技に夢を求めて(7/13)PDF

和田龍児

尊敬する「稀人」本田巨範先生

正論貫き筋を曲げぬ人

工作機僕業界に籍をおかれた年配の経営者、技術者、研究者で、本田巨範先生のお名前をご存じない方は少ないと思う。

最近、大河出版から先生のこれまでの工作機械につぎ込まれた情熱の結晶、畢生の大著ともいうべき『工作機械特論』が発刊された。

含蓄のある内容に深い感銘を受けるとともに、これまでのご経験が滲み出る、これだけの内容豊富な工作機械の著書は世界に類例を見ない。

通常、われわれは先生を親しみを込めて「きょはん先生」とか、同年配の方々は「きょはんさん」と呼ばせて戴いているが、正確には「まさのり」とお呼びするらしい。

本田先生は、いつも瓢々として世の雑事に超然と対峙され、古武士を思わせる風貌と雰囲気をお持ちの方であるが、こと工作機械に対する情熱では、かつての業界ご意見番であった隅山良次氏(故人、元岡本工作機械製作所)や杉山一男氏(元日本工作機僕工業会副会長)らに負けずとも劣らぬものがある。

先生は、工作機械を愛することにー生を捧げられたといっても過言ではあるまい、もしも、先生に世の中で一番大事なものは何ですか?とお尋ねすれば、たぶん「う~ん、一番目に家内、二番目に工作機械かなー」、へたをすると「一番目に工作機械、二番目に家内かなー??」とおっしゃるに相違ない、妄言多謝。

本田先生は、大正元年(1912年)山口県に生まれ、東京帝国大学機械工学科を卒業。商工省機械試験所(現通産省工業技術院機械技術研究所)に奉職、昭和 34年(1959年)豊田工機株式会社入社、昭和 36年(1961年)には東京農工大学教授に就任され、昭和 51年(1976年)幾徳工業大学(現神奈川工科大学)教授を経て、昭和 63年(1988年)同大学非常勤講師を務められた。

工学博士、藍綬褒章、勲三等旭日中綬章授賞と、輝かしいばかりのご経歴の持ち主である。

もっとも、このようなごく世俗的な紹介のされ方は、本田先生の一番いみ嫌われるところではある。

ここでお断りしておかねばならぬことは、表題に稀人と勝手に名付けさせて戴いたが、決して先生を揶揄したり、あるいは誹謗したりするためではない。尊敬能わざる工作機械技術者の人先達としての尊称で、稀人の稀は占稀の稀である。

先生はとうの昔に古稀を過ぎておられるので、稀人であることは確かである。

先生の大学の同期のお一人である小林健志先生(元機械試験所、元ミヤノ相談役)によれば「畏友本田君は、現代の奇人といえます。ゴルフも麻雀も釣りもやらず、酒、タバコも嗜まず、工作機械のこと以外には全然興味がありません。強いて挙げれば、漢方薬を自ら煎じて飲むぐらいのことです...」(前掲『工作機械特論』より)との証言もある。

閑話休題。三河の生んだ偉人、徳川家康の趣味も漢方薬であった。家康はみずから薬草を栽培して、漢方薬を煎じて飲むことを好んだと伝えられている。静岡県の日本平にある東照宮にはその遺品が残されている、東京・文京区にあった小石川の薬草園はその名残といわれている。

さて、ここでいう稀大の特質としてまず挙げられるのは、自己の信念に忠実で、世俗的利害を超越して正論を押し通し、決して筋を曲げぬ頑固さにある。その点、本田先生はまさに稀人にふさわしい頑固さをお持ちになっておられる。

「技術者は衿持を持て」

経歴紹介でも触れたように、本田巨範先生は、実はかつての筆者の上司でもあった。昭和 34~35年のごく短い一時期に、先生は豊田工機に研究部長として奉職された。当時の先生は、機械試験所第二部長の要職にあられ、われわれから見ればまさに雲の上のはるかに遠い存在であり、工作機械の大先達であった。先生が吹き溜まりに舞い降りた白鶴のごとく、愛知県の片田舎、刈谷くんだりまでお越しいただくとは全く思いもよらなかった。詳しい事情は知る山もないが、先生の稀入たる所以の一一つと言ってよいだろう。豊田工機の木造の倉庫を一部改造した、すきま風だらけの汚い実験室で先生にご指導いただいた約 40年前の若いころの日々が、昨日のように鮮やかに思い出される。当時、先生は旋盤主軸の振動モードやベッドの振動特性、熱変位特性の研究など、現在でも大変に重要な研究課題に取り組んでおられたように記憶している。先生は松下通信工業と共同で真空管式電力増幅器で駆動する大型電磁加振機を開発され、また、その電磁加振機を使って、安井武司さん(現金沢大学教授)と共同で工作機械の振動特性の研究もされた。

さらにこれらの研究活動とほとんど同時並行で、工作機械主軸の熱変形特性についてもユニークな研究を進めておられた。この熱変形特性の研究は、ロッジ&シップレイの8尺旋盤をモデルにした東洋鋼鈑製コーハン 400形旋盤のヘッドに高温のオイルを注入するという独創的な方法を採用したものだった。熱変形では後年、吉田嘉太郎さん(現千葉大学教授)ら機械試験所グループも指導されたと記憶している。

昭和34年当時の豊田工機研究部は、部員3名ほどの、部とは名ばかりの寄せ集め集団だった。本田先生招聘のために急きよ、社内から要員を駆り集めた感のある泥縄的な部で、主要メンバーは東北入学へ研究生として派遣されていた先輩の鈴木憲二さん、京都大学の助手から移られた松村隆三さん、そして入社2年目の筆者の3入である。

当時、社内の雰囲気は鷹揚なもので、われわれのグループは、まあ一種の変人集団のように見なされていた。「学者先生は自由に何でも研究してください。あんたたちが何をしようと、会社には影響はありません。どうぞご勝手に」といった雰囲気であった。要するに、本音はあまり期待していないといった方が適当かもしれない。

そういうなかで本田先生からは、技術者にとって衿持をもつことがいかに大切であるかを教えて戴いた。筆者が先生について抱く一番強烈な印象だ。

現地・現物主義の実践者

会社では、フランスのジャンドルン社から技術導入した円筒研削盤の性能が市場で評価され、生産もようやく軌道に乗り出していたが、一方、当時の社内ではRU-40形大型万能研削盤のビビリ振動の除去・防止が大問題になっていた。

顧客からは連日連夜のクレームの電話連絡が相次ぎ、そのために現場作業者はビビリ除去に惨憺たる苦労の日々を過ごしていたが、一向にラチがあかない。

主軸が弱いからだとか、ベッドの強度不足とか、砥石台が揺れるとか、種々の原因が考えられたが、どれも決定的な証拠がなく、ああしたらどうだ、こうしたらどうだの類の素人談義が延々と続いていた。

この問題の解決が、発足早々のわが研究部に委託された、研究部にはかの本田先生がいらっしゃる。事は一刻を争う深刻な事態に陥っていた、みんなの期待に応えて、先生はすぐに現場で実機を検分された。やっと一安心、もう大丈夫と現場のみんなも胸を撫で下ろした。なにせ工作機械の神様が診て下さったのだ。ビビリはピタリと収まるだろうと楽観していたのである。

当時のクレーム処理はきわめて恣意的で、はなはだ非理論的、非系統的な取り組みでしかなかった。まして測定機器を現場に待ち込むなどということは希有の出来事であったのである。

先生はあくまでも現地・現物主義の実践者である。前述のビビリ除去にはまず機械の構造から徹底的に検討を加えることから作業にかかれ、とのご指示であったと記憶している。

加振機で怪しい部分の振動特性を徹底的に調べ上げ、補強対策を打つことになった。

補強部分は、砥石台の構造と送り機構が脆弱で、駆動モータの電磁振動が元凶であることが判った。

その問、一週間以上も経過してしまった。今では当たり前のことを当たり前に実施したにすぎぬが、現場の人間には分からない。

「何をもたもたしているのだ。やっぱり学者は駄目だ、一週間も経ってしまったではないか」との轟々たる非難の嵐が吹き荒れたが、先生はどこ吹く風ぞと、一向に気にもなさらず、とうとう最後まで当初に立てた計画を実施され、問題を解決に導かれた。その毅然とした態度は、まさに稀人の名にふさわしい。

昨今は何でも彼でもコンピュータの時代かもしれぬが、何加地に足の着かない非現地・非現物主義の技術者・研究者の類がやたらと多すぎるような気がしてならない。

この点、冒頭の先生の著書には、爽やかな一服の清涼剤の趣を感ずるのは筆者一人ではあるまい。

現代の工作機械の語りべともいうべき本田先生の、今後のますますのご健筆と、さらなる一層のご健康をこころより祈念してやまぬ次第である。