・新設、つまり製造設備のスクラップ・ビルドの恩恵に少しでもあずかりたいことにあることは間違いない。

取らぬ狸の皮算用ではないが、このことが一部の関連業界活況の下支えになっていることは否定できない。むしろ自動車各社の高水準の設備投資が、いつまで継続するかが心配のタネとなっている。

しかし、ここで考えねばならぬことは、世はグローバルな大競争時代を迎えているという厳然たる事実である。このことは何も自動車やパソコンの世界だけで繰り広げられていることではない。工作機械・FA業界もしかりである。例外は一切なしである。

今後予想される企業間競争は、洋の東西を問わず世界共通の原理・原則や共通の規則・標準によってのみ成立することは明らかである。

筆者は繰り返し「オープン化」の必要性を提唱してきた。口幅ったい言いぐさで恐縮だが、前述の事情に関連させて、再度なぜ工作機械・FA業界に「オープン化」推進が重要なのかを、FMSを例にとって述べてみたい。

新時代のオープン化 FMS

FMS(Flexible Manufacturing System)--なんと懐かしい響きであろうか。 FMSの勃興期から成熟期、そして世界的なオープン化の潮流に戸惑う?最近の停滞期まで、ずっと共にしてきた筆者にとって「懐かしのメロディー」に相通じる言葉なのである。

1980年代までの FMSは、高度経済成長期であったことも幸いして、多品種少量生産のホープとして世に颯爽と登場した。景気のよかったせいもあり、変種変量生産(実はこの言葉は筆者の創成で、ある研究会でご披露したのが最初だったと記憶している)だの、無人工場だのと、将来の夢が声高に語られていた時期であった。バラ色の未来論全盛の時代であった。21世紀はまさに日本の時代であるかのような、希望が満ちあふれていた時代だった。

FMSを導入した生産現場では、使いこなすのに懸命で、ハード、ソフトを問わず、そのカストマイズ化に日夜懸命な努力を集中していたと思う。現場向けの使い勝手のよいシステムに仕上げるべく、生産技術者の必死の努力が続いた時代である。

筆者はよく FMSをじゃじゃ馬娘に例え、手なずけてマナーを教え込むのは大変だなぁーと慨嘆したものである。当時は百パーセント、顧客の要望に応えたカストマイズ化されたシステムこそが CS(Customer Satisfaction)ナンバー・ワンの商品であるとの思いが強かったからである。このこと自体は現在でも不変の大原則ではあるが、情報機器やネットワーク、運用ソフトウェア、使用環境や使い勝手を含めて、すべての構成要素を百パーセント、専用機器で賄おうという発想は、現在では通用しないだろう。

さて、このじゃじゃ馬娘は巧く飼い馴らすと、なかなか素晴らしい能力を発揮するが、逆にご機嫌を損じると、とんでもない大飯喰いの金喰い蟲になり下がる代物であった。

たしかに、使用者側からすればシステムのカストマイズ化の要求は当然のことであるが、その一方では製造者、使用者ともに手間がかかり、制限の多い割りには経済的メリットの少ないパッケージソフト等の利用や、各種デファクト・スタンダードの採用には無関心とならざるを得ない事情もあった。グローバル・スタンダードを先取りしたオープン化戦略が採りにくい環境にあったことは否定できない。

しかし、長期的視点から見れば、世界的な大競争時代を迎えて、このような思考は大きな蹉跌となりつつあることも事実である。製造業分野では世界市場をにらんだ製造拠点の分散化にともなう一層のトランス・プラット化が進行するであろうし、製品自体が WWP(Word Wide Product)を目指すとすれば、企業は世界市場を視野に入れた競争戦略を考えねばならない。

当然だが、世界的なオープン化の潮流にも無関心ではいられぬはずである。極言すれば、それは企業の衰退と自然死すらを意味することにもなり兼ねないからである。逆に言えば、これはとてつもなく大きな大きなビジネスチャンスでもあるのだ。

こんな自明なことであるが、その意識や認識が工作機械・FA業界で高まっているとは、とうてい言いがたい現状のように思えるのである。筆者の杞憂にすぎないのであれば、まことに幸いである。

ところで、近ごろトランスファー・マシンや FMSはもはや時代遅れの設備で、古代の恐竜のような存在となってしまった。もはや無用の長物であるとの意見も聞く。たしかに一面の心理ではあるが、はたして本当であろうか。工業化社会から情報化社会へ大きな変換期に、大量生産・大量販売・大量廃棄の弊害は社会のあちこちで聞かされているが、大量生産が要請される分野が地球上から全く消滅してしまったというわけではない。

社会が必要とする以 11の過度の量産は害悪かもしれぬが、人間が文明生活を営む上で必要量を確保すべき道具もある一例えば、輸送手段としての自動車・航空機・鉄道車両、また、家庭生活を潤わせるいくつかの機器・装置には、一定の量産能力は要求されるのである。

世界市場を視野に入れれば、この面の重要性を無視することはできない。その有力な手段としても、考えねばならぬのが世界市場で通用する新時代のオープン化 FMSなのであると思う。

技術にも春夏秋冬がある

本書の執筆を勧められたニュースダイジェスト社論説委員の小林茂さんや編集長の服部徳衛さんには大変に勝手を申し上げ、ご迷惑をかけたりしたが、テーマを限定せずに自由気ままに書かせていただき、感謝この上なしである。また、主旨の一貫しない雑文に付き合っていただいた皆様方には、心からお詫び申し上げる次第である。

どの世界も同じようなもので、傍からみれば大学の教員など勝手気ままで、至極自由のように見えるが、現実は考えていたほどには楽でないし、現在の大学の置かれた環境は、少子化現象の顕在化にともない、想像以上に厳しいものを内包していると言えそうである。

企業に在籍していた時分にも、それはそれなりに苦しい場面や厳しい困難な場面にしばしば遭遇したが、その都度、独断と偏見に満ちた我流の判断でみんなを引っ張ってきた。幸いにも理解ある上司や同僚、部下に恵まれて何とか技術水準を維持しつつ、次なる新しい課題に次々と挑戦し続けることができた。

それが個人や集団の実績となり、さらには大いなる自信につながり、次の仕事に向かう大きなドライビング・ホースとなり、みんなの意欲やモラルの再生産につながった面は大きかったのではなかろうか。

勇み足も多々あったけれども、その都度それを許容された度量の大きな上司や先輩の存在はいまでも忘れえぬ存在である。その行動規範は、後の部下の育成、指導にも随分と参考になった。子供は父親の背中を見て育つと言うが、まことにありかたい示唆であり、経験であったと思う。

また、企業を超えて各界の第一線で活躍された先輩技術者諸氏との交流と、その後のご支援も懐かしく想い出される。現役で活躍中の方々には、そんな老人の懐旧談に付き合う暇はないのかもしれぬが、人にはたしかにそれぞれの春夏秋冬があるように思える。脂の乗り切った時期の仕事のやり甲斐や充実感は人生最高の至福の時間である。

春は春なりに、秋は秋なりにそれぞれ味わい深いものがあるし、人それぞれの生きた時代で、お互いに共通体験を持つということは、人生をいっそう豊かな潤いのあるものにしてくれるようである。懐かしのメロディーではないが、技術者が共通に聞いたそれぞれの時代のメロディーを人切な思い出にしたいものだ。

企業を取り巻く環境変化は、われわれの予測をはるかに上回るスピードで変化している。画期的な新技術や新製品の出現が新しい巾場ニーズを創出し、社会・経済環境の変化が人々の価値観に変化を与える、その変化がさらに新しい市場環境を創成し、新技術の萌芽を促す............こうした幸せな経済発展の循環は、もはや簡単には成り立だない時代に入りつつあるようだ。

そうした環境にあってさえ、技術の重要性の認識は大切なのだと思う。技術の本質を追求する態度はいつの時代でも必要なことであり、技術者に課せられた社会的使命だと思う。そして、人々だけでなく、技術にすら春夏秋冬はあるように思えるのだ。

「冬来たりなば、春遠からし」である。いたずらに現状を悲観することはない。春は夏となり、実りの秋を迎えてやがて冬に至る。そして――また次の春がめぐってくるのである。