技に夢を求めて(10/13)PDF

和田龍児

時代の流れはオープン化

パラダイム変換のジレンマ

第2次匪界対戦後の疲弊した日本の復興に大きく貢献し、日本の製造業に大きな自信と希望を与えたものは「モノづくり」を通じて追求した生産技術の開発と、品質管理を基盤としたロ本的生産システムの成功にあった。

いま振り返って考えてみると、ひたすら人々の求める物的な豊かさと勤労意欲を満たし、車や電化製品に囲まれた豊かな文化生活?を実現するべく、夢見るような経済繁栄の、幸福な時代が長く続いた。

実は、この仕掛けがうまく作動するためには、暗黙の前提として、われわれは知らず知らずのうちにいくつかの誤謬を犯していたようだ。

その主なものを挙げると、例えば次のような事柄が指摘できよう。 1高度経済成長は永遠に続くという思い込み――右肩上がりの経済観 2白山競争原理と市場原理への揺るぎない信頼――無限市場の幻想 3エネルギー資源や産業資源の人手が自由という保証――自由な資源獲得の確信 4無限の広さを持つ地球観――地球環境破壊への配慮不足 5極端な利便性追求の商品開発――資源多消費型製品の氾濫 5売り上げ、マーケットシェア至上の経済原理――企業エゴと国際的孤立の危険性生産技術面でいえば、生産技術そのものの進歩が大量生産を可能とし、社会の物的再生産の仕組みを完成させた。しかし、大量生産、大量消費、大量廃棄の物的資源サイクルを無限に回し続ける従来の生産構造には、限界があることは明らかである。

このことをいち早く世間にアピールしたのは、ローマクラブの『成長の限界』(D.メドゥズ:天来佐武郎監訳・ダイヤモンド社、1982年)である。システム・ダイナミックス手法のシミュレーションで示した、世界経済の成長の限界説は大いに説得力があった。

経済学者の正村公宏氏は、20世紀産業の特徴は「マス」であるとし、この「マス」は「大量化」と「大衆化」という二重の過程を表現しているとし、著書『産業主義を越えて』(講談社学術文庫、1993年)で、次のように指摘している。

「20世紀の産業は、技術と産業への科学のいっそう直接的で目的意識的な応用、いっそう組織化された製品開発と市場開発、宣伝・広告による大衆的な規模の需要の刺激と操作、徹底的な大量生産、そのための部品加工の徹底的な標準化、設備・装置の巨大化などによって特徴づけられている」「電機・自動車に代表される新しいタイプの消費財の開発と大量生産は、労働の細分化と単調化といった社会的な代償と引き換えに、大衆の雇用機会の増加と所得の上昇、消費の拡大と自由時間の増大をもたらした。また、大衆輸送と大量伝達の発展は、大衆の行動空間と情報空間を飛躍的に拡大した。これらは、20世紀の社会的・政治的・文化的生活の基盤となり、大衆民主主義の不可欠の前提となった」――。経済学者らしい鋭い指摘である。

たしかに、永遠の経済成長をつづけることは、有限の地球資源の下では不可能である。それはだれの目にも明らかだろう。人々は、従来の単純な量産を目的とした産業の経済成長は、もはや限界に来ているとひそかに考えはじめている。

近代技術がもたらした人間性の疎外や資源枯渇、自然環境の破壊などの、現代の“邪悪なるもの(”吉川弘之:『テクノグローブ』工業調査会、1995年)の源流として発現するのは、量産を使命に、高度に発達してきた量産指向の生産技術がもたらした陰の部分に存在する。まことに皮肉なことだが、そう認めざるを得ない。

オープン化の本当の意味

世界的に関心の高い地球環境保全の観点に立てば、たしかに企業にとっても、量産を目指したプロセス・イノペーションのさらなる発展には限界がある。また、極端な量産に立脚した企業の永続的な収益の確保は、期待することさえ段々と難しくなってきた。

しかし、製造業にとって、量産システム構築のニーズをすべて喪失してしまったというのは、あまりにも皮相的で短絡的な思考と言わざるを得ない。現代社会はその豊かさを、物的欲求を充足する形で実現してきた。その歴史的事実を否定することはできないからである。

そうであるなら、持続の可能性がある製造業(sustainable manufacturing)への変革は可能なのだろうか。この場合の重要な論点は、経済成長の非物質化傾向という経験的法則にあると思う。経済成長の過程でも、物質的な資源の消費量は、ある点までは増大するが、ある閥値を超すと GNP単位当たりの物質的インプットは、相対的に低下してくるという経験的な事実があるとされている。

このような経済成長の非物質化を支えるのは、知識・情報の蓄積である。極言すれば、広義のソフトウェアを中心に構成される情報が社会の行動原理を支配する状況、つまり俗な言葉でいえば情報社会が到来しようとしているということだ。

そして、この情報社会では、広義のソフトウェアを万人が、より有効に利用できる環境の整備が何よりも大切なのである。この環境の整備こそが、実はオープン化の本質である、というのが筆者の意見である。

生産過程の合理化や研究開発によって、物質使用の原単位が減少し、在庫が減り、無駄な重複生産が減り、単位当たりの所得を生み出すのに必要な物質の量が減少する。産業規模の拡大とともに、費用が低減していくこうした現象を、経済学では「収穫逓減」というが、視点を変えれば、物的資本の知的資本への転化現象とも見ることができる。

その意味では、大量生産による価格低減と、現実のアプリケーションの特殊性・多様性・流動性への対処という、両立しがたい要請を、みごとに解決する可能性を秘めた新たなパラダイムが「かぎりなく高速でシンプルなハードウェアと、かぎりなく柔軟で複雑なソフトウェアの組み合わせ」(西垣通『思考機械』ちくま学芸文庫、1995年)という、情報社会のパラダイム変換だとする見解は、十分に説得性のあるものである。

当然、将来とも社会的な物的産出は直線的に増加しないし、量産が一部の分野に限られるとなると、従来の生産方式では、個々の企業は物的産出物に付随する直接的付加価値のみでの収益性確保はきわめて困難だろう。「モノづくり」の基盤は、知的資源に多くを依存せざるを得まい。

21世紀型商品群の登場

社会の仕組みが情報化社会に傾斜するに従い、社会における物的再生産の枠組みが変容してくることは想像に難くない。将来は最小資源消費型製品群の登場などが考えられるが、それにともなって商品の性格も著しく変化する可能性がある。

以下で、予想される傾向のいくつかを示してみよう。

  1. 商品寿命の再定義→LCC(life cycle cost)と LCA(life cycle assessment)の意義と意味の再検討が必要
  2. 商品リサイクルの考え方の変化→社会的な資源の有効再利用、物的廃棄なしに機能追加・再生可能商品の登場
  3. アフターマーケット産業の成長→機能維持による商品寿命の長寿化への対応
  4. 商品サービスの個別化→個人情報の活用と電子対面販売の普及
  5. 補修産業群の勃興→機能不全商品の“病院システム”の発展
  6. 成長する商品、学習する商品群、自己修復機能をもつ商品群→いずれも超寿命製品、機能深化の仕組みを内蔵する商品群の出現

――等々が想定される。

新しい商品群は、消費者が物を物理的に所有するのではなく、機能を専有することに消費者ニーズを見出すべきで、その背後には膨大な情報処理能力を必要とするはずである。機能を喪失したり著しく低下させた物は、機能の賦活化を行ったり、再利用の方策を試み、最後の棄却段階では生産者が最終責任を負わざるを得なくなるだろう。

情報社会のパラダイム変換に対応して言えば、機能交換型・進化型商品としての電子情報による「無限の変更可能性」が賦与されたデジタル商品群の登場が予想される。

われわれは、いたずらに将来をペシミスティックに考え、うろたえる必要はない。時代の流れを敏感に嗅ぎ取る先見性と、将来に対するビジョンこそが何よりも重要なのである。