印刷 文化と文明の関わり(4/11)PDF
元凸版印刷株式会社 河野 通
家康は活字人間だった
駿河版活字による群書治要の出版
家康は1600年には伏見の円光寺で為政者の座右の書と言うべき「貞観政要」を、1616年には「群書治要」を出版させた。前者は「木活字」であるが、後者は「銅活字」で紀州徳川家に伝えられ重要文化財に指定され、現在は凸版印刷の「印刷博物館」に保存される。「銅活字」32000余本、「木活字」5800本程がある。この活字は朝鮮活字の系統と見られるが組版方法は全く異なりキリシタン版の影響も無視できないと考えられる。
天正少年使節団とキリシタン版
(バチカン教皇庁図書館蔵)
1590年帰国した「天正少年使節団」はグーテンベルク方式の活版印刷術と印刷機を持ち帰り、独自に作った漢字や平仮名連綿体の活字で、信者向けの書籍と、宣教師に日本のことを学ばせるための書籍の双方を作った。
現在38点が残っている。1614年、彼らはマカオに追放されて、日本でのグーテンベルク方式の印刷は一度、終わる。
1593年印刷されたキリシタン版のイソップ物語である。キリギリスと蟻の話はここでは蝉と蟻になっている。
江戸時代の印刷文化(1)
平和の到来とともに江戸時代には出版印刷文化が花開いた。元禄期には光琳や角倉素庵らによる「嵯峨本」にみられるように洗練された本が作られるようになる。内容も和歌や物語など趣味的なものへと広がる。印刷は庶民にも親しみのあるものとなった。今日の日本に見るあらゆるジャンルの出版物が出現した。初期の活字本から部数が増えるにつれて、木版による整版本へと変化した。初期コストはかかるが印刷が容易で再版しやすい。浮世絵のような画像の印刷、多色刷りも容易である。出版の中心も京都から大阪へ、さらに江戸へと移る。貸本屋の盛行が庶民への普及を助けた。
江戸時代の印刷文化(2)
1840年(天保11年)、三越チラシ、70万部が作成され、14万部が大阪中に配布された。この時代の日本の印刷物の特徴は豊富な図版と文字が自由に組み合わされていることで、これは世界中に例がなく、現在でも日本の印刷の特徴になっている。1990年代に画像情報のデジタル化が大きな技術的問題となったが、その時、これはジャパンプロブレムと呼ばれた。
江戸時代の印刷文化(3)
活字印刷の再導入
本木昌造の功績と幕末の開発競争
江戸期の大量に印刷物を作るには版木による整版のほうがむしろコストが安く納期に余裕があれば十分競争力があった。越後屋(三越)の引き札(チラシ)など70万部も印刷し、当時の大阪の家庭に何回も配ったとの記録がある。しかし、小部数を急いで印刷したい。例えば翻訳ものの医学書とか塾の教科書など数十部は整版では時間と費用がかかる。そこで幕末には活字による印刷が再び模索される。
本木昌造(1824~1875)は長崎の通詞であった。単なる通訳ではなく、今なら貿易商社のような役割だった。裕福で知識も豊富。坂本竜馬や勝海舟も彼に航海術や造船や武器の作り方を習っている。ロシアの船が伊豆半島で座礁沈没したときには通訳と造船差配をして、無事新しい船で彼らを国に帰している。そのため彼はロシア皇帝から後に金時計を貰っている。さらに上海からアメリカ人宣教師のガンブルを招き、漢字の活字の作り方を習う。1869年(明治2年)彼はそれを使い、すぐに活字を全国に売り出すと同時に印刷の注文も引き受ける。また新街私塾という学校も作り、理科系を中心にした教育にも乗り出す。彼の弟子の平野富治が品質管理と生産管理にあたり、大阪、東京に進出して明治維新に貢献した。新しい法律、制度、などあらゆる情報が早く安価に国中に浸透した。明治6年埼玉県は条例の布告をすべて活版印刷にした。それまでは版木を彫って印刷したので時間がかかった。この時期には、他にも漢字の活字を作ろうとした人がかなりいた。大鳥圭介、島霞谷、木村嘉平などである。
本木昌造の活字見本
活字の規格化、品質管理の徹底、コストダウン、販売網の確立、印刷まで兼業(サービス)の徹底